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さよなら特急「有明」 [紀行]

2021年3月20日の日記

先週,特急「踊り子」の185系での運用が終了してブログを書いたばかりです。

実は,うっかりしていて,特急「有明」も終わっていたんですね......[雨]

う~~ん,実はiruchanはもう,鉄道雑誌はほとんど読まなくなっていて,最近の情報にすっかり疎くなってしまっていました。NHKラジオの "鉄旅・音旅 出発進行" で聞いてびっくり,でした。ちなみにこの番組,音鉄用の番組ですが,結構面白いです

そうか....ついに「有明」も終わってしまったのですね....。確かに,九州新幹線が開通して,ほとんど意味がなくなっていた,と思います。一時は25往復あって,国鉄の臨時特急は50号以上の番号だったのを80号以上にした理由にもなったのではなかったでしょうか。もっとも,30分ヘッドになった代わり,3両編成なんて列車もあり,ちょっと寂しい感じもしたのは事実ですけどね。

通例,新幹線が開通すると在来線の特急は廃止になるのが普通ですから,今まで生き残っていたのが不思議なくらいです。最後は朝の上り1本だけ,と言う寂しい状況でした。もっとも,新幹線では停まらない駅とか,新幹線のルートが在来線のルートから外れちゃったところとか,本線から離れて支線に直通する特急とかは新幹線が開通しても残すべき,と思っています。

特に,「有明」は783系ハイパーサルーンがiruchanはお気に入りで,国鉄民営化後初の特急電車として華々しく登場しましたが,その斬新なスタイルは国鉄時代最後の185系同様,ちょっと衝撃を受けました。模型の国鉄民営化反対派なので,JR以降のものは買いませんけど,783系と地元の683系だけは買ってあります.....(^^;)。

でも,残念ながら,この電車のあとは例のデザイナーがデザインするようになり,大嫌いです。そもそも,「つばめ」なんて九州とはそれほどゆかりのない名前をつけた電車が登場した頃から,九州の電車はおかしくなった,と思います。783系もその後,そいつの手にかかって変な色になっちゃいましたね.....orz。

そういや,九州には20回くらい行きましたけど,その後パタリと行かなくなってしまいました。多分,電車が嫌いになってしまったからだと思います。

783系はいつか乗りたい! と思って九州に行きました。その頃の写真を紹介しませう。

有明783.jpg '89.3撮影
    八代から南は鹿児島本線も単線になります。

有明485.jpg 上田浦~田浦間にて

  485系「有明」には乗りませんでしたけど,貴重です。

ここはよく行きました。上田浦駅から線路沿いに20分ほど歩いたところです。線路を越えて海側に半島みたいに突き出た場所があり,そこから撮影しました。今は鹿児島本線じゃなくなって,第3セクター肥薩おれんじ鉄道になっているところです。もう,電車が走らなくなってしまっています.....。

並行在来線はJRの経営から切り離す,と言うが原則になっているのに,鹿児島中央~川内間はJRがそのまま経営しているのが不思議です。もちろん,儲かるからで,そこから先は儲からないから捨てた,ということなのでせう。

はやぶさ3.jpg 「はやぶさ」

西鹿児島行きは1997年に廃止になっています。東京~西鹿児島間を22時間かけて走行していました。iruchanはやはり,「はやぶさ」というと新幹線じゃなくて,これなんですけどね.....。やっぱ,東北新幹線は「はつかり」じゃないんでしょうか。車両故障で停まってはつかりがっかりって,また新聞に書かれるのが嫌でやめたのでせう。


ED76貨物.jpg ED76牽引貨物

       国鉄コンテナが懐かし~~~。

これ以前の写真もあるのですが,どうにも褪色が激しいので止めにします。国産F社のフィルムはどうもこの年くらいまでは褪色がひどく,乳剤かなにか,悪かったのだと思います。

ここは上田浦の駅からかなり歩くので,行きも帰りも駅前のお店で冷えたジュース(まだこの頃はペットボトル入りのお茶がなかった頃だと思います)を買って,帰りはホームのベンチに座って休憩,と言うのがいつもの定番でした。行きも帰りも買ったので,店のおばさんが笑ってた記憶があります。また,海を見ながら無人駅で次の列車を待つ.....なんて贅沢な時間だったのだろうと思います。昔はよかったなぁ~~~~。

上り有明.jpg 上田浦駅にて

そういえば,▲の写真は先頭はクモハ485形ですね。しばらくして真っ赤になっちゃうので国鉄色の写真は貴重です。
 
ひと駅手前の肥後二見~上田浦のあいだのポイントもよく行きました。午前中は順光で海をバックにきれいな写真が撮れました。

有明485-1.jpg

今じゃ,485系「有明」の写真はとても貴重だと思います。

有明783.jpg '89.9撮影

     783系はこんなにかっこよかった.....[晴れ]

☆湯前線

「有明」や「はやぶさ」,「なは」を撮りに九州へ行ったのですが,湯前線に行くのも目的でした。

急行くまがわ.jpg 八代駅。

急行「くまがわ」に乗って人吉へ行きました。パノラミックウィンドウの1500番台ですね。

湯前駅.jpg 湯前線・湯前駅にて
 
実は,このとき,JR湯前線が廃止になる半年前で,この駅に行くのも目的でした。できれば国鉄民営化前に行きたかった,と思います。国鉄バスが懐かしいです。湯前線は1989年10月1日にくま川鉄道に転換しています。
 
くま川鉄道は去年7月の豪雨で現在も不通になっています。1日も早い復旧を願いますとともに,被害に遭われた沿線,球磨川流域の皆様にお見舞い申し上げます。
 
湯前駅2.jpg キハ23がいたのですね~。
湯前駅1.jpg 国鉄スタイルの駅名標

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さよなら185系「踊り子」 [紀行]

2021年3月12日の日記

踊り子14号.jpg 伊豆急下田駅にて

今日でとうとう,185系 "踊り子" が引退します。いよいよ国鉄形電車特急も終焉です。国鉄マニアのiruchanはもうこれで撮影する対象がなくなっちゃって,残念です。といって,昔みたいにEF58やDD51など,古い車両を全国追いかけ回す,なんてことは体力的にできなくなっているんですけど......orz。

正直,185系は"踊り子" だけじゃなく,新特急 "草津" など,何度も乗っているのですが,最後にお別れ乗車をしておこう,と思い,出かけてきました。

185系は1981年登場で,iruchanはよく覚えているんですけど,国鉄最後の特急電車として,国鉄らしからぬ,色とデザインには衝撃を受けました。国鉄の特急というとクリームに赤,と言う定番カラーを打ち破り,緑色でしかも水平じゃなくて斜めにストライプが入っている,というデザインは衝撃的だった,と思います。

とはいえ,足回りは485系などと同じ制御器と台車で,特に台車はDT32/TR69なんて,165系以来の相変わらずのペデスタル台車で,正直,かっこわる~~って思ったのは事実です。車体も張り上げ屋根じゃなく,雨樋の見える国鉄形の車体だし,車内も普通のアルミデコラ張りで変わりばえのしない内装です。椅子も0系や117系みたいに転換クロスシートなんてのも,当時ですら特急とは思えない設備でした。

当時の国鉄は何を考えていたのか,特急と快速を同じ車両で兼用する,なんてことを考えていたらしく,事実,185系も間合いで東海道線の普通電車に使われていました。通勤電車としても使うので,特急なら固定窓が当然なのに,大昔の157系みたいに窓が開くなんて驚きの設計でした。それに,157系は1段下降窓なのに,185系は車体の腐食を警戒したのだと思いますが,1段上昇窓で,これもびっくりでした。

おまけに,同時に登場した117系は最初から通勤用だったので,デッキなしの両開き2扉なのに,185系は一応,特急用と言うこともあり,デッキ付の片開き2扉で,これじゃ,通勤時間帯はムリ,という構造で,事実,国鉄は通勤時間帯は使わないと言っていたのに,実際は東京18:00発なんて下り普通電車にもバンバン使われていました。これじゃ,途中駅では降りられへんちゅ~の~~[雨]

DSC_0366s - コピー.jpg リゾート21改装の黒船電車と

また,国鉄は極力,新規の設計部分のない設計でコストを抑えてどんどん車両を作るつもりだったらしく,そういえば,気動車の185系も同じ考えですね.....。

ついでに,一時は電化も検討した高山本線にもこの考え方の車両を投入するつもりだったようで,デッキ付2扉の特急形気動車の図面を見た記憶があります。

いずれにしても,特急と快速を同じ車体で,というのはどちらも中途半端で,結局,四国のキハ185系も持て余して九州に売却したくらいだし,"ひだ" もやめておいて正解だったでしょう。JRになってから,どちらも新規に特急用車両を導入したくらいですし.....。

う~~ん,なんかこう考えてくると,国鉄も末期なのに古い車両の置き換えのため, "踊り子" もそうですけど,北海道や四国に新車を投入しましたね....。むしろ,高山本線や函館本線,石勝・根室本線,予讃本線など電化しておいてくれた方がよかったのでは,という気がします。せいぜい30年ほどで取り替える車両よりインフラに投資しておいてくれた方がよい遺産になったのではないかと思います。

と言う次第ですけど,117系も185系もとうとう車齢が40年になり,経年劣化から取り替えとなっています。伊豆方面の特急も中央線用のE257系をアコモ改善 & 塗装変更して投入することになりました。

本当はiruchanもE257系が去年のダイ改で投入され始めたので,早く行かないと,と思っていたのですが,去年の夏くらいから公私ともに忙しく,おまけにいろいろ悪いことばかり続いて,とうとう,3月になってしまいました。

E257系踊り子.jpg 後継はE257系です。

"かいじ" に使われていたE257系はあまりにもブサイクなので嫌いなんですけど,まあ,この塗色ならそれなりにマシ35です。"E257にも衣装" ということでせうか.....。

ということで,3月3日(水)に出かけてきました。

最初,行き先は熱海にしようかと思っていたのですが,まだ伊東線に乗っていないことに気がついたので,伊東までにしようかと思いましたが,思い切って,伊豆急下田へ出かけることにしました。下田も以前,訪れたことがありますが,クルマだったし,今回は電車で行って,伊豆急と伊東線を乗り潰そう,と思います。やっぱ,北陸に住んでいると,こういう盲腸線(失礼!)はちょっと乗りにくいんですよね.....。

乗るのは,"踊り子" 14号にしました。伊豆急下田14:33発,東京17:30着です。これが一番空いていそう.....と思いました。行きの "踊り子" 9号だと,東京10:30発で結構いい時間帯ですから,混んでいそうです。  

熱海駅に8:00過ぎに着き,各駅停車を乗り継いで,10:00前には伊豆急下田に着きました。天気がよく,伊豆諸島がきれいに見えました。

残念ながら,コロナのせいで街は閑散としています。本当に困ったことだと思います。

さて,"踊り子" 14号の発車まで4時間ほどあるので,少し観光させていただきます。

☆玉泉寺

玉泉寺 - コピー.jpg 本堂は1848年建立です。

やっぱ,下田と言えば,ここですよね~~。ぜひ,一度,行ってみたいと思っていました。伊豆急下田駅から1.6kmほどありますが,バスは2時間に1本くらいなので,歩いて行きました。

1853年6月(旧暦),ペリー艦隊が江戸湾に現れて,大砲をちらつかせて幕府に開国を迫ったわけですが,大慌ての幕府は右往左往の末,なんとかかんとかお引き取りいただいたものの,「また来るからな」というわけで,半年後の翌年1月,再びやってきて,14カ条の日米和親条約が締結され,下田と箱館が開港されます。

ペリーの目的は捕鯨船への食料や燃料の供給のためで,特に日本と貿易をしよう,と言うものではなかったので,1856年8月,ハリスが来日して今度は日米修好通商条約を結ぼうとしました。

まあ,ハリスはペリー同様,高圧的な人物で,ミルクや牛肉を所望して村人を困らせたし,TVでもあまりよくは描かれていませんよね。特に,芸妓のお吉との話はずいぶん歪曲されているとは思いますが,これもそうです。

もっとも,ハリスは敬虔な米聖公会のクリスチャンで,この前,バイデン大統領が就任直後にお参りしたワシントンのアングリカン教会というのはここの教会なんですけど,日本側が女で外人を籠絡しようという意図にはすぐに気がついて,さすがに激怒したらしいですが,今でもこういうのはハニートラップと言って,諜報関係では普通のことだし,意外にもそこまで考えた幕府側の作戦には結構驚かされます。

まあ,お吉は当時,17歳だし,どうも肌に発疹があって病気だと思われ,実際には3日で解雇されていて,普通に世話役と看護婦の役割を果たしただけと思いますけどね......。当時の日本人は何らかの皮膚病を患っていたらしく,イザベラ・バードの "日本奥地紀行" にも出てきますけど,ちょんまげのはげた部分も,とてもきたなかったそうです.....orz。

日本での捕鯨の話はメルヴィルの "白鯨" にも少し出てきますが,日本近海が鯨の好漁場だったためですが,エイハブ船長やペリーもそうですが,アメリカは太平洋岸から来たわけではなく,彼らの出発点は米東海岸です。ペリーは東インド艦隊の司令官で,日本へはインドから来ています。

蛇足ですけど,グレゴリー・ペックがエイハブ船長をやっている,映画 "白鯨" でも描かれているし,最近読んだ,この本にも書いてありますけど,鯨の皮を船で煮て,溶けた脂を樽に詰めて持ち帰り,ランプに使用していただけで,後は全部海に捨てていたわけですし,鯨が大西洋にいなくなったから太平洋まで出てきて,そのため,近くの日本に薪や水を補給しろ,というのは厚かましいし,自分らは明かりのためだけに散々鯨を捕っておいて,今は鯨が減ったから捕るな,なんていうのはおかしいと思います.....。そもそも捕鯨禁止のきっかけとなったシロナガスクジラが増えないのは人間がミンククジラを捕らなくなって,ミンククジラが増えすぎ,シロナガスクジラのエサが減ったから,というのは正しいと思います。

それに,ペリーは提督と訳されてますけど,そもそもAdmiralではなく,Commodoreで,准将です。日本ではこの階級がないので提督と訳したのでしょうけど,Admiralは少将以上なのでおかしいです。そもそも東インド艦隊というのも,艦隊ほどの規模はないので,英語ではfleetではなく,squadron(戦隊)となっています。もちろん,江戸湾に来たのが4隻なのですから,とても艦隊じゃないのですけどね.....。

普通の国なら,沿岸に大砲を設置して警戒していたはずだし,入港時には港に兵隊に銃を持たせて整列させておくだけで十分で,好きなようにはさせないわけですが,何にも考えていなかった日本はアメリカの力の外交に屈服しちゃうわけですね.....。

とはいえ,ペリーが来たときに対応した日本の役人が素っ裸で腰蓑をまとっただけで手にヤリ持って出てきたわけじゃなく,頭に変なソーセージみたいなもの載っけてるけど,きちんとした身なりで整然とした一団で現れ,一応,通訳らしき人物を連れて現れたので,オッ,と思ったのは事実でしょう。

了仙寺.jpg 

了仙寺。こちらは1635年開山です。1854年5月,日米和親条約の細則を定めた下田条約締結の場所です。

その後,玉泉寺に初代米国総領事館を開設し,1858年6月に同条約が締結される,と言うわけです。もちろん,よく知られているように,日本には関税自主権がなく,領事裁判権により米国人の犯罪裁判を米国領事が米国法に基づいて行うとするなど,日本の無知につけ込んだいわゆる不平等条約です。こういう条約を押しつけたハリスはどうにも好きになれません。

それと,世界史でも学ぶし,最近も本で読んだのですけど,Graham Allisonの "Destined for War" には1793年,大英帝国から清に派遣されたマカートニーの話が出ていましたが,英は通常の外交儀礼で特使を派遣して皇帝(乾隆帝)に領事館の開設を要求するのですが,清は全く取り合わず,例の三跪九叩頭の礼を拒否した,マカートニーは門前払いされちゃったのですが,アメリカは「あれじゃあかん」と横で見ていたのではないか,と思いました。もっとも,英は後のアヘン戦争やアロー号事件など,今度は武力に訴える方針に変えるのですけど,アメリカも文明の低レベルの国には力で要求すればよい,と言うのを学んだのではないでしょうか。

もっとも,この清の尊大無礼な態度は,中国が世界の中心であり,貿易を要求されても,対等な関係でなく,あくまでも朝貢であるならば,という考えに基づくものですが,このときの対応が後の中国の植民地化につながったのではないか.....と思います。むしろ,江戸幕府のように,たとえおっかなびっくりでも相手に敬意を払ってまずは話を聞く,という姿勢が日中のその後の運命を分けた,と考えるのはどうでしょうか。

ディアナ号墓.jpg ディアナ号遭難者の墓

玉泉寺の北側にある,墓所です。iruchanもお参りしてきました。

1854年10月,プチャーチンはディアナ号に乗船して下田に上陸します。ペリーが去って半年後のことです。ディアナ号は2000tを超す大型艦で,500名近い乗員が乗っていました。もちろん,来航の目的はペリーに倣って日露和親条約を締結して,北方の国境を画定し,日本の開国を迫るものでした。巨大戦艦に乗ってやってきたのもペリーに倣ってのことでしょう。もっとも,すでにクリミア戦争が始まっていて,カムチャツカ半島にある母港のペトロパブロフスクが英仏軍により攻撃されることが予想されているのに,最新鋭の戦艦を日本に向かわせた意図はなんだったんでしょうね。でも,プチャーチンはペリーの高圧的態度とは異なり,終始紳士的で,日本に敬意を払い,日本側交渉役の川路聖謨が感銘を受けたことも知られています。

ところが,11月4日朝10時頃,推定M8.4の安政東海地震が発生し,下田地域も6~7mの大津波が襲い,ディアナ号も破損してしまいます。32時間後,同規模の安政南海地震が起きているのも有名です。船の修理のため,戸田港へ回送中,船は沈没してしまいます。

しかしながら,乗船者に3名の犠牲が出ているにもかかわらず,ロシア側は医師を陸側にも派遣し,被災者の治療を申し出たそうです。

12月21日に日露和親条約が締結され,日露国境はウルップ島と択捉島の間と決め,樺太は国境を定めず,日露共同管理? としました。この日が今の北方領土の日(2月7日)となっています。また,領事裁判権は日米和親条約と異なり,双務的で,日露平等になっています。

一方,哀れにもロシアに帰れなくなったプチャーチンは,戸田港の船大工の協力を得て日本初の洋式帆船ヘダ号を建造し,翌年3月,下田を出港し,6月には無事にロシアに帰還します。ヘダ号は,日本の造船技術の向上につながったことはよく知られています。

iruchanはこの辺り,吉村昭の短編 "洋船建造" や司馬遼太郎の週刊朝日の記事で読んだので知っているのですが,そもそもヘダ号は改めて調べていると100tほどの小型船。そりゃ,そうですよね~~。船大工がそう大きな船を作れるとは思えません。それに,皇帝に謁見して結果を報告しないといけないでしょうけど,こんな小さな船じゃ,インド洋,喜望峰を回ってペテルブルクへ帰れるわけがない,と思ったら,帰還航路はペトロパブロフスクです。

そこから陸路でペテルブルクへ.....といってもペトロパブロフスクからは今でも陸路ではモスクワはおろか,どこへも行けないようですから,結局,ペトロパブロフスクからは船で沿海州あたりに移動しないといけないので,とりあえずニコラエフスクへ移動し,そこから陸路でシベリア鉄道に接続するところまで移動して汽車に乗り換えて,と言うところのようです。

でも,この頃じゃ,まだシベリア鉄道はウラル山脈を越えた辺りまでだし,陸路でのロシア横断は大変だったはずです。実際,wikiを見ても,ペテルブルクにたどり着いたのは11月のようですし,この37年後,皇太子のニコライ(のちのニコライ二世)がウラジオストクでシベリア鉄道の起工式をやるのですが,ウラジオストクまでの移動はもちろんまだ鉄道は開通していないので,馬車なんですけど,陸路ではなく,船でした。ちなみにその途次,大津で受難するわけですが.....。それにしてもやっぱロシアは大変......。

また,このヘダ号は500人を乗せるには小さすぎ,結局,第1陣は米船フリート号で帰国し,第2陣がプチャーチンをはじめとして48人がヘダ号で帰国しています。おそらく,一番危ない? 小型のヘダ号で帰国したのは,船長としての責任と,助けてもらったお礼と言うことがあるのだと思います。プチャーチンはいいやつだな.....。

残る最後は独船グレタ号を雇って帰国を図りますが,英国船に拿捕され,捕虜となってしまいます。彼らが無事にロシアに帰国したのはクリミア戦争終結後のことです.....。

プチャーチンは日露友好に貢献したとして,1881年に明治政府から叙勲されていますし,娘さんが戸田村を訪れてお礼と寄付をしているのも知られていますね。

この後,下田漁港でおいしいキンメダイやえぼ鯛,アジの干物をお土産に買って,ペリー上陸の碑や下田公園まで行って,開国記念碑や了仙寺,開国博物館を見て伊豆急下田駅に戻りました。干物は子供らが喜びました[晴れ]

県境.jpg どうもすみません.....。国道135号にて。

☆ペリー上陸の碑

ペリー上陸の碑1.jpg

☆下田公園

開国記念碑.jpg 開国記念碑

1953年5月に下田開港100周年を記念して建立されました。てっぺんに白頭鷲がいますし,揮毫したのは吉田ひつじじゃなくて,なんと吉田茂......。もう占領下じゃない時代ですけど,いろんなところにこれでもかとばかり日米友好と書かれた碑があったり,なんかアメリカの属国化を自画自賛するような印象を受けます。さすがに親英米派? のiruchanでもこれじゃ,鼻白んじゃいます......。

思わず,最近読んだ,佐々木譲の "抵抗都市" を思い出しちゃいました。

日露戦争に日本が負け,日本はロシアと表向き対等の二帝同盟を締結し,霞ヶ関にロシア統監府が設置され,通りの名前がロジェストヴェンスキー通りとか,ロシア風になっていたり,都内至るところに日露の英雄をたたえる銅像が建っていたりします......。

         ☆          ☆          ☆

伊豆急下田駅には駅弁があります[晴れ][晴れ]

本当は金目鯛の塩焼き弁当が食べたかったのですが売り切れ。しまった.....[雨][雨]。でも,このひれかつ弁当はボリュームがあって,カツもおいしいし,ケチャップであえたスパゲティもとても懐かしく,うれしいお弁当でした。

ひれかつ弁当.jpg ひれかつ弁当


ひれかつ弁当1.jpg とても丁寧なお弁当です。

包み紙つきの包装もとてもいいですが,厳密に言えば,日本鉄道構内営業中央会に所属していないと駅弁とは名乗れないので駅弁の表示がなく,正式には駅弁ではないのですが....コンビニ弁当食べるのは絶対に嫌なので,駅でお弁当が買えるのはとてもうれしいです。今度はなんとか金目鯛弁当買おうっと...

伊豆大島.jpg 

海と伊豆大島がきれいでした....。こんな景色を見ながら駅弁を食べる,というのはサイコーですね[晴れ]

これほどはっきりと伊豆大島が見えることは少ないそうです。ラッキー[晴れ]

☆おまけ‥‥‥特急「踊り子」の写真

54-1s.jpg 東戸塚付近

1984年,まだ登場したての頃の撮影です。残念ながら,当時の国産のフィルムは褪色が激しいです....。

18-1s.jpg

同じ場所で,雪が降った日に撮影しました。残念ながら後ろ向きですけど....。1994年1月撮影。

10年経つとこれだけフィルムの質が向上します。おなじF社のフィルム(この会社の製品だとフルムかな)なんですけどね.....。

☆おまけ

24s.jpg "踊り子" 50何号か。東京駅

14系普通座席車による客車 "踊り子" も結構運転されていました。東京機関区のEF58が使われることが多かったです。一度,EF58 61牽引の "踊り子" で湯河原まで乗ったことがあります。1984年撮影。

25s.jpg EF58 93(東)。横浜駅


183系踊り子.jpg

183系1000番台による "踊り子" たぶん,18号だと思います。場所は湯河原かな?

田町電車区に皇族用に配置されていた,183系1000番台3編成が "踊り子" 運用に入っていました。こっちの方が国鉄特急らしい,と思うのは私だけでしょうか? 北陸に住んでいるiruchanは頭の補助灯がないのはどうにも間が抜けている気がするんですけどね。

183系は最初は3往復だったようですが,この頃は1往復のみだったはずです。東北新幹線のリレー号用185系がご用済みになって転属してくるとお役御免になりました。

☆もっとおまけ

サウンドを収録してきました。伊豆急下田を出て,伊東線の網代駅発車までです。残念ながら,鉄道唱歌のオルゴールの音が小さいですけどね.....。


踊り子14号 モハ184-215(2021年3月3日)

MT54の爆音とコンプ音がいいですね~~~[晴れ][晴れ]

やっぱ,モーターはブラシがついていないヤツはダメだな~~~!!

伊豆急下田を出て,すぐに稲梓駅で各停と交換するんですね.....。コンビニ袋をビリビリやっているやつはiruchanじゃありません。だからコンビニ弁当は嫌いなんですよね......(^^;)。

最初,このブログにアップしていたのですけど,SSブログは最大10MBまでなので,mp3は48kbpsにしないとアップできませんでした。そのため,キュルキュル音が目立つのでYou Tubeに投稿しました。オリジナルデータはPCMなんですけどね.....。


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謹賀新年&石北本線廃止予定駅~北日ノ出,将軍山~ [紀行]

2021年元旦の日記

どうも皆様明けましておめでとうございます。

昨年はほんとうに災害やコロナ禍で悪いことばかりでした。被害に遭われた皆様,ご病気の皆様にお見舞い申し上げますとともに,本年がよい年でありますよう,お祈り申し上げます。

雪551レ(北日ノ出~当麻'20.2.3)1.jpg 雪551レ(北日ノ出~当麻)

☆北日ノ出駅

残念なことに,この北日ノ出駅は3月のダイヤ改正で廃止になります。一昨年,訪問していますので,写真を載せておきます。

北日ノ出2.jpg

北日ノ出1.jpg 北日ノ出駅

駅の南側は工業団地になっていて,比較的,会社や事業所が多く,人が多い場所なのですが,さすがにこの駅を通勤で使う人はそう多くないようです。

北日ノ出.jpg 小さな待合室

北日ノ出3.jpg 古ぼけた木製のベンチが懐かしいです。

今春,石北本線では,北日ノ出のほか,将軍山,東雲,生野の各駅が廃止となります。瀬戸瀬も結構,大きな集落の中にあり,大丈夫と思っていたのですが,廃止対象だったようです。地元自治体が維持することになり,存続が決定しました。東雲駅は訪問し損ねたので残念です。

☆将軍山駅

次は将軍山駅。いつも "オホーツク" が爆走して通過するのを車内から見ていました.....。

ここも比較的,駅の北側,国道39号線までの間にそれなりに人家があって,通学生がいるのではないかと思っていたのですが....。

将軍山2.jpg 隣は当麻です。

将軍山.jpg 駅の周りは何もありません。

    吹きっさらしで,さぶ~~~~[雪][雪][雪]

将軍山3.jpg ちゃんと待合室があります。

将軍山1.jpg ソファまである!

残念ながら,東雲駅は訪問し損ねました。コロナのおかげで,今年は訪問できそうにありません。

       ☆          ☆          ☆

では,皆様,今年こそよい年でありますように[晴れ]


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宗谷&石北ラッセル&廃止予定駅ツアー~宗谷本線の廃止予定駅を訪ねて~  [紀行]

2020年2月16日の日記

前回,宗谷本線と石北本線のラッセル車の撮影記を書きました。

けふは廃止予定の駅を訪問した記事を書きたいと思います。

今から3年前,2016年11月にJR北海道は利用者減などを理由に「10路線13線区は単独で維持困難」と表明する文書を発表しました。

すでに,2016年12月5日に留萌本線の留萌~増毛間が廃止されましたし,昨年4月1日に石勝線の新夕張~夕張間は廃止されました。その後も,札沼線の北海医療大学~新十津川間や,つい最近では日高本線の鵡川~様似間の廃止が決定しています。

増毛や夕張はiruchanは学生時分に行っているんですが,残念ながら,写真が1枚もありません。当時,リバーサルフィルムが高くて,まだ廃止予定ではなかったので写真を撮らなかったのだと思います。デジカメ持っていたら,なんて思っちゃいます。増毛駅は「駅STATION」という映画にも出てくるし,駅前の様子もよく覚えているんですけどね....。新十津川は2015年に訪問しています。

そのほか,根室本線の富良野~新得間も廃止が決定していますし,残りの宗谷線や石北線,釧網線など8線区は公的支援を受けて存続,と言う方針のようです。

ただ,宗谷本線や石北本線は特に人口が希薄な地域でもあり,駅の廃止が相次いでいます。女子高生が1人だけ利用していた旧白滝の駅などが廃止され,たくさんあった白滝のシリーズも,とうとう,1駅を残すだけになってしまいましたね。

さて,JR北海道は2016年10月に廃止予定46駅を発表し,宗谷本線の廃止予定駅は,旭川から,北比布,塩狩,北剣淵,日進,北星,南美深,紋穂内,豊清水,天塩川温泉,筬島,歌内,糠南,雄信内,安牛,南幌延,上幌延,下沼,雄信内,安牛,南幌延,上幌延,下沼です。石北本線では生野が上がっています。

宗谷ラッセルの名寄行き雪551レは旭川発は14:11ですし,上りの雪372レは天塩中川が11:30頃発車なので,これらの列車を撮影しようと旭川あたりから出かける場合,ラッセルが走行する昼前に筬島までは訪問できそうです。

と言う次第ですが,iruchanは今回は名寄からスタート。まずは日進から筬島まで訪問することにしました。ただ,ここで失敗。日進と北星は割に近いんですが,道は連絡していなくて,国道40号線からは別々にアプローチする必要があります。それに,宗谷本線はこの付近は40号線とは天塩川を挟んで反対側で,1駅ずつ回っていると時間がかかります。それに,名撮影地の東恵橋からは近いし,ラッセルの撮影も名寄まではすぐなのでここまででしょうから,東恵橋で撮影したあとにしよ,と思って日進はあとにしたのですが,東恵橋からは冬は道路は通行止めで行けないことを忘れちゃってました。名寄側から訪問した方がよいです。

☆日進駅

日進3.jpg 

緑色の待合室がとてもいい雰囲気です。日と進の間にあるマークは名寄市の旧市章ださうです。

日進4.jpg

奥に人家も見えますし,名寄のひとつ北の駅なので,利用者がいるのでは,と思いますが,JR北海道の地域交通を持続的に維持するために,というHPに出ている駅別利用者のデータを見ると,1日0人らしく,廃止予定となっています。

日進2.jpg

この駅から,次の北星駅へは線路沿いに道はないので,国道に戻らないといけません。

☆北星駅

ここは秘境駅というのがふさわしい,本当に寂しい駅でした。日進は名寄のひとつ北で,周りに人家もあり,周辺は畑のようですが,ここは山の中です。周りには人家が1軒見えるだけです。おまけに,道路にはなにも標識はなく,カーナビがなければ行けそうにありませんでした。その上,"目的地周辺です。ガイドを終わります....." って言ってくれたって,全然駅らしいものが見えません。どこが駅やぁ~~?

北星1.jpg 

   かろうじてカーブミラーで駅とわかります。

このあたり,と言うことはわかったので,線路から眺めると,なんとかワンマン運転用のカーブミラーが見えたので,そこが駅だろう,と思いました。駅はこの踏切を越えて,左(東)側からアクセスします。

北星2.jpg ホーロー看板がすごいです。

出入り口の扉が外れやすく,注意書きがありました。道路からは50mほど離れたところですが,ホームも道路もきちんと除雪されていました。ありがとうございます。

北星3.jpg 

駅名標はもうずいぶん直されていない感じです。 "にっしん" のところに何か貼ってあったような跡がありますが,智東駅の修正跡だと思います。智東駅の廃止は2006年3月18日のことです。東恵橋から東,宗谷本線の踏切を越えてしばらくすると冬季通行止めとなっているので,冬に智東駅跡へは行けません。実際,wikiを見ると,道路が冬季通行止めとなるため,列車は晩年は駅を通過していたようです。

北星4.jpg 北星駅

駅の利用者はJR北海道の調査では0.2人/日と日進駅の0人より多いようです。5日に1人,ということなら,おそらく,秘境駅目的の旅行者だろうと思います。

東恵橋からすぐ北なのですが,道路はないので東恵橋からは訪問できません。このあたりの駅は次の智恵文駅を目指して天塩川を渡り,そこから訪問するとよいと思います。智恵文駅周辺は数軒人家があるだけで,郵便局もあるのが驚きですが,天塩川を渡る前には大きな集落があり,中学校もあります。

智恵文駅2.jpg 智恵文駅('19.3.1)

この駅は廃止対象ではありません。国道からは天塩川を渡る大きな鉄橋(天智橋)があり,そこを渡ってさらに奥に駅があります。国道からは5kmほど離れています。何でこんなに離れているのか,と思ったら,元は国道はこの集落で直角に曲がって美深方面へ行っていたようですが,今はバイパスができて,美深市街も迂回しています。

この駅を中心にして,北星~南美深あたりを訪問するとよいです。

いわゆる貨車駅ですが,外装はきれいなアルミ材で覆われて修復されています。中もとてもきれいでした。

☆智北駅

北星駅から線路沿いに戻って,智恵文駅を越えてしばらく走るとあります。

智北1.jpg 

プレハブみたいな四角い待合室がかわいいです。線路脇の道路からよく見えます。1日の利用者は2.4人となっています。

智北2.jpg 

駅名標もおそらく,民営化後,ずっと交換されてないと思います。

☆南美深駅

この駅はJR北海道が発表した廃止予定46駅に入っていますが,地元が存続を要望し,廃止は免れたようです。確かに,周囲に人家もありますが利用者は0.4人/日と智北駅より少ないです。

南美深1.jpg 

      緑の壁と三角屋根がかわいい~。

南美深2.jpg

       線路は築堤上で,待合室はこの下で,少し離れています。

南美深3.jpg

次の美深駅は美深町の中心駅ですが,2016年5月以降,無人化され,みどりの窓口も廃止されました。特急が止まる駅なのに無人とは,とあきれます。石北本線の留辺蕊駅もそうですね。現在は町が委託を受けて,簡易委託駅となっています。そういえば,名寄駅は有人ですけど,営業は17:40までで,稚内や遠軽も同様です。最終の特急が停車するまで営業できないのでしょうか。

☆紋穂内駅

紋穂内4.jpg いたわしや~~。

先ほどの智恵文駅同様,いわゆる貨車駅ですね。国鉄時代末期に古い木造の駅舎を取り壊し,代わりに余剰となった車掌車などの貨車を置いていきました。なんて無茶するんや,と思いましたが,トイレもあるし,密室になって,冬は割に風をしのげそうで,案外,よかったのかもしれません。ただ,さすがに30年以上経つので,老朽化が著しいです。

紋穂内2.jpg カレンダーがありました。

鉄電が置いてあります。列車が遅れたときなど,一番近くの駅を呼び出して聞くことができます。今の時代,携帯で聞けるし,何らかの情報表示装置も携帯の回線を使ってテキストを送るくらい簡単にできますから,もっとサービスをよくしてもよいと思います。USBやRS-232C接続の表示器と携帯受信器を取り付け,固定IPアドレスにできれば,仮想COMポートを使って,遠隔地から制御できます。オレにやらせろ,と思いました。でも,まあ,そんなお金もないか.....。

誰かが置いていったカレンダーがありました。1月のままだったので,2月に替えておきました。

紋穂内5.jpg 紋穂内駅構内

紋穂内3.jpg

☆豊清水駅

実は,ここは訪問できませんでした.....。

なんと,カーナビに案内させていて,"ここを左です" といふので,最後の国道40号線から左に曲がろうとしたら.....。

なんと雪の壁でした.....orz。

冬は駅までの道が除雪してないんですね....。さすがにかんじき履いて歩いて行くわけにも....。

ただ,wikipediaを読むと,この周辺では少ない交換可能駅であり,冬は保線区の方が常駐しておられるようなので,駅まで行けなくはないはずです。そのせいか,立派な木造駅舎が残っているようです。ということは,もし,駅が廃止になっても,奥白滝みたいに駅舎は残ると思われます。

おそらく,北側からの道が除雪してませんでしたけど,日進駅同様,南側からアプローチすればよかったのかと.....。ちゃんと調べておけばよかった~~.....orz。

と言う次第で,また次回です。

☆天塩川温泉駅

天塩川温泉1.jpg 

     観光地らしい赤い屋根の駅舎です。

もとは1956年設置の南咲来仮乗降場です。国鉄時代に地元からの請願で天塩川温泉仮乗降場となり,民営化時に仮乗降場は駅に格上げになったので,天塩川温泉駅となりました。

駅舎はとても立派で,内部はFRPの椅子がたくさん並んでいて,暖房もされていました。

と言うことで観光客の利用もあるのでは,と思ってしまうのですが,先ほどのJR北海道の調査では1日の利用者は0.4人と,ほとんどないようです。

せっかく暖房されているので休憩しようかとアルミサッシ製の扉を開けようとしたら....凍結していて開きませんでした......orz。仕方なく,ガラス越しに内部を撮影させていただいたら,たくさん保線区の人が来られて,踏切の除雪をはじめたので退散しました。本当に冬の北海道は大変です。ほとんど利用者がいないのに,駅のホームもきれいに除雪してありますし,待合室は暖房もしてあります。

天塩川温泉2.jpg

☆咲来駅

もう隣は音威子府です。さすがに雪が多く,駅前もちゃんと除雪されていますが,どうやら一晩で結構積もっていて,うっかりはまり込んじゃうと出られなくなってしまうので,道にレンタカーを停めて少し歩いて訪問しました。周囲は明治時代には駅逓も置かれた大きな集落で,メインストリートもあって,結構人家も多いです。

咲来1.jpg 味のある黄色い駅舎。

    ホーロー看板の駅名板がいいですね~~。

咲来貨物駅.jpg 咲来貨物駅?

1982年まで貨物扱いをしていたので,1本だけ線路が残っているのでしょう。形式は不明ですが,有蓋車が1台,置かれていました。

咲来2.jpg 駅名標は傾いています....。

音威子府駅でおいしいそばを食べてから,ラッセルを撮影するため,筬島駅を訪問しました。

☆筬島駅

筬島1.jpg ここも貨車駅でした。

紋穂内駅と違い,智恵文駅同様,アルミサッシ製の外装材で覆われていて,とても外観はきれいです。

筬島2.jpg

日進駅同様,1日の利用者は0のようです。

この駅前の道を少し天塩中川駅よりへ進んで,踏切からラッセルを撮影しました。そこから,ラッセルを追いかけて南へ反転です。名寄から北の宗谷本線の廃止予定駅探訪はここまでです。残念ながら,秘境駅として知られる北剣淵の駅は和寒高架橋で撮影したあとに寄ればよかったのですが,もう日が暮れて,あきらめました。行っておけばよかった......orz。

       ☆          ☆          ☆

さて,翌日は名寄以南の廃止予定駅を訪問します。今日は石北ラッセルを撮影する予定で,雪551レは旭川発車14:48ですから,午前中は駅探訪です。

☆北比布駅

当麻町と比布町は隣ですから,当麻駅前のまさ屋旅館さんでおいしい朝ご飯を食べてゆっくり出かけます。30分もあれば,北比布駅に着きます。ただ,線路が道路と斜めに交わっている関係で,比布町内の宗谷線の駅を訪問するのは面倒でした。どこもまともに直線で移動できないんですよね.....。

北比布1.jpg 北比布駅

小さな待合室が目印です。駅の周囲は見渡す限り,なにもありません.....。畑,と言うか,iruchanも大好きなお米ゆめぴりかを作っている田んぼかもしれません。雪が積もってちゃ,どっちだかわかりませんけどね。

北比布2.jpg 板張りのかわいい待合室

北比布3.jpg 蘭留駅も訪問しました。

☆比布駅‥‥‥‥もちろん,この駅は廃止対象じゃありません。

iruchanはこの駅にずっと行きたい,と思っていましたが,やっと訪問することができました[晴れ]

もちろん,ピップエレキバンのCMに登場するからで,あのCMはとても懐かしいです。

フジモト(当時の社名)の好々爺然とした例の横尾会長さんと,女優の樹木希林さんがそれこそ漫才みたいな感じでのんびりと連作のCMをやっていましたが,1980年,この駅に登場します。もちろん,iruchanは昔から鉄だったのですが,さすがに北海道に,"ぴっぷ" なんて街や駅があるのは知りませんでした。

ひょうひょうとした会長さんと樹木希林さんが北海道の小さな駅のホームに立ち,"とうとう来ましたね...." ってやっていたCMです。

あの頃,iruchanは中坊でしたけど,学校行くと,みんなあの会長さんのまねをみんなやっていて,面白かったです。とうとう,樹木希林さんも故人になってしまい,とても残念ですが,駅に行くことができました。

そういや,確か,比布駅のCMが好評だったので,北比布駅を舞台にした続編もあったような気がしますが,You Tubeを探しても出ていません。確か,あったよな~~~??

比布2.jpg 比布駅

なんかこうやって見るととても寂しい駅に見えちゃいますが,それはiruchanが人がいない時を見計らって写真を撮ったからで,しょっちゅう,人の出入りがありました。また,中はとてもきれいで,カフェもあり,土産物を売っていますし,老人会の人が会合を開いていました。駅がまさに街の中心になって人の集まるところとなっていることを実感できる,素晴らしい駅だと思いました。駅というところはこうでなくてはいけませんね!

駅自体はCMの頃の駅舎ではなく,2016年に建て替えられたばかりのようです。でも,コンクリート製の味気ない駅舎にするのではなく,地元の木材を活かした美しい駅舎は北海道の伝統的な駅の姿を残し,感激しました。

ここのカフェでアイスを食べ,土産のストラップや記念入場券を買って帰りました。このあとは当麻に戻って昼ご飯をいただいて,石北ラッセルを撮影しました。

きたぴっぷストラップ.jpg 素敵なお土産[晴れ]

駅名標ストラップは比布のほか,北比布,南比布もありましたけど,やっぱ買うんだったら北比布でしょう。スタンプもありました。DISCOVERJAPANの懐かしい切符は来駅記念証です。昔はよかったな~~~~。

比布1.jpg 1364D

なんか,この日(2月3日),JR北海道さんは何かやらかしちゃったようで,宗谷本線のダイヤが乱れていました。11:06発のなよろ4号やサロベツ1号が運休となったようです。どおりで,サロベツ2号を撮ろうと近くの踏切で待っていても,来ないのであきらめたところでした。どうやら工事の影響で,信号がうまく動作しなかったようです。快速なよろ4号が運休らしいので,保線区の人が周知に来ていましたけど,今時,携帯回線を使ったり,線路沿いにLANを敷設しておけば,簡単に情報提供できると思うのですけれど....。サロベツ2号は折り返しの1号が来ないので運休,だったのかもしれません。

☆南比布駅

残念ながら,3月6日付の北海道新聞によると,この駅も廃止が決まったようです。ほかにも北剣淵や下士別,石北線の東雲駅も地元が承認したようで,廃止決定のようです。

いずれもまだ訪れていないので,次は訪問したいと思っています。

南比布.jpg かなり雲行きが怪しいです......。

南比布3.jpg 上は国道40号線です。

跨線橋のすぐ下にあり,周囲には保育所もあったりして,それなりに乗降はあるような感じなのですが....。1.8人/日だそうです。

☆塩狩駅

三浦綾子の小説でとても有名なこの駅も廃止対象駅に含まれています。ここは今年ではなく,去年訪問しています。

行くのはとても大変で,国道から狭い道を延々と走らないといけませんし,うっかり,小さな標識を見落として,駅から遠くへ行っちゃったのを覚えています。最後,駅前は多少スペースがあり,車を停めることができますが,やはり山間の狭い駅です。

塩狩駅.jpg 塩狩駅

訪ねてみると駅舎の中から人の声がします。蘭留や石北線の当麻,伊香牛や中愛別もそうでした。

JR北海道では,冬場の除雪のため,保線区員を派遣し,1日中,除雪にあたらせています。当麻など,平野部の駅だとアルバイト? らしき若い学生さん風の人が一晩中,常駐していますし,実際,除雪要員募集のポスターを前回,見ましたが,さすがに塩狩などの山の中だと社員がやっているようです。

それにしても寒い中,山間の寂しい駅で一晩中,待機していないといけないとは本当に大変です。それこそ,北海道じゃ,あっという間に雪が積もってしまってホームに人が立てなくなりますしね。危険ですが,転換不能を避けるため,ポイントの除雪などもやっておられるのでしょう。もちろん,ポイントには冬にはヒータがついていますけど,通過列車が雪や氷の塊を落としていくこともあるので,ポイントの除雪も必要です。

塩狩駅2.jpg

ここから山道を延々1時間ほど登るとラッセル撮影のためのお立ち台があるそうなのですが.....。

塩狩駅1.jpg

サロベツ1号(塩狩 '19.3.1).jpg 

     サロベツ1号(2019年3月1日撮影)

ここで宗谷ラッセルは交換するはずなのですが,昨年は運休でした....[雪][雪]

☆生野駅

石北本線は旧白滝や上下白滝どういう表現じゃや金華駅の廃止のあと,生野駅も廃止予定のようです。何度も8071レの撮影で訪れていますが,ここも秘境駅のひとつとされています。その割に国道のすぐそばだし,確かに人家はないけど,周りは牧草地です。

生野駅は何度も訪れていますが,ブログで紹介したのはこちらです。もう9年も前か,と思いました。

    ☆          ☆          ☆

ようやく,これでiruchanも念願のラッセル車の走行写真が撮れましたし,宗谷本線の廃止予定駅も訪ねることができました。

それにしても,考えさせられることも多かったです。

北海道はやはり自然が非常に厳しく,特に冬の線路や駅の設備維持が非常に困難である,と言うことです。一晩中,誰かが駅に待機していて,駅前やホーム,ポイントなどの除雪をしなければならないのは大変です。

そのくせ,もはや駅の利用者は1日1人以下,と言うところも多いので,来るかどうかわからない利用者のために1日,待機している,と言うだけでも大変ですが,公共交通機関として,必要な仕事です。本州ではそんなことやっていないでしょう。

最初に書きましたとおり,JR北海道の経営環境は少子高齢化による過疎化の進行により,もはや限界であると言うことは明らかです。冒頭に書いた,報告書のPDFの後半に書いてありますけど,明治期や大正期に建設された老朽化した橋梁やトンネルが多いうえ,赤字のため,基本的な保守作業もできないほど経費節減を徹底しているため,いつまた大きな事故が起こってもおかしくない,と言う状況だと思います。

ちょうど,国鉄時代末期の状態に酷似していると思います。その上,下手に民営化したため,収益の確保は至上命題であり,以前,JR北海道は破綻した英国のRail Trackに似ていると書きましたけど,ある意味,株主の顔を気にせず税金で保守ができた,国鉄時代の方がマシだったのではないか,と思います。

結論として,iruchanはJR北海道の再国有化が必要であると思います。必要なインフラの整備や保守は税金で行うべきです。道路や飛行場のほか,一般の道路の除雪や保守は税金でやっている訳だし,誰も文句は言わないのですから,鉄道も当然だと考えています。そもそも,国鉄時代はほとんどなかった高速道路が今や四通八達して,しかも,民主党が無料化してしまったせいで,北海道の高速道路の末端部は無料です。石北線に至っては,年末にとうとう遠軽まで開業し,遠軽~旭川間は無料で通行できます。無料で通行できる高速道路を作るくらいなら,鉄道の保守を税金でやるべきでは,と思います。

とはいえ,本来,鉄道事業というものは黒字路線の利益や,大手私鉄など,不動産開発やデパート,スーパーなどの経営で儲けた利益で保守をしているのが実情で,こういう経営形態が普通なので,安易に税金の投入については反対論があるでしょう。

実際,国鉄時代だって,新幹線や山手線の収益で北海道や四国の鉄道整備や保守をしていたと思います。

そもそも,国鉄民営化って,単に地域分割しただけで,こういう収益の還元構造をなくしてしまったことに問題があると思います。北海道や四国の鉄道が経営で自立できるわけがありません。

今こそ,国は国鉄の分割民営化の失敗を認め,北海道と四国の国有化をすべきです。四国の経営も北海道ほど,おおっぴらに公表されているわけではありませんが,相当苦しい状況のようです。

その点,同じ時期に民営化したNTTの方はそもそも1985年の民営化の時点で,政府保有株が30%あり,それなりに経営に口を挟める状態でスタートした上,10年後にはグループの再編を含む法改正が行われたことはご存じのことと思います。

これは単に役人の天下り先を確保する,と言うのが大きな目的だったのでしょうが,ドコモの収益を固定電話維持に利用すべく,利益を還元する仕組みを作るのが目的だったでしょう。また,ドコモや地域2社の意思統一と利益確保のため,持ち株会社が設立されています。逓信省の通研に源流がある研究所も持ち株会社傘下となり,グループの基礎研究に役立っています。

JRはこういう法改正がなされず,民営化当時は認められていなかった,ということもありますが,持ち株会社も設立されていません。もちろん,経営は各社独立で,意思統一はおろか,収益のプールは当然なされていません。

2019年度の本州3社の営業利益を合計すると1兆2000億円にもなります。このうち,1%でも2%でも北海道や四国に還元される仕組みがあれば,線路や設備の保守に使えるでしょう。ちなみにJR北海道の2019年度末予想営業損益は390億円の赤字です。本州3社の黒字のわずか3%で穴埋めできる,と言う数字です。

正直,iruchanも北海道の鉄道の国有化,などという時間を逆戻りさせるような政策には反対です。そもそもJRの間だけで,▲の計算通り,全体としてきちんと収益が上がる構造なのは明らかですから税金の投入は必要ありません。JR会社間で収益を調整すべきです。もはや日本が昔のように豊かな国ではなくなりつつある現在,税金を使うことには抵抗を感じます。とはいえ,本州3社+九州が民営化と同時に民有化された現在,もはや国が関与して改革させることはできません。もちろん,巷間ささやかれている,JR東日本によるJR北海道の救済合併も絶対にあり得ません。JR東は完全私企業なのですから,巨額赤字の企業買収は株主代表訴訟の格好の標的になるでしょう。

JR北海道は2030年度末の北海道新幹線札幌開業を心待ちにしているようです。

とはいえ,整備新幹線というのはiruchanも頭にきていますけど,建設費は国と地元が折半し,JRに貸し付ける,と言う仕組みです。JRは当然,建設費を施設使用料という名目で返済していくのですが,JRの経営に配慮し,経営の範囲内で負担,ということになっていて,黒字になりません。つまり,JRにとっては儲かりはしないが,かといって赤字にはならない,と言う仕組みになっていて,JR北海道も,新幹線が開業したから,といって黒字になるわけではありません。

整備新幹線は昭和40年代に,大赤字の国鉄に新幹線を建設させよう,と言うことで考えられた仕組みで,もはやとうに時代遅れのクソみたいなスキームだと思います。長崎新幹線で佐賀県が負担増を嫌ってもめていますが,このクソみたいなスキームの問題が佐賀で噴出している訳ですが,巨額の負担を強いられるのに,時間短縮効果は15分ほどとごくわずか,という長崎新幹線は佐賀県にはなんのメリットもなく,怒りは当然だと思います。整備新幹線は,当然,将来の営業主体である,JRが大部分の建設費を負担して建設すべきものです。もちろん,並行在来線の経営もJRが責任をもって行うべきですし,私企業なら,投資は自社の責任の範囲,というのは資本主義の大原則であり,新幹線を建設しても赤字の予想なら,投資しなければいいだけの話です。

そもそも北海道新幹線って,JR北海道は札幌~函館間の都市間輸送分だけの収入を得られるだけで,儲かるのはJR東日本だけです。

一方,iruchanの地元では,並行在来線を切り捨てた上,老朽化した交流電化設備を廃棄できた,北陸新幹線はJR西から見ればウハウハという仕組みで頭にきています。おまけに当初は建設費節減のため,米原回りの計画だったのに,大阪まで独立した線路を税金で敷いてもらえ(と書いておきませう!),それからは東海の顔を伺いながら経営しなくても,北陸回りで東京まで新幹線を走らせることができる訳なので,もう,これほどおいしい話はない,と言う状況だと思います。おまけにJR西は北陸新幹線のターミナルは新大阪じゃなく,大阪にするつもりだと思います。うめきたに広大な土地が余って(と言うよりこのために余らせている)いますしね。JR西の経営幹部はもう,笑いが止まらない,という状況だと思います。その上,最近新聞に載っていましたが,氷見,城端線のLRT化を提案しているようですが,これも在来線の切り捨てが目的なのは明らかです。富山港線で味をしめたのでせう。

じゃ,北海道新幹線もそう行くか,というと全然,そうはならないようです。

さすがに東京~札幌を新幹線で行く人は少なく,開業後の収益も40億円程度の赤字がすでに予想されています。それじゃ,あかんやん! と思います。北海道新幹線の全通後は今まで以上に厳しい経営となることが,すでに今から予想されているわけです。

と言う次第で,やはり,北海道の鉄道の国有化が必要であるとiruchanは考えています。

      ☆          ☆          ☆

先ほどの高速道路無料化もそうですけど,消費税還元のためのキャッシュレス決済の還元制度について,予想以上にキャッシュレス決済の店が増え,予算が足りず,総額7000億円もの追加予算措置をとるとのこと。オリンピックにしたって,当初,3000億円の予想がとうとう1兆円超えになったことが明らかになっています。オリンピックはコロナウイルスの蔓延で,開催できても,中国はおろか,欧米からの参加はないでしょう。だから,キャッシュレス還元のカネでもう1回,オリンピックが開けるな.....。

そんなバカなことに使うお金があるんかい!! ってiruchanは憤っています。

南海トラフ巨大地震で西日本が崩壊し,また,1707年の宝永地震の際,49日後に連動して富士山の噴火が起こったように,南海トラフ地震と富士山の噴火の連動を指摘されていますが,南海トラフ地震と富士山の噴火が連動し,10年以内に確実に発生するとされる,首都直下型地震が起これば,日本は滅亡の危機に瀕します。30年後,日本の首都は北京になっているでせう。これらの未曾有の災害が目の前なのに,そんな税金の無駄遣いが許されるのでしょうか。

高速道路の無料化を推進したバカの民主党は消えましたが,自民党に政権が戻っても,かつて,"みぞうゆう" と読んだアホな財務大臣は今も健在です。

英米でもアホな政治家が牛耳っています。もはや世界中,どこもかしこも衆愚政治,という状況ではないでせうか。やはり最後はiruchanは尊敬する人の言葉で締めくくりたいと思います。

"民主主義は最悪の制度である。ただし,これまでに試されたすべての制度を別にすればの話であるが。"

                Winston Churchill  (1874.11.30~1965.1.24)


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宗谷&石北ラッセル&廃止予定駅ツアー~ラッセル&たまねぎ列車編~ [紀行]

2020年2月4日の日記

生田原や当麻,静内やアレンデールとか,寒いところ大好きなiruchanは今週末,厳寒の北海道へ行つてかやうな写真を撮つてをりました。

雪362レ('20.2.2音威子府).jpg 雪362レ(音威子府)

昨年,北海道のラッセル車を撮りに出かけたのですが,見事に運休で,3日間,すっぽかされちゃいました....orz。

今年はリベンジしたいと思います。

とはいえ,今年は超暖冬と言っていいくらいの暖冬で,全然雪が降りません。これじゃ,今年はラッセルは無理だな,と思っていました。

しかし,さすがにDE15の老朽化が目立ち,新型車への置き換えが近い,との噂がもっぱらですし,早めになんとか撮影したいと思っていました。

ということで,12月早々には1月末の週の飛行機の航空券を予約したのですが.....。北海道はおろか,全国的に雪が少なく,こりゃあかん.....という感じですね。

いちおう,iruchanも北陸の人間なので,雪の降る時期というのは大体,クリスマス前と成人の日(もちろん,1月15日です),節分前だと思っています。大体,これくらいの日に一度,雪が降って,と思っているので,今回,1月末にしました。昨年,仕事の都合で,2月末にしてしまったのは失敗でした。どうやら帰宅した次の日くらいからまた走っていたようなのですが....。

ところが......。

なんと,1月30日(木)出発の予定で羽田~オホーツク紋別行き全日空375便を押さえていて,実際,月曜日には東京など,太平洋岸で雪が降り,その後,その低気圧が北海道へ行って十勝やオホーツク海沿岸で大雪をもたらしたのですが,今度はドカ雪過ぎ,予約していた,375便が欠航になってしまいました.......。

万事休すで,全日空から,前日の夕方4時半頃,メールが来て大慌てです。

今回,初めて紋別空港から北海道入りすることにしました。今まで,新千歳や女満別や函館空港からでしたけど,一度,紋別空港へ行ってみたい,と思っていました。ここでレンタカーを借りても,名寄や当麻へは近いですし,生田原へ行くにも近いです。常紋へは女満別空港が一番近いですが,紋別からでもそう遠くありません。

と思っていたら,今回の低気圧は北海道の南岸で発達したため,東風が吹き,太平洋岸とオホーツク海沿岸でドカ雪になり,結局,次の金曜日も全日空便が欠航となってしまいました。

結局,渡道できたのは1日の土曜日です。やれやれ~~[雪][雪]

ただ,今回の雪はやはり先ほどの地域だけだったようで,当麻のいつものまさ屋旅館の女将さんは,「一体どこの空港か」と思ってらっしゃったようです。実際,当麻へ行ってみると雪は昨年より少ないくらいで,名寄でも旅館の主人が「今年は1/3だな」と言ってました。

と言う次第で,今年もラッセルは不安でしたが.....なんとか,初日から走っていました。

       ☆          ☆         ☆

土曜にオホーツク紋別空港に着きました。

着いてみてびっくり。小さい空港ですね~~~。そういや,ジェット化前の南紀白浜空港がこんな感じだったようですけど,小さな空港ビルにびっくり。

オホーツク紋別空港'20.2.1.jpg 紋別空港に着きました。

でも,小さな空港というのはとても好きです。ローカル空港マニア,と言う人がいるらしいですけど,気持ちはわかります。はるばる遠くまで来たんですし,そこが立派で大きな空港でいっぱい人がいて.....というのは面白くない。やはり旅情を誘う,小さな空港というのは非常に感じがいいです。

ニッポンレンタカーさんで,車を借りて名寄に向かいます。

このとき,初日,国道239号の天北峠を通って雪351レを士別あたりで迎え撃つか,国道273号線の浮島峠を通って愛別あたりで石北の雪551レを迎え撃とうか,ずいぶん迷ったのですが,結局,宗谷を優先して雪351レにしました。宿も名寄にしましたしね。もっとも,愛別~名寄間はGoogleマップだと70kmほどなので,雪551レを撮ってからでも19時には名寄に着くと思いますけどね。

ただ,心配したのは雪の峠。やはり北海道の雪道は怖いです。うっかり,ホワイトアウトになったり,吹きだまりに突っ込んでスタックしたり,スリップしたりすると終わりですからね....。あとで聞いたのですが,浮島峠はそう大した峠じゃなく,安全に通れる道のようです。

着いてみて,オホーツクラインを走ると,やはり雲は重く立ちこめ,海からは嵐のような強風と雪がたたきつけてきます。おぉ~~~~~っ!!

オホーツクライン.jpg 

    真冬のオホーツク海は荒れています.....

湖畔橋.jpg 名寄本線の遺産です。

旧名寄本線・富丘~渚滑間に残る湖畔橋梁です。道路の橋も同じ名前のようです。前後の築堤も残っていました。寒~~っ!

恐る恐る慎重にハンドルを握ってレンタカーを走らせます。

幸い,興部から内陸に入ると,風はやんできますが,今度は積雪が増えてくるのでやはり要注意です。

そういえば,このルートは名寄本線のルートですね! 30年前,iruchanはここを気動車で通っています! 1989年5月1日に廃止になっています。興部の駅を出たとき,雪の上にキタキツネがいたのを覚えています。

ちなみに浮島峠の方は渚滑線ですが,こちらは一足早く('85.4.1),廃止になってしまっていました。駅舎の残ったところもあるようなので,探検したいのですが,冬では雪が積もって見学しにくいですし,何より道が怖いので今回は見送ります。名寄本線のルートだと,西興部や上興部駅は駅舎が残っているようですし,下川駅跡にはキハ22が保存されているようです。一の橋駅の駅名標が残っているのは車から見えました。

13時前に空港を出て,16時くらいには士別に着いていないといけませんが,120kmほどあるので,2時間以上かかることを考えると,駅舎の探検は見送らざるを得ません。ちょっと残念。

さて,予想では和寒跨線橋で撮影できるかと思ったのですが,ちょっと厳しく,士別跨線橋にて偵察することにしました。残念ながら,誰もいません.....嫌な予感がします。

ただ,到着予想時刻17時の10分ほど前に士別駅の場内信号機が注意現示をしました。定期列車はこの時間はないので,おそらく,ラッセルだと思います。ビデオとカメラで待ち構えていますと.....予想通り,17時直前にやってきました。

雪351レ('20.2.1士別).jpg 雪351レ(士別)

残念ながらISO1600にして粒子は粗いし,ぶれちゃってます.....orz。

宗谷本線のラッセルの運用は旭川から雪351レで下ってきて,名寄で一度,車庫に入り,再び0時過ぎに雪361レで天塩中川を経て南稚内に向けて出発する運用です。名寄まで回送して,先は運休とは考えにくいので,おそらく,今夜はラッセルは走ると思います。

なお,宗谷ラッセルも石北ラッセルも旭川の出発時刻が今年は変わっています。去年はそれぞれ15:00,13:50頃の発車だったのですが,今年の冬はそれぞれ14:11,14:48くらいのようです。また,▼の雪361レの名寄発の時刻も,20分ほど繰り下がっているように思いますが,それ以外の列車は変更ないようです。

どうも宗谷ラッセルの場合,和寒でサロベツ4号と交換するのは間違いないのですが,その前に塩狩で3326D,3323Dと追い抜き,交換をしていると思います。Twitterに,宗谷と石北ラッセルの時刻表の画像を載せている人がいますが,それは去年のダイヤですのでご注意ください。

サロベツ3号('20.2.1名寄).jpg サロベツ3号(名寄)

やはりキハ261系の勇姿も撮っておかないといけませんね。去年,この列車に乗って稚内に向かったのです。

周りの気温は......名寄駅前の看板によると,ー12.3℃。おぉ~~寒~~~[雪][雪]

雪361レ('20.2.1名寄).jpg 雪361レ(名寄)

さて,おそらく今夜は運転と踏んで,夜,23時半頃,名寄駅に再び向かいました。奥の車庫にラッセルが入庫しているのが見えますし,エンジン音や排気が見えるので,アイドリングはしているようです。

23:50頃に出庫,0時過ぎに#3線に入線しました。最終の335Dが#1線に入るので,#3線のようです。

ということで,0:19に雪361レの発車を見送って旅館に戻りました。気温はさらに下がってー15.2℃。この日,名寄の最低気温はー19℃だったやうです。

さて,翌日は北に向かいます。11時過ぎに音威子府に着くくらいでよいのですが,おそばを食べたいので早めに着こうと思います。名寄を8時過ぎに出発です。距離的には50kmほどの距離です。本当は天塩中川でつらら取りのため30分ほど停まるので,もう少し北まで行くと,2回撮影できますが,さらに30kmほど先なのであきらめました。

途中,廃止予定駅を訪問しつつ,北上します。

       ☆          ☆         ☆

目的は音威子府駅の日本最北端の駅そば。iruchanは駅のそばが大好きなんですよね......[晴れ]

30年前,北海道のローカル線を乗り潰していたとき,音威子府駅は通ったのですが,急行「天北」に乗っていて,下車しなかったので,そばは食べませんでした。その頃からここの駅そばは有名で,ぜひ食べたかったんですけど.....。

そこで,去年,ここを訪れたときには店が閉まっていて,食べられませんでした。どうも店主のおじいさんが病気をされて,店を閉めておられたようです。

音威子府駅そば1.jpg 

  営業は10:30~14:00で,水,木休のようです。

去年,4月25日から営業を再開しておられるようです。本当に30年ぶりに食べることができました。

音威子府駅そば.jpg やっと食べられました[晴れ][晴れ][晴れ]

うわさ通りの黒い麺と,おいしいだしの利いたつゆがとてもおいしかったです。天玉そばとかけを食べました。ありがとうございました。

音威子府で,51D「宗谷」を駅撮りしようかと思ったら不穏な案内放送が.....なんと,今日は車両故障のため,「宗谷」は車両を振り替えて運転しており,8分ほど遅れて到着の見込みとのこと。ダイソンじゃなかった,ダイソーでもない,代走は珍しいです。

51D 宗谷.jpg 

  キハ183系5200番台による代走「代え宗谷」です。153系じゃありません。

何が来るのか,と思ったらキハ183系5200番台のノースレインボーエクスプレスが代走していました。キハ283系だけじゃなく,キハ261系の運用も厳しい(だから「宗谷」,「オホーツク」の札幌直通が減った),と聞いていますが,代走しないといけないほど厳しいとは驚きです。車体傾斜できないので,曲線通過速度が低く,それで遅れているんですね。

さて,腹ごしらえをしたら,少し北に向かって,筬島駅へ。ここも廃止予定駅になっています。この駅前を少し走って,踏切から撮影します。

雪362レ('20.2.2筬島).jpg 雪362レ(筬島)

なんと,しっかりウィングを広げてプランジャーも下ろして雪を搔いているではないですか[雪]

さすがに北海道と言っても,ラッセル車はかなり回送同然の日が多いようですし,せっかく雪かきしていても吹雪いているとか,そう言う次第で,このように晴れてちゃんと雪かきをしている姿,というのはそう撮れないようです。本当に来てよかった~~。

やはり,定時だと12:00頃の通過ですが,先ほどの「宗谷」の遅れのせいか,12:07通過でした。

さて,この写真を撮ったら追っかけ開始です。まずは音威子府駅すぐ南の音威子府跨線橋へ....。

さすがに鉄の皆さん大集合。筬島駅は3人でしたけど,ここは20人くらいいらっしゃいます。ここで撮影したのが冒頭の写真です。到着後,すぐに来ちゃったのでビデオは頭が切れてしまっていますし,写真もすぐ横の木が写っちゃってます。意外にラッセル車って,速いんですね。音威子府で5分程度,停車するようなのですが,それでも追っかけは大変です。

さて,そんな具合なので,途中でどこか撮影する,と言ってもここから先はほとんど停車駅がないので,時間を稼げません。恩根内の跨線橋で撮影する人もいるようですが,iruchanはあきらめて東恵橋へ。

ここはチョ~有名撮影地ですね。去年,一度,偵察していますので,道はわかります。

途中で撮影をあきらめたので,早めに到着して場所取りができました。

雪362レ('20.2.2東恵橋).jpg 東恵橋にて

左側しか,雪かきしてませんが,それなりに雪が飛んでいる写真が撮れました。

さて,iruchanはここで追っかけ終了。ほかの皆さんはすっ飛んで行きましたけど.....。さすがに名寄までで追いつけるとは思えませんので。次は,下りの雪351レまで待ちです。

この間,廃止予定の日進駅を訪問しました。なお,この橋を越えて直進すると日進駅は近いのですけれど,この先,行ってみたら通行止めでした。ちゃんと看板が出ていたし,去年来たときにわかっていたのですが,忘れていました.....。おそらく,近くにある,住友ゴムの試験場に通勤する人のために途中まで除雪してあるのだと思います。スタッドレスタイヤの試験なんかをしておられるんでしょうね。

サロベツ1号.jpg サロベツ1号

また東恵橋に戻って,サロベツ1号を撮りました。何人か,車の中で待っている人がいましたが,この列車を撮るのはiruchan1人。皆さん,先ほどの代走「宗谷」の折り返しまで待ちなんでしょうか。

雪351レ('20.2.2和寒跨線橋)s.jpg 雪351レ

最後は昨日と同じ,雪351レ。和寒高架橋まで南下したので通過時刻は士別より40分ほど早く,まだ日があります。16:20通過でしたけど,和寒で交換する,さきほどの折り返し「宗谷」が代走のせいで10分ほど遅れているはずなので,定刻より遅いと思います。

       ☆          ☆         ☆

さて,今日のところはこれでおしまい。当麻駅前のまさ屋旅館さんで寝ます。親切な女将さん手製のトマトとブロッコリのグラタンとポークソテー,銀ダラの一夜干しのごちそうをたくさん食べて温かい風呂に入って寝ちゃいました....。本当は臨8074レを中愛別でバルブ撮影しようかと思っていたのですけれど.......Z~z~。

翌朝は,一応,北海道のラッセル車は先ほども書きましたとおり,午後からの運転なので午前中はヒマです。そこで,廃止予定駅巡りをして,昼ご飯食べてから石北ラッセルを追いかけます。

まずは桜岡~当麻間の踏切から。15:10頃通過と見ましたが,少し遅かったです。もう来ないか,と思っちゃいました。写真のデータを見ると,15:18のようです。

雪551レ(北日ノ出~当麻'20.2.3).jpg 雪551レ(桜岡~当麻)

  今日は運休か,と少し焦りました.......。もう,雲行きが怪しいです。

さすがに石北の方は,平野部なだけあって,あまり雪が積もっておらず,回送状態です。でも,天気はやばそう。昼から大雪の予報になっていて,すでに細かい雪がさっきからずっと降り続いています。

雪551レは当麻で4544Dと交換するので,15:20~32まで停車するようなので,駅撮りも考えましたが,少し遅れているので,将軍山で先回りするのが大変でした。なんとかもう1回撮影して,今度は中愛別へ。

愛別と中愛別でそれぞれ交換するようですが,残念ながら,中愛別の跨線橋で撮影するのは厳しそうなのであきらめ,愛別近くの国道脇から撮影しました。これが最後です。

雪551レ(中愛別~愛別'20.2.3).jpg 中愛別~愛別

ようやくこれで撮影終了です。意外にラッセル車は速く,普通だと交換待ちの間に追い越せるくらいです。もっとも,鉄の皆さんは国道を80km/h以上でぶっ飛ばして追いかけているようですけど.....雪道だし,気をつけてください。

先ほどから細かい雪で吹雪いています。16:18過ぎに撮影していますが,もう限界のようです。あきらめて当麻に帰着します。

☆たまねぎ列車

さて,翌朝は4時に起きて,当麻から瀬戸瀬へ向かいます。今日はラッセルはあきらめ,8071レたまねぎ列車を追いかけます。

何で瀬戸瀬か,と言うと.....過去の経験から冬はここくらいが限度で,丸瀬布より西では日が昇っていないので撮影は難しいからです。瀬戸瀬の通過は7:00頃なので,日が出て,撮影可能です。

当麻からは96kmだし,今は紋別旭川自動車道が開通しているので,遠軽瀬戸瀬ICまでなら1時間15分ほどのはずです。5:00に出れば楽勝で6時半には着くな,と思ったのですが.....。

ところが......。

やはりかなりの雪。当麻から愛別ICまでは道道140号経由の方が近く,カーナビもこの道を指示しますが,昨晩,帰るときに通ったら,かなりの雪だったのでこの道は通らない方がよさそうです。おとなしく国道39号経由で愛別ICへ。これは正解だったと思います。道道140号は少し山越えがあり,冬の朝は危険です。

と言うことで無事に紋別旭川自動車道に乗ったのですが.....。

中越あたりで除雪車につかまってしまいました.....。延々と国境を越えて白滝付近まで,30km/hで徐行しました。

ようやく遠軽瀬戸瀬ICで下りたら時間ギリギリ。なんとか,湧別川の鉄橋で撮影できました。

8071レ(瀬戸瀬~遠軽'20.2.4).jpg 8071レ(瀬戸瀬~遠軽)

  山の途中まで陽が当たっています。とてもきれいでした。

さて,今度は遠軽でスイッチバックする間に安国跨線橋へ。ここもきれいな写真が撮れますね。

8071レ(安国跨線橋'20.2.4).jpg 8071レ安国跨線橋

iruchanだけ,たった1人で撮影しました。DF200の正面は[雪]だらけ。おまけにものすごい雪煙です....。

安国でも上りオホーツク2号と4650Dと交換する間にもう一度,生野付近の踏切で撮影しますが,また大急ぎで西留辺蘂へ。常紋越えも意外に速いです。

8071レ(2号線踏切'20.2.4).jpg 2号線踏切(金華~西留辺蘂)

ここはDD51時代に来たことがありますが,DF200の時は146キロポストへ行っていたりしたので,久しぶりです。さっきまで晴れていたのに,雪雲が流れてきて,吹雪いています。

とても親切な方がいて,先着しておられたのに,ここで撮影していいよ,ということでビデオカメラをその方の前に置かせていただきました。大変ありがとうございました。

さて,iruchanはここまでです。この先,8071レは東相内で交換するので先回り可能ですが,あきらめて空港へ行くことにします。

       ☆          ☆         ☆ 

時間は余裕があるので,ここから先はゆっくりです。途中,遠軽駅へ寄って記念入場券を買って帰ろうと思います。ついでに中湧別駅跡も覗いていきます。

金華峠.jpg 金華峠から

国道242号線の金華峠付近は快晴。今日は大雪の予報でしたが,オホーツク海側は多少,晴れ間があるようです。でも,すぐ横を走っている鉄道の方は常紋峠ですが,道路の方は金華峠って名前が違うのがおかしいですね。そういえば,石北本線の石北峠も,道路の方は北見峠と言うし,変ですね。一度,昼に高速道路じゃなく,国道39号線の北見峠へ行ってみたいと思っていますけど。道路の方にも石北峠,というのはあって,こちらは同じ39号線の層雲峡付近の峠です。ややこし~~。

遠軽駅で記念入場券を買って,湧別へ。残念ながら,遠軽駅の北一そば屋さんは廃業しておられました。"全部のせ" と言うそばを食べたかったんですけど.....。聞くところによると,店主のおじさんが亡くなられたそうです。ご冥福をお祈り申し上げます。いつも,たまねぎ列車を遠軽でバルブ撮影するときにお世話になりました。ありがとうございました。

遠軽駅もキオスクも閉店し,寂しくなっていました。どこもキオスクを閉めるようになってしまっていて,残念です。そもそもJRが直営でやっているわけではないし,経費削減にはならない,と思うんですけどね.....。駅に売店がないのは困ったものだと思います。名寄駅もキオスクが廃止になっていました。

再び,国道242号をたどってオホーツク紋別空港へ。途中,中湧別駅跡を見てきました。

中湧別駅.jpg 中湧別駅

30年前,iruchanはここで湧網線から名寄本線に乗り換えて紋別へ行きました!!

駅が残っているのはとてもうれしいです。資料館も開設され,ヨ3500なども保存されていますが,残念ながら冬は閉館。また夏に来ることにしませう。今度来るときは道の駅かみゆうべつ温泉チューリップの湯も併設されているので,ゆっくり湯につかって見学しようと思います。

それにしても先ほどから雪がひどく,国道242号も前の車のテールライトが見にくくなってきていてやばそう。

なんとか空港に着いて,空弁でも買って機内で食べよう,と思っていたのですけれど....。

予想はしていましたが,紋別空弁として東京などのデパートで売られている空弁は現地では売られていません。それなら空弁と名乗っちゃいけないだろ,と思いますけどね。駅弁の場合は,路線の廃止や駅利用者の減少に伴って道の駅などで売られているものも増えてきていますが,駅で売られている,あるいはいた,ものが駅弁だし,厳密には駅弁と名乗るには一般財団法人日本鉄道構内営業中央会に属していないと駅弁と名乗れません。と言う次第で,紋別空港の空弁,というのは詐欺ではないかと思います。

まあ,立腹しても仕方ないし,そもそもそういうことは予想していたので,空港で牛すじカレーを食べて腹ごしらえして帰途につきました。前回は稚内駅の四大かに弁当という駅弁を機内で食べて大満足でしたけど.....。

オホーツク紋別空港除雪'20.2.4.jpg 外はすごい雪です。

外はすごい雪。今は晴れていますが,昨日からの積雪は50cmくらいあるようで,除雪機がフル稼働して除雪中でした。大雪の予報だったので,下手すると帰りも欠航かとびびっていましたが,主翼の除霜作業で10分ほど遅れただけで無事に飛び立ちました。

iruchanはエンジニアの端くれなので知っていますけど,除霜作業をしなかったため,翼表面の氷のため,翼断面の形状が変わって失速し,離陸途中に墜落した飛行機事故があります......。

       ☆          ☆         ☆ 

と言う次第で,今回は無事にラッセル車も撮れたし,とてもいい旅行でした。次回,今度は廃止予定駅の記事を書きたいと思います。

帰宅後,今年随一の寒波が来襲し,日本中,ようやく冬らしい寒さが続くようになりました。コロナウィルスの問題もありますし,皆様くれぐれもお身体ご自愛ください。


2020年2月29日追記

とうとうアレンデールへ行ってきました。松たか子さんや神田沙也加さんの歌があまりにも素晴らしくて大感激! でしたけど,ストーリーはちょっとがっかりでした......[雪][雪][雪]


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いるちゃんパリへ行く [紀行]

2019年9月22日の日記

今週,ゐるちやんはかやうなところへ行つてをりました。

Eiffel Tower3.jpg 朝,7時半です。

やっぱり,サマータイムなのでパリも8時を過ぎないと完全に明るくなりません。塔に登るには9時以降でないと登れません。仕事なのですぐに退散しましたが,朝焼けのエッフェル塔というのもきれいです。月がきれいでした.....。

CDG RER.jpg RERのCDG空港駅

シャルル・ド・ゴール空港からパリ市内へはRERという近郊電車が便利です。料金は€10.30です。B線に乗ればパリ北駅など,パリ市内に行けます。切符は市内までで,地下鉄に乗り継いで最初に下車するまで有効なのも便利です......が,土,日は運転していませんのでご注意ください。

何を考えとるんじゃ.....。

実はiruchanは帰国便は土曜だったので,結局,帰りはパリ北駅からタクシーにしました。実際,タクシーから見ていましたが,線路の上に保守用車が載っていたので,土,日は線路の補修をしているようです。また,CDG~パリ北駅間はTGVも走っていて,ユーロディズニーやベルギー,ロンドンへ行けるのですが,この区間のみは乗れません。

なお,タクシーはガイドブックによれば,€50(セーヌ川右岸),€55(セーヌ川左岸)の定額制と書いてあるのですが.....土,日やイベントのある時期などは€80~100を請求されることもあるようで,ご注意ください。Uberの普及もあり,タクシー業界も厳しいようです。

なお,外務省からはB線のCDG行きの車内で強盗が発生したりするようなので,できるだけ急行や快速に乗ってください,と警告が出ています。iruchanは夕方,各停で北駅に行きましたけど.....。ロンドンでもヒースローからは地下鉄ピカデリー線に乗ることが多いのですが,今までトラブルはありません。

と言っても.....。

CDG発車標.jpg 列車記号を見てもわかりません。

  どれが快速なんだか.....。この時間帯は全部各停のようです。

エッフェル塔からの帰り,RERのC線で帰ると速いのですが,なぜか駅のホームが閉鎖されていたので,メトロ1号線のBir-Hakeim駅から乗って,Denfort Rochereau駅でB線に乗り換え,パリ北駅へ帰ろうとしたら,トロトロとしか走らないし,ほとんどの駅で10分以上停車します。英語では "This train is currently delayed." としか放送がないので何で停まっているのかわかりません。挙げ句の果て,Gare de I'Est駅(パリ東駅)で運休となっちゃいました.....orz。

そのとき.....,

       この電車から降りてください。

と,仏,英,西の各言語の後に女性の声できれいな日本語で自動放送が流れたのには大びっくり。 

こんなこともあるのですね......。

☆ 工芸・技術博物館

まあ,たぶんよほどパリに何度も行った人でもここを訪れる人は少ないと思います。パリ地下鉄3号線にarts-et-metiersという駅があるので気になっていました。Googleマップやwikipediaはパリ工芸博物館となっていますが,同館の公式日本語パンフには工芸・技術博物館となっていて,むしろフランスの科学技術の進歩を展示する博物館です。

工芸・技術博物館.jpg 

  日本語パンフレットもありました! 工芸・技術博物館と書いてあります。

ちょっと,フォントが中華フォントだし,表はいいのですが,裏は結構,日本語が怪しく,おかしな表現が使われています。その点,ルーブルの日本語パンフや,ロンドンのウェストミンスター寺院のはきれいな日本語でしたけどね......(^^;)。

ところが,実は驚き! ここにはこんなものが.....。

Ader Avion 3.jpg Clement Ader's "Avion Ⅲ"

iruchanは昔から飛行機や鉄道に興味があったのですが,中でもライト兄弟以前の研究には興味があり,クラウチ(Tom D. Crouch)のサイン本(というより買ってみたらサインが書いてあった)"A dream of wings" という本も読みました。ライト兄弟の前に,飛行機の開発に取り組んだ人は世界中にいるのですが,フランスのクレマン・アデール(Clement Ader 1841~1925)もその一人です。

ライト兄弟の有名なキティホークでの成功(1903.12.17)の13年前,エオール "Eole" と命名した飛行機で,1890年10月9日,パリ近郊の友人の所有する平地で50mを飛行した,とされています。もっとも,高度は20cmほどであり,飛行したとはされていません。

さらに,1897年には改良版のアヴィオン(Avion) Ⅲで,270m飛行したと主張しています。ただ,実際に立ち会った陸軍省役人の公式記録でも,ジャンプした,という記述になっていて,飛行したとはされていません。

また,上昇することを考えていただけの英国のマキシムと違い,機体の水平を維持するためのフラップや昇降舵などの機能はワイヤーで翼をよじって持たせたようですが不十分です。もし,十数mでも上昇していたとしたら,彼は死んでいたかもしれません。その点,安定を保つため,機体を制御することを最初から検討し,風洞実験やグライダーで実験を繰り返して,安全に上昇・飛行,前後・左右の安定を保って着地することまで考えていたライト兄弟とは次元が違うと思います。

フランス政府はライト兄弟の飛行の後,最初に飛行に成功したのはアデールであると主張しはじめますし,今もフランス語の飛行機という単語はAvionであることはよく知られていますね.....。エアメールにPar Avionと書いてあるのもそれです。

それに,最近知ったのですが,ドイツ生まれのホワイトヘッド(Gustave Whitehead 1874~1927)が世界初の動力飛行だと主張する人がいるようです。1901年8月にボストンで高度15mで距離800mを飛行した,とされていますが,一切の公式記録や写真はありません。一昨年,NHK BSで独,仏,豪の各局が製作した,"First Flight: Conquest of The Skies" というドキュメンタリーをやっていて,先ほどのクラウチが出ていたのには驚きました。もちろん,クラウチも否定していました。

とはいえ,どうも最近,ライト兄弟の初飛行にも疑問が出ていて,特に有名な弟のオーヴィルが腹ばいになって操縦し,脇に兄のウィルバーが立っている,初飛行の写真も別の日の撮影ではないかとか,最後に大破した260mの大飛行についても疑問が呈されてようです。

Ader Eole1.jpg Avion Ⅲの蒸気機関

  ちょっと向きが悪いですね。後ろ側にピストンとシリンダーがあるのですが....。

よくこんなものが残っているな......と感心します。Eoleのエンジンは50kgで,2気筒,20psの出力がありました。1897年製作のこのエンジンは重量が不明ですが,出力は同じ20psですから,おそらく同じエンジンと思われます。これを2基搭載して2つのプロペラを動かしました。

しかし,どう見てもこれが50kgとは思えません。シリンダとピストンなどのモーターと呼ばれる部分だけではないかと思います。ボイラーや復水器などを含めるともっと重かったのでは,と思います。手前のタンクは石油タンクでしょうか? 左右のフィンがついているのはボイラーと言うより,復水器のように見えます。実際,エンジンを搭載した状態だと,▲のAvionⅢの写真からも分かるとおり,この部分が翼の上に設置してあり,これじゃ,抗力が増えてあかんやろ,と思いますが,何らかの冷却が必要な部分のため,翼の上に設置していたようです。

ちなみにライト兄弟のエンジンはもちろんガソリンエンジンで,重量91kg,12HPでした。彼らは5HPもあれば浮揚し,飛行できると考えましたが,大きすぎると速く飛びすぎて危険と考え,出力は抑えています。

Cugnot.jpg キュニョーの蒸気自動車

有名な,キュニョー(Nicolas-Joseph Cugnot 1725~1804)の蒸気自動車です。保存されているのは1770年,前年の1号車に続いて製作された2号車で,試運転中に壁にぶつかり,交通事故第1号となったことでも知られていますね.....。

Cugnot1.jpg これではあかんやろ.....。

前輪に重いボイラーを積んでいて,旋回がしにくいのは明らかです。当時は舗装もしてないでしょうしね....。

何でこんなアホな設計をしたのか,と思ったら大砲を載せて運ぶように考えられていたためのようです。

やっぱり,これじゃ無理があり,単なる大砲の牽引車として動力車専用にして後輪駆動にしておけば,という気がします。


Etienne Lenoir gas engine.jpg ルノアールの内燃機関

ルノワール(Jean-Joseph Étienne Lenoir 1822~1900)が1860年に発明した内燃機関です。世界初の内燃機関として知られていますが,当時,すでに多くのガス機関が製造,販売されていて,必ずしも第1号ではないようです。それらの中で,最も売れて有名になった,と言うことでしょう。とはいえ,L. Cumminsの "Internal Fire" (Carnot press, 2000)によれば,フランスのみならず,英,米などでもライセンス生産されたようですが,総数は600台程度でルノワールも金持ちになったようではありません。

出力は0.5,1.5,4HPなど,何種類かあったようです。

まだ蒸気機関のアイデアから抜けられていなくて,機構もはずみ車や調速機を備えて蒸気機関そっくりですし,ガスも左右のシリンダに交互に注入して点火する,と言う仕組みは蒸気機関そのものです。また,圧縮の重要性に気がついていなくて,非圧縮エンジンとなっており,熱効率は低かったと思います。

Etienne Lenoir gas engine1.jpg 蒸気機関と同じ構造です。

アデールの飛行機やキュニョーの自動車,ルノワールのエンジンなんて,子供の頃に図鑑でしか見たことがなかったのですが,実物が見られて本当によかったです。

Claude Chappe.jpg シャップの腕木式通信機

シャップ(Claude Chappe 1763~1805)の腕木式通信機の実物を見るのも初めてでした。

彼は1793年,パリ~リール間の通信に成功します。フランス革命後のナポレオンの時代,部隊間の通信に活用されたのはよく知られています。ナポレオンが強かったのは,通信の速さにもあったでしょう。

シャップの発明は通信史上,画期的な発明のひとつとされています。世界各国でのろしを使った通信が使われていますが,伝達速度が遅く,情報も少ないので,腕木式通信は画期的でした。日本では少し前,大坂から米相場を地方に伝えるため,旗振り通信が実用化しますが,これも速度と情報量の点で,優れたシステムだったと思います。ただ,このシステムじゃ,遺物はありませんね.....。

シャップは天才発明家にありがちな中傷に遭い,最期は自殺しているそうです。お墓にこの腕木式信号の彫刻があり,"休止" を意味する符号になっているのは知られています。

☆ルーブル美術館

iruchanは何度かパリに行きましたけど,いまだにここに行ったことがありません......(^^;)。

地下鉄1号線か,7号線のPalais-Royal Musée du Louvre駅で下車します。

iruchanは朝,10時頃に着いたのですが,結構な列。失敗はやはり,事前にチケットを購入しておくべきで,オンラインで買えるので買っておいた方がよいです。

もっとも,チケットを買うと言っても30分くらいで買えましたし,オンラインの人も結構,待たされていました。また,入るときに行列しても,中は広いので,十分余裕で鑑賞できます。

DSC_1563s.jpg やはり,とても美しいです。

Venus de Milo.jpg 背中。結構,肌は荒れてます....セクハラ。

まあ,周囲はこれくらい人だかりしていますが,写真が撮れないほどではないし,ほかの人気スポットとして,サモトラケのニケなどは高いところにあって,鑑賞するには十分です。

Nike.jpg サモトラケのニケ

ダヴィッドの "ナポレオンの戴冠式" の画(ものすごくでかい!)やドラクロワの "民衆を導く自由の女神" のほか,iruchanはジェリコーの "メデューズ号の筏",同じくドラクロワの "サルダナパールの死" を見て,大感激でした。

サルダナパルの死.jpg ひぇ~~~~っ!!

放蕩が過ぎて,国民に反乱を起こされて城を包囲された古代アッシリアの王様サルダナパールは,いまわの際に愛していた女達を部下に殺させ,城に火をつけて果てました.......。

サルダナパール自身は頬杖ついて "フン,クソ面白くない" ってな格好で高見の見物をしていますが,彼もこのあと,死が待っています......。

中学の頃,美術の教科書で見て,びっくりしました。一度,実物を見てみたい,と思っていました。

ただ......。

モナ・リザとフェルメールの "レースを編む女" を見損ねました....orz。

実は,モナ・リザさんは普段ならシュリー翼の711号室にいらっしゃるのですが,今はなぜか801号室にお引っ越しされていて,こちらはリシュリュー翼です。なーにが気に入らないのか,女はわがままだな~。

建屋がつながっているはずなのに,どうしても行けないので係の女性に聞いたら,入口から入り直さないといけないらしく,仕方なくB1Fへ戻ったら行列.....45分待ちと出ていて,そんなにたいしたことないんですが,時間の都合であきらめました。大好きなフェルメールもリシュリュー翼なのでこちらもあきらめます。

モナ・リザの人気が高く,行列になってしまうので,建物ごと入口を替えてしまったようです。後でよく見たら,シュリー翼とリシュリュー翼の接続部分は進入禁止の看板が立っていました。

    ☆          ☆          ☆

再び,シャルル・ド・ゴール空港から帰途につきました。

帰りの機内で思い出すのは人々の顔.....。

どの人たちも優しく,特に会議中に頭痛がして,昼にオフィスで寝ているとどうしたの? と声をかけてくれて,ハーブ茶を作ってくれた金髪のおばさん。地下鉄の車内にいた,松重豊を女にしたみたいなおばさん。なぜか,私を見つめていて(よく外国に行くとこんなことがありますよね),おそらく変な東洋人,と思っていたに違いないと思いますが,単によくあることなのでしょうけど。第1次世界大戦時のフランス救国の英雄ガリエーニにそっくりなフランスのエンジニア.....。ミロのヴィーナスの彫刻(sculpture)を買う,と言ったら,彫像(statue)と言い直した,ルーブル美術館の土産物屋のおばさん。

みんな話しかけるときちんと英語で返事をして笑顔で応対してくれた。

今まで,iruchanはフランスがどうにも好きになれず,親英米派を自称していて,イギリスばかり称賛していたけど,フランスが大好きになりました。

う~~ん,最近は宮脇俊三ばかり読んでいるので,"台湾鉄路千公里" のエンディングみたいになっちゃいました....(^^;)。


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さようなら平成時代 [紀行]

平成最後の日の日記

今日で平成の時代が終わります。iruchanも生まれてからこれで2回目の改元となりました。

けふは昭和最後の日の写真をお届けしたいと思います。

1989年1月7日,まだ大学の冬休みだったので,iruchanはその日,朝から車をとばして新疋田に出撃していました。北陸に住んでいるので新疋田は割に近いところです。

しらさぎ1号.jpg しらさぎ2号

クハ489先頭のしらさぎ2号です。9両編成ですが,1985年3月のダイヤ改正で食堂車が廃止されていますので食堂車は入っていません。EF63との併結用に,連結器が露出しているのがかっこわるく,クハ489が来ると嫌でした。今から思えば,なに贅沢言ってるんや? って感じですけど.....。

雷鳥.jpg 雷鳥

485系の雷鳥もまだまだ全盛期です。681系の登場は試作車が1992年からです。ゆぅトピア和倉の併結もはじまっていましたが,スカートの切欠きがまだない頃のものです。その後,全編成が併結対応になってちょっと不格好になっちゃいます。

ゆぅトピア和倉.jpg ゆぅトピア和倉併結の雷鳥9号

和倉温泉への誘客のため,非電化の七尾線に乗り入れるためにキハ65形を改造した車両です。どうみても北海道のアルファコンチネンタルにそっくりですが,やはり改造計画自体は国鉄の頃にはじまっていて,苗穂工場や国鉄本社の車両課が設計を支援したそうです。電化区間は非動力車で,トレーラーとして牽引されています。北海道のキハ201系や大雪やサロベツなどはこのような車両にして,小樽以南や旭川以南は電車に併結でいいんじゃない,と思っています。それに,和倉温泉も電化されちゃったわけですけど,小樽~ニセコ間は電化してもいいのでは,と思います。

日本海1.jpg 本命の日本海

まだトワイライトエクスプレスは登場していません。登場はこの夏からでした。日本海も2往復体制で,一時は函館まで足を伸ばしていたのに,廃止になってしまったのが残念です。やはり分割民営化の弊害のひとつだと思っています。北海道や東北の日本海側,北陸から関西への交流が衰退する原因にもなっていると思います。

DD51団臨.jpg なぜかDD51牽引の団臨

全くノーマークでしたが,この日,偶然,DD51牽引の団臨が走ってきました。14系座席車とDD51の写真はとてもきれいです。今はこの右側に直流の変電所ができています。

雷鳥・新潟.jpg 新潟行き雷鳥5号

485系1500番台による運転が多かったです。すでに上沼垂色と言われるツートンカラーになっていますが,なかなか485系に似合っていたと思います。iruchanも好きな塗色で,マイクロエースの模型も持っています.....(^^;)。

新潟行き雷鳥は2往復ありましたが,2001年3月のダイヤ改正で廃止になりました。

そういえば,新潟~大阪の移動には白鳥も使えたので,実質,新潟~大阪間の昼行特急は3往復あったわけですね。北陸新幹線の開通で金沢~直江津間が第3セクターとなり,北越も廃止されたので,大阪~新潟は金沢と上越妙高で2回乗り換えとなりました。Yahoo!路線情報では東京で上越新幹線に乗り換えするルートが出てくる始末ですし,大阪や金沢と新潟は非常に不便になりました。別に北越を第3セクター経由で残してもよいと思うのですけどね.....。これじゃ,みんな飛行機か,高速バスで行くよな~。欧州でやっているように,設備と列車運行を別にし,列車の運行を自由にいろんな会社ができれば,不便は解消されると思うのですけど.....。国鉄民営化はまだ未完だと思います。国鉄の分割民営化は便利なところはより便利に,不便なところはより不便になったただけ,と思います。おまけに株式を上場しちゃって,海外のもの言う株主が増え,西や九州などは非採算路線の廃止を迫られる,と言うことになっています。それってなんのための民営化だったの? って思いますけどね......。

白鳥.jpg 白鳥

同じく1500番台での運転ですが,こちらは国鉄色です。残念ながら後追い写真ですけどね.....。1500番台はもちろん,北海道電化用だったんですが,全然雪対策が追いつかず,冬期のトラブル続出で,結局,北海道には新製781系を投入することにし,1500番台は泣く泣く本州に舞い戻ってきたというわけです。

1997年3月から,電車の所属が変わり,JR西日本・京都総合運転所(旧向日町運転所)となって,雷鳥と共通運用となり,ボンネット車が入るようになりますが,新潟行き雷鳥と同時に廃止になりました。

きらめき.jpg きらめき

前年から走り始めたきらめきです。金沢発7:25→米原着9:19ですから,表定速度92.9km/hです。途中,福井のみ停車でした。iruchanは停車駅じゃなかったので,一度も乗っていないのが残念です。

キハ48.jpg キハ48

交流電化区間は交直接続が面倒なため,気動車の普通列車が多かったのは北陸だけじゃなく,東北や九州でも多かったのですが,正直言って,せっかく電化されているのに,何で気動車なんや!?と思ってました。おまけに非冷房なので,夏は暑く,うるさいし,しかものろいので大嫌いでした。今もキハ40は嫌いなのですが,おそらく子供の頃のトラウマが原因だと思います。もっとも,子供の頃,北陸線で使用されていたのはキハ20で,iruchanもキハ20が3両だった時代を覚えています。その後,キハ48になりましたが,2両になって混むので参りました。塗色はもちろん,首都圏色と言われる朱色5号で朱色一色でしたけど,後に民営化前にこのような青地に白帯となりました。

北陸線でも米原~敦賀,近江今津間は気動車の運転が多く,特に湖西線の各停は気動車のみで1日3往復しかなかったのは今じゃ,考えられませんが,鉄道で琵琶湖の西に行くのはきわめて大変でした。

22-1.jpg 475系普通電車と

帰りのきらめきと各停がすれ違いました。赤地に白帯の旧北陸色ですね~。国鉄時代に各地で塗装合理化と民営化に向けて,新塗色に変わりましたけど,結局は各JRでまた新しい塗色に塗り替えられたりして,そのまま継承したところは少なかったと思います。それに,これじゃ,北陸線も身延線と同じ塗り分けで,嫌いでした。419系共々,模型が出ていますけど,この塗色のものは買っていません。JRが発足して,白地に青帯の新北陸色に塗り替えられてしまい,意外に期間としては短かったです。

     ☆          ☆          ☆

この日,昭和天皇が崩御されました。撮影を終えて,カーラジオで訃報を聞きました。翌日から平成元年となりました。あれから30年も経つのか,と感慨深いです。電車もすっかり変わってしまいましたし,夜行列車もなくなってしまいました。それどころか,ここを223系が走り回っていたり,のみならず,EF65の団臨が走ったりするので驚いちゃいます。正直言って,お前なんか,ここじゃ見たくない,と思いますけどね.....。

残念ながら昭和は戦争の時代,平成は震災や豪雨災害など,あまりにも自然災害の多い時代でした。次の時代が平穏な時代であることを願います。そういえば,戦後,高度成長期に昭和元禄という言葉がありましたけど,元禄の次は宝永だったわけで,宝永4(1707)年,南海トラフ地震(宝永地震)の49日後に富士山が大噴火したのは有名です。繁栄の後で災害の多い時代,というのは江戸時代と同じような気がします。次の時代は何も起こらないことを祈っています。


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北海道縦断&ラッセルツアーのはず,だったんですけど..... [紀行]

2019年3月3日の日記

61D サロベツ1号.jpg サロベツ1号(東恵橋にて)

今日,北海道から帰ってきました。先週の28日の木曜から年休取って北海道に行っていました。

目的は乗りつぶしと撮り鉄です。ようやく今回でJR北海道を乗りつぶす計画です。

実は,2年前に乗りつぶし目的で渡道しているんですが,本当だったらそのときに終わっているはずなんですけど......。

室蘭本線の洞爺と有珠駅の間にある,北入江信号場で貨物列車が脱線し,室蘭本線が不通となり,乗りつぶし予定だった,東室蘭~室蘭間に乗りに行けなかったのです。今日はリベンジです。

それにしても,室蘭本線の特急が走る区間は全部複線だと思っていました。複線だったら代用閉塞で早期に復旧できたと思いますけど。ごくわずかに単線区間が残っているんですね......。

と言う次第で,今回は前回の計画のやり直しです。

また,あとiruchanは未乗区間として,宗谷本線の音威子府~幌延間が残っています。何でこんな真ん中の中途半端な区間が残っているんだ?

実は,30年前,iruchanは稚内へ行っているのですけど,そのときは羽幌線~天北線経由で行って帰ってきたので,宗谷本線のこの区間には乗っていないのです.....(爆)。

あ~,あの頃は本当によかったな~~[晴れ]

まだ北海道にはたくさんローカル線が残っていて,鉄道でいろんなところに行くことができました。こちらで書きましたけど,iruchanが乗れたのは羽幌線,天北線の他,標津線,士幌線,幌内線,歌志内線,瀬棚線,函館本線上砂川支線,湧網線,名寄本線,といったところで,広尾線や渚滑線,池北線,美幸線,興浜南北線には乗れませんでした。すでに,iruchanが渡道したときには渚滑線や興浜南北線,広尾線,胆振線は直前に廃止になっていました。もう少し早く行けていればよかったのですけどね。湧網線には乗ったのに,湧別~中湧別間の枝線に乗っていないのも残念です。乗っていたら,また,ついでに時刻表にも載っていなかった四号線という仮乗降場で降りたりしていたら,今,相当,自慢できると思うのですけどね.....[雨][雨]

深名線は当時,並行道路が未整備,と言うことから廃止対象から外れ,存続していたのですが,時間の問題,と考えて乗りました。ホームがあるだけの湖畔駅など,ものすごい雪に驚いた記憶があります。あれから8年も存続したのはちょっと驚きです。池北線は長すぎて,片道3時間もかかるし,第3セクター化が決まっていたので乗らなかったのが残念です。

と言う次第ですが,とりあえず,室蘭へ行くことにします。電化してあっても,枝線区間なので行きにくく,美濃赤坂とか,和田岬なんかと同様,乗りつぶしの最後にする人もいると思います。

羽田から,Air Do 57便で函館空港へ.....。早朝,6:55発,8:15着です。五稜郭駅8:59発の "スーパー北斗" 5号に乗るので,大慌てです。

でも,羽田のゲートは500番。なんか変! 普通はゲートは2桁の番号のはず....。

なんと,久しぶりのバス接続でした.....[雨]

500番ゲート.jpg バス接続でした....

以前にも,バンコクへ行く夜行便がこうだった記憶があり,これで2回目ですけど,ちょっといやな予感がします.....。

予想通り,定刻の6:55になっても飛行機のドアが閉まりません。そのうち,スッチーのおばさんお姉さんから,"ただいま,ご搭乗のお客様をお待ちしておりますので,離陸がしばらく遅れます....." とのこと.....orz。

こうやって,よく遅れますよね~。特にバス接続の場合はバスが往復するだけ時間がかかりますし,そもそもバス接続のゲートがわからなくて迷っているお客さんもいますから余計です。

結局,離陸は10分遅れ。皆さんに迷惑がかかりますから,空港には早めに到着してゲートで待ちましょう。

しかも,普通はこれくらいの遅れだと取り戻してくれて,というよりだいたいは定刻より早めに着くのでチャラになるかと思ったのですけど....。やはり定刻+10分遅れでした......orz。

こうなると大慌て。"スーパー北斗" 5号は五稜郭発で8:59ですから,空港からタクシー飛ばして3分前に着きました。やれやれ。

それに.....。
 
函館空港に着いてみて,やはりいやな予感がします。全然雪がないんです!
 
暖冬とは聞いていましたけど,道南はほとんど雪が消えていて,特に道路はアスファルトが露出していて,普通に走れる状況です。大沼のあたりは少し雪がありましたけど,東室蘭のあたりはもう,除雪してないところに少し雪が残っているくらいでほとんど雪が消えています。これじゃラッセルは走らんな.....[雨][雨][雨]

それにしても函館空港~五稜郭駅間は意外に距離があるのですね~。Googleマップじゃ,近くにみえましたけど....。距離は10kmほどです。それに,今よく見てみるとなんと,函館駅の方が近いんですね~。驚きました。函館駅の方が8.5kmと2kmほど近いんですね。五稜郭へまっすぐ行く道がないためのようです。そういえば,タクシーは狭い道をくねくねと走っていました。しまった~~。皆さん,函館空港からは函館駅の方が近くて早いです。

それにしても何とか "スーパー北斗" 5号に乗れて,安心。

スーパー北斗5号.jpg スーパー北斗5号(五稜郭)

走り出してすぐに気がつきました。あれ,なんと,藤城線の細い高架橋が見えるじゃないですか!!

これ,事故で藤城線が不通でもない限り,絶対に見られない光景なのを忘れていました。下りの "北斗" は藤城線を通る(正確には通っていた,ですけど)ので,高架が見えるわけがないのです。

藤城線はこちらで書きましたけど,函館本線の複線化と勾配緩和を兼ねて,1966年に国鉄が建設した線路で,開通後,下りの優等列車はこの線を通るようになり,旧本線は通りません。しかし,2016年3月26日のダイヤ改正で北海道新幹線が開業したため,途中の渡島大野駅が新函館北斗と改称し,新在連絡のため,"北斗" は旧本線経由となりました。実に,50年ぶりに特急が復活したわけですね~。このことをiruchanは忘れていました。藤城線自体,特急が通らなくなると廃止との噂もありましたが,今も貨物が通るので残っています。

ただ,新幹線が全線開業すると "北斗" も廃止となり,ダイヤ的には旧本線だけで余裕でしょうし,藤城線を第3セクターの鉄道会社が引き継ぐとは思えません。JR貨物の第1種営業線となるかもしれませんけど....,貨物列車の存続自体が青函トンネルでの貨物,新幹線共用の観点から連絡船復活(おそらくは本当に連絡船じゃなくて,苫小牧あたりから本州への貨物船利用だと思いますけど),という話もありますので,どうなるかわかりませんから,また廃止の議論が起こるでしょう。"スーパー北斗" の車窓から見える藤城線の写真を撮っておけばよかった.....。

とはいえ,北海道新幹線の開業のおかげか,藤城線経由のローカル列車が3本でき,今も乗りつぶしができるのがよかったと思います。おそらく,"北斗" が旧本線経由となり,ローカルをこちらに移動させてダイヤを空けたのだと思います。

函館本線時刻表.jpg

    ローカルも藤城線経由のものがあります

少しスーパー北斗5号は遅れましたけど,無事にキハ40に乗り換えて室蘭着。ここで9分あるので,室蘭駅名物の母恋めしを買って昼飯にしようと思っていたのに,お店は休業中。

事前にGoogleで調べて知ってはいたのですが,お店はシャッターが降りています。

本当は室蘭で1泊して焼き肉食べて地球岬へ行ってみたいのですけど,また次回です。

また,実を言うと,2月28日はJR北海道の車内販売が最後の日で,前回も電話をして予約して長万部のかにめしを頼んでいたので今度も,と思っていたのですが,すでに大幅に車内販売は縮小され,"スーパー北斗" 6, 8, 10, 13, 15, 17号のみとなっています。5号じゃ,車販はないんですね~~。

全国的に車内販売が縮小されていますけど,コンビニのせいですね~。といって,弁当買う間もなかったりしたら困るんですけど....。JRさんも経費がかかると言うことでしょうが,そもそも直営でやる必要なんて全くないのでは? どこか,やる気のある業者さんに任せるだけのことだと思いますけどね....。車内でゆっくり弁当食べたり,コーヒー飲んだりすることができるのがクルマやバスと違って列車のよいところだと思います。

室蘭駅で母恋めしが買えなかったので,折り返しの列車に乗って苫小牧へ。ここでまるい弁当さんのほっきめし弁当を買おうと思います。前回,南千歳の駅で買ったら非常においしかったので....。

でも,今回はちょっと我慢して,ホタテ弁当にしました。滅多に来れないのに,前回と同じなのも芸がないので。

ホタテ弁当.jpg これもとてもおいしかった.....。

苫小牧での接続は12分なので駅員さんに売り場を聞いたら,改札横の喫茶店の窓口だそうです。無事に駅弁をゲットできてよかったです。ほっきめしも非常に気に入りましたけど,このホタテ弁当もとてもおいしく,結構ボリュームもあって気に入りました。また新千歳空港に着いたら駅で買いたいと思います。

それにしても昨年9月6日の胆振東部地震から半年経ちますが,40人を超える方がお亡くなりになり,今も多くの方が仮設住宅で生活されています。謹んでお悔やみ申し上げますとともに,お見舞い申し上げます。

さて,ここからは特急で札幌に行き,旭川まで "ライラック" (ィは大きい。なんのこっちゃ!?)で行ってもよかったのですが,どうにも室蘭本線の沼ノ端~追分間を乗った記憶が曖昧です。DD51牽引の51系客車で乗りつぶした記憶があるのですけど....。

一応,時間はあるので,室蘭本線のローカルで岩見沢へ行くことにしました。これから1時間半ほど,キハ40に乗ります。

さすがに,沼ノ端から北海道の原野を走りますが,周りの雪は結構,あります。ただ,といって,ラッセルで雪かきするほどか,と言うと普通に列車が走れる状況だし,晴れて雪解けも進みそうで,やはり望み薄のようです.....orz。

ただ,どうにも列車が遅い! 追分までの速度は最高30km/hくらいか,という気がします。おそらく,空転を警戒しているのだと思いますが.....。

予想通り,岩見沢着は13分遅れ。"ライラック" 21号に乗る予定でしたが,完全に乗り遅れました。仕方ないので30分遅れの23号にしました。

何にもこの日は予定がないのでよかったですけど,運転士さんはひと言も放送せず,ちょっと驚きました。何で遅れたのか,説明もないし,ひと言,"列車が遅れましてお詫びします" くらい,言えないのか,と思っていたら親切な方からご教示いただきました。地震の影響で徐行しているそうです。実際,JR北海道のWEBに情報が載っていますが,Yahoo!路線情報や駅から時刻表などのネットの時刻表は所定のままになっています。室蘭本線は遠浅~三川間で徐行していて,10~15分程度遅れています。皆さんお気をつけください。

    ☆          ☆          ☆

さて,旭川の駅レンさんでレンタカーを借りて,15kmほど先の当麻駅へ向かいます。今日のお宿は当麻駅すぐのまさ屋旅館さんです。昔ながらの駅前旅館です。とても部屋も風呂もきれいだし,BSも映るし,WiFiも使えるので助かります。なにより炊きたてご飯で心のこもった温かい夕食がありがたかったです。特に,魚の好きなiruchanは自家製のサケの西京漬けやニシンの煮付けがとてもうれしかったです。ニシンって,焼魚,と思っていたのですが,北海道では煮付けもあるのですね。とてもおいしかったです。そういえば,最近,BSでやっていましたけど,稚内港ではリールでニシンが釣れるんですね。一度,やってみたい~。

で,なぜ当麻かというと.....,やはり旭川の中心部よりも離れた方が宗谷と石北本線の撮影に便利だからです。特に,旭川~比布,伊香牛くらいの間は両線が並行しているので,両線で撮影するには便利です。

さすがに夕方なので,両線ともラッセルの運転はずっと先に行っちゃっていますので,特に鉄をすることはないのですけど,当麻駅でローカルと8074レを撮りました。

8074レ.jpg 8074レ(当麻)

翌朝は朝5時起きで,石北本線の北日ノ出の撮影ポイントへ。6:15頃,雪552レが通過するはずなんですけど.....。

やっぱり,来ませんでした。当麻周辺では結構積もっているんですが,肝腎の線路はほぼ除雪不要,と言うレベルですから,石北峠などで除雪が必要なくらい積もっていない限り,運休だと思います。

仕方ないので,宗谷ラッセル狙いで,音威子府まで,120kmほど,道央道や名寄・美深道路を走って行ってみますが,やはり運休でした.......[雨][雨][雨]
 
おまけに,ぜひ,音威子府ではそばを,と思ったのですが,駅の常磐軒さんはやはり休業中。Googleでわかっていましたけど,どうも半年くらい休業されているようです。他にそばを食べに来たお客さんがいましたが,残念そうでした。
 
音威子府駅.jpg 音威子府駅
 
天北線資料室.jpg 構内の天北線資料室
 
音威子府そば.jpg おそば屋さんは休業です。
 
仕方ないので,近くのお店で食べましたけど.......TVがガンガンかかっていてうるさいし,隣のおっさんはそば待っている間にタバコふかしているし,ちょっと感じ悪かったです。そば食う前にタバコ吸うんかい,って思いますけどね....。なんか,悪いんですけど店はうるさくてラーメン屋みたいな印象でした。
 
ラッセルは動いていないようなので定期列車を撮りながら当麻に戻りました。それにしても途中で立ち寄った東恵橋は有名撮影地ですが,すごいですね~。ラッセル走るときは数十人集まるらしいですし,地元の警察が交通整理するくらいだそうですけど,きれいな写真が撮れる場所ですね。
 
4328D.jpg 4328D
仕方ないので,翌日は石北本線の定期列車を撮りました。"オホーツク" もキハ183系の0番台での運転は終了し,500番台ばかりとなりました。 

4527Ds.jpg 4527D(北日ノ出~桜岡)

4526D.jpg 4526D

キハ40の勇姿を見るのももうしばらくかもしれません。

82D 大雪2号s.jpg 82D 大雪2号(伊香牛~愛別)

さて,土曜日の夜に "サロベツ" 3号で稚内に向かいました。これで,音威子府~幌延間の未乗区間を乗りつぶしします。本当は昼間にのんびりとローカルで乗りつぶしたいですが,日程上,やむを得ません。

それにしても,"サロベツ" 3号は稚内行きの最終の特急ですが,ガラガラ。iruchanが乗った1号車指定席は4人しか乗っていませんし,自由席を見ても数人で,列車全体でもせいぜい20人くらい,といった感じです。

63D サロベツ3号.jpg サロベツ3号(旭川)

宗谷本線高速化事業により,2000年3月から "スーパー宗谷" が登場し,特急3往復体制になったのですが,どうも聞くところによると高速化前の急行3往復時代の方がたくさん乗っていた,というので心配していましたが,どうやら本当のようです。

確かに,釧路や帯広,網走,北見と言ったところだと高速バスの方が便利なので,特に "オホーツク" もガラガラだったりするのですが,稚内だとまだ高速道路は士別までなのでそれほど影響はないのでは,と思いましたが,稚内~札幌間の高速バスの方が時間もそれほど変わらないし,本数は倍だし,料金は4割安くらいなので,バスの方が安くて便利,と言うことなのでしょう。実際,iruchanも道内の移動に何度も高速バスを利用しましたが,バスの方が安いし,時間も早くて便利と思いました。だから結構,バスも混んでいるんですよね。

とうとう,JR北海道も去年のダイヤ改正から "オホーツク" と "宗谷" のダイヤを改正し,半分は旭川止まりとなり(札幌直通の "宗谷" は1本だけ),はっきり言ってだと思います。一応,料金は通しでいい,と言うことになっていますが,乗り換えは不便。せっかく座ったのに,途中で乗り換え,その上,座れない,というんじゃ,バスの方が便利でしょう。切符を買うにも,指定を取るにも別々の列車じゃ,めんどくさいですしね。

これはやはり元に戻していただきたいと思います。それに,確かに札幌直通じゃ,車両がギリギリ,と言うことなんでしょうが,それだったら "オホーツク" と "サロベツ" は2両編成とし,旭川~札幌間は電車特急に併結でいいと思います。すでに電車と併結する技術は "オランダ村特急" (古~~っ!)とか,JR北海道ではキハ201系で実現しているし,そもそも2両だったらエンジンは停めて,"ゆぅとぴあ和倉"(もっと古~~っ!)みたいにブレーキ変換器だけ積んで,トレーラーでいいと思います。

なんか,JR北海道は車両に投資しすぎ。高性能な車両はいいけれど,投資対効果をよく考えていないようだし,ローカルはキハ40ばかりでサービスはひどいです。ようやく新車を投入するか,と思ったらH100形は量産しない様子。今さら電気式ディーゼルカーはないでしょう。気動車じゃ,どうしてもエンジンの冷却系が必要だし,冬期は凍結しちゃうので夜間でもアイドリングしないといけないし,トルコンが廃止できても大してメンテは減らないでしょう。ここはJR九州みたいにバッテリーカーにすべきです。むだに高度な技術開発に投資をせず,こういう風に柔軟に他社や過去の技術を使って,合理的な輸送を心がけてサービス向上を図っていただきたいと思いました。

また,ダイヤも大いに疑問。最終の特急 "サロベツ" 3号の5分後に快速 "なよろ" 7号が出て,乗車時間は30分違うんですけど,そう大して時間は変わらないんじゃ,名寄までのお客さんは車内で一杯やって快速でいいや,と言うことになると思います。同じように地元からカネもらって高速化した本州の西の方のケチな会社はさすがに西商人らしくがめつくて,特急と快速が1時間おきに交互に出る,と言うことになっていて,さすがに1時間は待てんよな,というダイヤになっていますが,ちょっとは見習った方がいいんじゃ,と思いました。

    ☆          ☆          ☆

結局,23:47定刻に稚内に着きましたけど,降りてきたお客さんはiruchanを含めて6人。こんな夜中に降りる人は少ないと思いますけど,札幌の出発は18時半くらいなので,ビジネスには便利な時間帯のはず。もっと乗っていてもよいですよね~。

あとでホテルマンから聞きましたけど,線路に入り込んだ鹿のせいで20~30分程度遅れることが多いそうです。そういや,鹿って,線路に沿ってず~っと逃げていく,なんて話を聞きましたけど,北海道だとラッセルで除雪されていて,雪の壁があるので,線路の外に逃げようがないそうで,驚きました。やっぱ,北海道は大変です。

稚内駅1.jpg とうとう着きました......。

今夜は駅前のサフィールホテル稚内。豪華な部屋と朝食で満足でした。さすがに午前0時を回っているので風呂入ってすぐ寝ました。

翌朝は本当だったら雪371レ,372レを撮りに行きたいところですが,運休なので軽く市内観光。

30年前は宗谷岬まで行っています。当時は北海道ワイド周遊券だったので,一度,天北線で南稚内駅まで行き,そこからバスに乗ってバス代を節約したのを覚えています。

でも,今回はそれほど時間もないし,もう宗谷岬は行ったので,ドーム桟橋を見てからノシャップ岬へ。

ノシャップ岬1.jpg ノシャップ岬

宗谷岬ほどじゃないですけど,晴れていればサハリンも見えるし,壮大な広い景色がよかったです。

帰りは一度,稚内駅へ寄ってそこで駅弁を買いました。稚内空港は空弁がないらしいので.....。

もちろん,稚内駅では有名な四大かに弁当をゲット。TVでも見ました。一度,食べてみたいと思っていました。稚内からは1日1往復しかない東京便のNH572便で帰りました。空弁もないし,稚内空港はやはりちょっと寂しかったです。

機内で昼飯。稚内空港発は13:15ですから,結構,お弁当広げてるお客さんがいました。

機内で食べる四大かに弁当はサイコ~[晴れ]

四大かに弁当.jpg 稚内立売さんの四大かに弁当

iruchanは北陸の人間だから,ズワイガニが一番と思っていましたが,このお弁当だと毛ガニが一番おいしかったです。

ふと窓の下を見てみると.....,

シューパロ湖.jpg

雄大な大雪山の景色が美しかったです。この湖はシューパロ湖ですね~~。

ようやくこれでJR北海道も乗りつぶしができました。残念ながら,毎年くらい,北海道に冬に行っていますが,今年は暖冬でラッセルが走らず,残念でした。2月末~3月に遠軽で待っていると,必ずラッセルが来ましたから,今年は異常です。親切な当麻のまさ屋旅館の女将さんに伺いましたが,2月の3連休にどかっと降ったけど,翌週からどんどん解けて雪が消えた,とのことです。実際,ラッセルも2月第4週までは動いていたようなので,来年はリベンジしたいと思います。

道新.jpg こりゃ,あかん.....

当麻のまさ屋旅館さんで読んだ3月2日付の北海道新聞によると,札幌で平年の35%など,2月の道内の降雪量は過去最小だったようです。

北海道縦断ツアー切符2.jpgこれで無事にJR北海道完乗です[雪]

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ロンドン地下鉄の謎~ロンドン地下鉄の歴史~ [紀行]

2018年9月17日の日記

先週,久しぶりにロンドンへ出かけていました。

帰ってきてすぐ,

       日本は暑い! エスカレータが遅い!

と思いました......(^^;)。

向こうの気温は最高気温で20℃くらい,すでに紅葉がはじまっていますし,朝,駅で待っていると息が白いくらいでした。

エスカレータは日本が遅すぎると思います。最近は特に,弱者対策と言うことで余計にスピードを落としているのが気になります。あまり遅いと横を歩く人が増えるので,かえって危ないのです。ちなみにロンドン地下鉄のエスカレータは最大で44.2m/minだそうです。最初見たときは速ぇ~~っと思っちゃいますよね。日本では建築基準法により最大30m/min.と定められています。最近は20m/min.くらいに抑えてあることが多いと思います。これだけ遅いと,もう全員が歩いちゃって,立っている高齢者にぶつかったりしてかえって危険です。

piccadilly line.jpg Piccadilly線の電車

   なんでロンドンの地下鉄はこんなに小さいの!!

ヒースロー空港へは地下鉄Piccadilly線か,Air Busでしたけど,最近はHeathrow Expressが開業し,ロンドン北部のパディントン駅までたった15分になりました。今回はホテルがDistrict線沿線だったのでPiccadilly線に乗りましたが,そういう理由がなければHeathrow Expressの方がいいと思います。

district & piccadilly line.jpg District線Ravenscourt park駅

        こんなに大きさが違います!

世界遺産のKew Gardens方面へはDistrict線と複々線になっています。なぜか,Piccadilly線の方が急行運転をしていて,かなりの駅を通過しちゃいます。

実はロンドンの地下鉄は2種類あるのですが,鉄ちゃん以外の人はまったく気がつかないと思います。

左のDistrict線は普通の日本の電車並みで大きいのですが,右のPiccadilly線はドアの近くだと頭が天井に支えちゃうくらい,小さいです。

なんで,こうなっているか,というと.......。

以前,こちらで少々書きましたが,今回はもう少し詳しく書きたいと思います。

ロンドンの地下鉄は1863年1月9日に開業しています。もちろん,世界初で,区間は今のHammersmith and City線のPaddington~Farringdon間です。Metropolitan Railwayという会社が建設したので,今じゃ,世界中どこへ行っても地下鉄はMetroと呼ばれますね。

Paddington underground station.jpg 地下鉄Paddington駅

建物は古めかしい時代を感じさせるものですが,建設当時のものではなく,1915年に建て直されたものです。ホームも含め,建設当時のものは残っていません。ファサードに社名が残っていますね。一斉に国鉄の表記を消したどこかの国とは違います。

地下鉄と言っても,当時は動力は蒸気しかないので,蒸気機関車が用いられています。

それじゃ,煙が出るだろ,と言うわけで,地下鉄とは言ってもところどころ,明かり区間があり,特に駅は天井がないところが多いです。地下鉄なのにところどころ明るくなるし,地下鉄の駅で電車を待っていたら雨が降ってきて濡れた,なんてことになります。

Notting Hill Gate.jpg 

      Notting Hill Gate駅(Circle線)

駅はこんな感じで,明かり区間にあることが多いです。屋根がないところも多く,雨が降ると濡れちゃいますが,昔の雰囲気を保つため,あえて屋根をつけていない場合も多いようです。周囲の建物も建築当時と変わらないでしょう。

一応,機関車は復水器を備え,シリンダの蒸気を再利用するとともに,トンネル内に蒸気が充満するのを避ける工夫がなされていますが,煙自体はどうしようもありません。

地下鉄のような長大トンネル区間で蒸気機関車を使う,というのは大変危険で,実際,1902年1月8日の朝,ニューヨークのGrand Central駅で煙が充満したトンネルで赤信号を見落としたNew York Cenralの旅客列車が信号待ちをしていたNew Heaven鉄道の通勤列車に追突し,15人が死亡する事故が起きて以来,マンハッタン島内を第3軌条で電化し,SLの乗り入れを禁止する契機となります。

もっとも,Metropolitan鉄道も後述するMetropolitan District鉄道も電化が完成するまで,40年ほどの間,地下で蒸気機関車の運行を続けるのですが,蒸気機関車と木造客車を使いながら目立った死傷事故や列車火災事故を出さずに無事に蒸機運転を終了しているのは大変立派なことだと思います。

当初,チーフエンジニアのJohn Fowlerが考案した,蓄熱式機関車が検討されますが,日本でも蓄熱式というのは確かにありましたけど,鉱山や製鉄所の入換用だったり,ごく小規模なものです。さすがに旅客運転には向いていなくて,試運転しか実施されず,そのため,Fowler's Ghostというあだ名がついています。写真も1枚しか残っていません。急遽,Metropolitan鉄道はGreat Western鉄道から機関車を借り入れてしのぎ,8月から▼のような機関車に置き換えています。Metは当初からGWRの貨物列車を終点のFarringdon近くにあるSmithfield食肉市場へ運ぶ目的があったこともあり,GWRと同じ広軌(2140mm)の線路も引いてあり,3線式だったのが幸いしました。後にGWR同様,広軌のレールは廃止されて撤去されますが,最終的にSL牽引の貨物列車が廃止されるのは1971年のことのようです。
 
Fowlerは各地の鉄道や有名なスコットランドのForth Bridgeなどの橋梁を設計したり,Stephenson親子やBrunel親子同様,英雄時代の技師の一人だと思いますが,やはり元来は土木技術者だったようで,機関車はそれほど詳しくなかったのかもしれません。

metropolitan 0-4-4T.jpg 

  Metropolitan Railway 4-4-0T機関車(London Transport Museumにて)

シリンダの蒸気を機関車側面の復水器に導いて蒸気を取り除きます。設計は同じFowlerとされていますが,実際には彼は動輪径と軸重を決めただけとのことですから,設計は製造会社のBeyer Peacockのエンジニアたちでしょう。

metropolitan locomootive.jpg 側面の四角い箱は復水器

SLが走っていた路線は Surface Lineと呼ばれますが,District線のほかはCircle線, Hammersmith & City線と郊外路線のMeropolitan線やほとんど観光客の乗らないEast London線くらいで,全体の8%しかありません。もっとも,East London線は2007年に大規模改修工事が始まり,完成後の2010年にOvergroundのネットワーク網に入り,現在では地下鉄の路線じゃありません。だから,ロンドンへ行ってもこれらの路線に乗らずに帰ってしまう方が多いので,ロンドンって小さな地下鉄しかない,と思っちゃう方が多いと思います。

District線というのはもとはMetropolitan District Railwayという会社が建設した路線で,Metropolitanの後,1868年12月に南側のSouth Kensington~Westminster間を開業し,同時にMetropolitanがSouth Kensintonまで開業したので,Inner Circleサービスがはじまります。Circle線の始まりですが,まだ円は閉じていなくて,ちょうどかつての札幌の路面電車みたいなU字状の路線網です。

その後,都心の環状線を建設しても鉄道収入だけなので儲からないことから,郊外路線の建設の方にばかり熱心になり,おまけにこの両社はあまり仲がよくなかったので,肝心の環状線の完成は1884年10月のことです。だから,ホームズで有名なBaker St.の駅から北西に延々とMetropolitan線が延びていますし,西の方へはRichmondやWimbledonへ路線が延びているのはそのせいです。いまだにMetroplitan線とかDistrict線と呼ばれるのはちょっと不思議な感じなんですけど,もとの会社の名前です。

沿線の土地を買い占めて宅地開発してそこに鉄道路線を延ばせばもっと儲かるよな,と言う考えは,その後の私鉄経営のモデルですね。小林一三や彼に倣った五島慶太はロンドンの地下鉄建設からヒントを得ている,と言うわけです。

一方,建設自体は開削工法によるもので,要は道路を掘り下げて底にレールを敷いて後からフタをする,という工法です。

いまでも日本の地下鉄は大部分この工法なんですけど,新しいところならともかく,古いところに新たに線を引く,と言うことだとトンネルが深くなって大変です。ものすごくお金もかかるし,なんでいまだにこんな工法で建設するの? と言いたいんですけどね.....。ロンドンは早くこの誤りに気がついて,工法を変えていきます。

Circle線といっても,山手線のように独立した環状の線路があるわけではなく,ほとんどの部分が,Metropolitan線やDistrict線と共用しています。おまけにどこの分岐駅も水平分岐なので,いろんな列車が線路を支障し,しょっちゅう,赤信号で止められ,"The train stops because of the red signal. The train should move shortly." と放送が入ります。日本人はイライラしちゃいますね~~。

MetやDistrictの郊外線は地上線で,地下鉄じゃありません。やはり開削工法じゃ,地下鉄の建設費は膨大で,両社がCircle線の建設に乗り気じゃなかったのはこのせいです。

さすがに英国人はこれじゃまずい,と考えて30年後,James Henry Greatheadが改良したシールド工法で地下鉄を掘るようになります。

シールド工法は有名なBrunel親子が発明したもので,シールド断面は四角く,覆工に膨大なレンガを必要としました。彼らが作ったテムズ河底トンネルは1825年に着工しましたが,途中,落盤,出水はおろか,汚水による疫病にまで悩まされ,完成までに実に18年もかかりました。60万ポンドもの大金を費やして人道トンネルとして開業しましたが,低収益に悩まされ,地下鉄East London線が使用するようになり,現在に至っています。

あまりにも高額な費用と,工事の危険性を鑑みて後に続く人はなかなか現れなかったのですが,Peter William Barlowが現在のタワーブリッジの近くで河底トンネルを建設します。Tower Subwayがそれです。彼が発明したのは円形のシールドを用い,シールド内で掘削したのち,鋳鉄製のセグメントと呼ばれるブロックをボルト締めして覆工した後,シールドを前進させ,地山とセグメントの間の10cmほどの隙間にコンクリートを流し込んで固めるという方法で,安全性が高く,今回はわずか10ヶ月で1869年12月にトンネルが完成します。トンネル径は6' 8"(2032mm)で,1870年8月から2' 6"(762mm)の線路を敷いてケーブルカーで開業しますが,わずか4ヶ月で廃業に追い込まれてしまいます。あまりにも狭くて運べる人数も少なかったのが破産の原因でした。その後,人道トンネルとして使われますが,タワーブリッジの完成(1894)に伴い,無用の長物と化したため,閉鎖され,現在は水道と電話の共同溝として使われているようです。

GreatheadはBarlowとは35歳年下で,Tower Subwayの建設にも従事していました。彼はBarlowの工法を改良し,圧搾空気を用いたシールド内で掘削する方法や,ジャッキも水圧ジャッキを使うなどの方法を発明し,地下鉄を建設することにしました。1890年に開業したのは今のNorthern線のKing William St.(Bank駅と統合により廃止)~Stockwell間がそれです。

Greathead Shield.JPGGreathead Shieldの構造

もはや完全に閉鎖された深いトンネル構造なのでSLは使えず,動力はELを採用しています。もっとも,最初はサンフランシスコと同じケーブルカーの計画でした。それをGreat Western鉄道出身の会長のCharles Grey Mottがちゃぶ台返しします。ほんなもんはあかん! と言うわけですね。なんで大阪弁なんだ.....。

ケーブルカーだと当然輸送量が限られてしまいますし,一旦ケーブルにトラブルがあると全線で営業が止まってしまいますし,おそらくTower Subwayの失敗も念頭にあったのでしょう。また,ケーブルも路線長が3.2マイルにもなるため,途中でケーブルを切り替えてもう1台,巻上機を設置する,なんてことが考えられていたことからもわかるとおり,計画段階でも不安視されていました。とはいえ,英国グラスゴーの地下鉄がこの方式で開業(1896)しているのを追記しておきます。

もっとも,当初の計画がケーブルカーだったため,北端のターミナルのKing William St. の駅は1面1線で,しかも入口に急勾配があり,また,発電所は南端のStockwellにあるため,電圧低下し,朝のラッシュ時などは登れない,というトラブルも頻発したようです。後に,Northern線としてtube路線に組み込まれるときに駅もBank駅に統合されますし,トンネルも拡幅され,標準のtube車両が入線できるようになっています。

City & South London鉄道は世界初の電気運転だけでなく,自動信号や自動ブレーキまで装備していた,と言うのですから驚きです。信号は色灯式です。ブレーキも列車分離の際に自動的にブレーキが作用する米国のGeorge Westinghouseが発明した自動ブレーキ式です。これが一般的に普及するのは1920年代以降のことです。

ということで,iruchanはMetropolitan Raiwayより,このCity & South London Railwayの方がスゴい,と思っています。

City & South London loco.jpg こんな機関車です。

車体はBeyer Peacock社,電気品はMather & Platt社製です。軸距6ft(1828mm)の本当に小さな機関車です。

20年前,South Kensington駅近くのScience museumで撮影しました。なぜか,コヴェントガーデンのLondon Transport Museumには客車しか展示されていませんのでご注意ください。たぶん,財産上の問題だと思います。50HPの直流電動機を各軸に1個,床下に装備しています。iruchanが最初にロンドンに行ったのは1990年でしたが,そのときはCity & South London Railway 100周年と言うことで,一緒にLT Museumで展示していましたけどね。

C & SLR carriage.jpg 客車です。

貫通部の屋根上に見えるのはブレーキホースです。内部はロングシートで,地下鉄だから駅名が確認できるくらいでええやろ,ということでスリット状の細い窓があるだけです。そこまでクッションつきの背ずりがあるので,Padded cell(精神病院の独房)というあだ名がつきました。

C& SLR padded cell.jpg 精神病院の独房?

世界初の電気式地下鉄,というとブダペストだろという話もあって,実際,wikiはそう書いていますが,これは間違いです。ブダペストは1896年の開業で,City & South Londonの方が先ですし,ブダペストは動力は電車を使っています。電車を使った地下鉄,と言うことだとブダペストなんでしょうけど,電気運転もロンドンが最初。一度,ブダペストに行ったら1号線に乗ってみたいのですけどね......。

ちなみにロンドン地下鉄の最初の電車路線は1898年開業のWaterloo & City Railwayです。現在のWaterloo & City線ですが,これはWaterlooがターミナルだったLondon and South Western鉄道がロンドン中心部のシティへ通勤客を運ぶために建設した路線で,わずか2.4kmしかない短い路線なので,観光客の皆さんはわざわざ乗りに行かない限り,乗ることはないと思います。

       ☆          ☆          ☆

City & South LondonはやはりMetropolitanの陰に隠れ,あまり知られてないことが原因だと思います。走行していた区間も,ロンドン南部からシティへ通勤する労働者向けの路線だった,ということも影響していると思います。

どう考えても地下鉄には電車が適していますが,City & South Londonの場合はまだ小型モータが開発できず,機関車方式なんでしょう。機関車だと機回しをしないといけないので不便です。King William St.の駅は1面1線だったとのことなので,下り本線上に前の列車の機関車を待機させておいて,次の列車を牽引して運転したのでしょう。といって電車がいいか,というと落とし穴があり,1903年8月10日,パリ地下鉄で84人が死亡する火災事故が起きています。電車ですから複数(パリの場合は編成前後)の動力車を総括制御する必要がありますが,当時は路面電車と同じ直接制御式のため,高圧配線が床下を通っていて,それが絶縁破壊したのが火災の原因です。先ほどのWaterloo & Cityも直接制御式です。シールドトンネルなので床下のスペースが狭く,客室天井部分に11本もの高圧配線が通っていたそうです.......。直並列制御していたため,本数が多いようなのですが,幸い,火災事故は起こらず,1940年に当時,この路線を管轄していた国鉄が新型車両に置き換えるまで使用されました。のちに制御回路は低圧として高圧を扱わない,間接式制御が主流となります。

rail'jpg.jpg 直流4線式になっています。

地下鉄の経営は建設費が膨大なことからどこも厳しく,City & South London Railwayも例外ではなく,20年後に米国傘下資本に吸収されてしまいますが,その間,目立った事故はなく,iruchanは鉄道技術の偉大なパイオニアとして尊敬しています。

その後,このシールド工法により建設された地下鉄が増えていきます。

Tubeと呼ばれたのは1900年に開業したCentral London Railway(CLR。現在のCentral線)です。City & South Londonを大型化した車両が特徴で,これが以後のtube車両の基礎となります。区間は現在のCentral線Shepherd's Bush~Bank間です。1903年からは本格的な7両編成の電車方式で運転開始します。というのは安全性の観点から,電車方式は不認可で,最初は機関車方式しか認められなかったためです。▲の事故の前にすでに,直接制御方式による電車の火災が相次いでいました。それで機関車方式でスタートしたのですが,周辺のビルに与える振動がひどく,わずか3年で電車方式に変更します。

この電車の制御装置には米国のFrank J. Spragueが発明した間接式が用いられました。

Spragueは電車の開発に重要な,この間接式総括制御と吊掛式動力伝達装置を発明した人物です。どちらも長く用いられたのはよく知られていますね。C&SLRやCLRの機関車は吊掛式が発明される前だったので,電機子軸に直接車輪がついているダイレクトドライブ方式ですが,軸重が重くなり,振動が大きいです。これを解決したのが吊掛式です。CLRの電車も吊掛式です。

一方,間接式制御については,Spragueはもともとエレベータの会社を経営しており,そのモータを制御するためのリレーをon,offする機構から発明したもので,モータで接点がついたドラムを回転させるものです。最初に用いられたのはシカゴのSouth Side Elevated Railwayで,iruchanも大好きなTVドラマ "ER" でよく登場するループと呼ばれる高架式鉄道の一部です。ここを1897年に電化する際に採用されました。アメリカって都会の路面電車を地下にするんじゃなくて,シカゴやニューヨークもそうですけど,高架式鉄道にしました。ディズニーの "ズートピア" に出てくる電車もそうですね。どうもニューヨークのマンハッタン島は地下が岩盤で,トンネルが掘りにくかったのが原因ではないかと思います。ただ,高架式鉄道だと騒音や振動がひどいし,日照の問題もあり,結局,どんどん廃止されることになり,今残っているのはシカゴくらいですね。ちなみにニューヨークの地下鉄は1904年に開業しています。

もっとも,Sprague自身はそれほど電車の開発に熱心だったわけではなく,やはりエレベータに専念することにし,その後,電車制御部門はライバルのGEに買収され,それをいやがったエンジニア達が作ったのがWestinghouseの電車部門です。その後,この両社が電車の制御装置の開発を主導するわけですね。日本でもGEと提携した東芝系のカム軸式制御器とWHと提携した三菱電機系の単位スイッチ式制御器が普及することになります。インバータ式になっちゃったので,もう笑いごとという感じすらするくらい,直流の抵抗式制御の話は過去のものとなってしまいましたけど......。

再び,Central London Railwayに戻りますと,この1903年の電車は全鋼製車体で,確証はないのですが,一部の本には世界初と書かれています。やはり地下鉄は火災がいちばん怖く,1927年開業の銀座線の1000形がわが国初の全鋼製電車なのも火災を警戒してのことです。国鉄でも私鉄でも,全鋼製の車両が普及するのは戦後のことですから,どちらも非常に早いですね。また,1909年にはATSを設置しています。ATSは銀座線や丸ノ内線,御堂筋線,東山線などで使われた打子式ATSで,赤信号に連動してT字型のレバーが地上から立ち上がり,赤信号を冒進するとそのレバーが列車のブレーキ管に設けたコックを開く,と言うものです。

以後,1900年にはアメリカの資本が入ってCity & South LondonやCentral Londonも含め,すべての地下鉄道会社を買収するとともに,新路線の建設を進め,1920年代には今の路線網がほぼ完成しています。

ただ,シールド工法を使ってもさすがに地下鉄の建設費は膨大で,おまけにDistrictなどのSurface Lineの電化も課題となり,次第に米国資本が入って会社の統合が進みます。おそらく,第1次世界大戦の前後にはかつての大英帝国の威光も消え,新興国のアメリカの援助を仰がないといけない状態になっていたのだと思いますが,シカゴなどで路面電車などの交通網を独占していた,Charles Tyson Yerkesの格好の獲物だったのでしょう。彼はロンドンの地下鉄も支配します。

Yerkesはシカゴの市内交通網を贈賄や恐喝など挙げ句の果ては女まで使ったりして,合法,非合法のあらゆる手段を使って競合相手を買収し,独占すると収益・配当最優先の経営をしていた人物です。メンテナンスは最低限に抑え,古い設備と車両ばかりで列車本数が減り,混雑は大変なもので,サービス低下は著しく,市民の怒りが溜まっていた状況のようです。フランチャイズ権を維持するため,市当局への贈賄もさすがに収賄側からもまずいと思われる状況となって交渉がうまくいかなくなり,とうとう最後にシカゴの交通網を売却して,今度はロンドンに目をつけた,と言うわけです。

今,日本の各地で自治体の財政状況悪化から水道を欧米コングロマリットに売却する動きがありますけど,危険です。すでにアジア各地でこのような19世紀のシカゴの交通網と同じサービス低下と料金の大幅上昇が見られます。安全であるはずの水道がこんなになっちゃうとまずいと思います。

彼は有名なヤーキス天文台もシカゴ大学に寄贈? していますが,実際はシカゴ大学が "これであなたの汚名も返上できるでしょ" とほのめかして寄付を要求したようです。また,すぐに新聞に合意をリークし,Yerkesが断ろうとしたら新聞に出ている,と言う状況で,この点はシカゴ大学の方が一枚上,だったようです。

ヤーキス天文台,と言うと世界最大40インチの屈折望遠鏡を持っていることで有名で,iruchanも子供の頃から知っているのですが,今じゃ,誰もロンドンではYerkesの名前なんて知らないのに,星に興味がある人はこの悪名高い人物を誰でも知っている,というのは皮肉なことです。

1933年7月,とうとうロンドン地下鉄は国有化されることになり,Yerkesの帝国も終焉を迎えることとなります。彼自身は1905年にニューヨークへの帰途,腎臓病で世を去っています。

     ☆          ☆          ☆

ロンドンの地下鉄の電化方式はユニークな4線式です。

普通,第3軌条方式なら銀座線みたいに負のレールは不要なのですが,ロンドンは4線式になっています。これはYerkesなどが米国で使われている電化・信号システムを持ち込んだためのようです。最後まで,Yerkesの買収に抵抗した孤高のMetropolitanはハンガリーGunz社の3000V3相交流電化システムの採用を検討しますが,先にMetropolitan Districtを買収してCircle線の電化をもくろんでいたYerkesと衝突し,結局,当時,交通行政を担当していた商務省が調整に入り,Yerkesの直流電化システムに決します。Circle線およびDistrict本線の電化完成は1905年7月1日のことです。

ところが.......,

いきなり初日から大トラブルで,集中豪雨でHammersmith駅が水没したり,Acton Townの駅で電車が脱線したばかりか,そもそもMetの電車がDistrictの線路へ乗り入れできない,と言うことが判明して大騒ぎとなります。なんと,Metの集電靴が低すぎ,Districtの第3軌条に引っかかっちゃったようです。この両社の仲が悪いことはさっきも書きましたけど,なんと,共同で試験区間を作って電化試験をやったのに,営業開始日まで,一度も乗り入れ試験をやっていなかったようです。お前ら何やってんだ......。

結局,蒸気機関車を引っ張り出してきて蒸機運転を再開して列車の運行を確保するとともに,Districtの電化設備を3ヶ月かかって改修してようやく電車による運転が開始されます。やれやれ.....。

ちなみに,3相交流電化はスイスのユングフラウ鉄道やゴルナーグラート鉄道に見られますが,パンタが2丁載っていて,レールと3本で3相交流を使っています。渡り線どうすんだろ~,なんて思っちゃいますし,当時は整流器がないので電車のモータは誘導モータを使う予定だったんですけど,インバータなんてない時代,回転制御はどうすんだ? という気がしますが,こちらは抵抗制御でなんとかなります。一応,誘導モータも電圧で回転数を制御することが可能ですので。もっとも抵抗じゃ損失が大きいので,可変リアクトルを使っているはずです。

もっとも,架線方式での地下鉄電化は架線切断時の火災の危険性が大きく,Surface線はもとより,tube路線では天井の高さが全然足りない,と言うこともあり,無理があったと思います。

次に問題となったのは信号。

すでに自動信号システムは一部で導入されていましたが,列車本数が増えると閉塞区間も短くする必要があります。

C & SLRやCLRで用いられていた自動信号システムは駅の出発信号と場内信号を制御するだけのものなので機械式接点を採用したシステムで,軌道回路を用いないものなので問題ないのですが,列車本数が増えると軌道回路を用いて,さらには閉塞長も短くしたい,と言うことになります。

ところが,鉄道の電化システムはレールを負のき電線として使うため,信号は2本のレールに流す必要がありますが,これとバッティングしちゃいます。

普通は日本など,信号には交流を使います。こうすると,電車を走らせるき電電流と信号電流を分離できます。レールを閉塞区間ごとに切り離さなくてはいけなくても,インピーダンスボンドを使って直流的にはつながっている状態にでき,き電電流を変電所に返すことができます。

まだロンドンのシステムでは交流の信号システムが開発されていなかったため,直流を使いましたが,そのため,走行用のレールとは絶縁する必要があり,4線式となっているようです。最初,見たときはなんでこうなっているの~!? とびっくりした記憶があります。

     ☆          ☆          ☆

今ではロンドンの路線延長は400kmを超え,東京の倍です。そもそも日本では建設費が高く,おまけに丸ノ内線の後は相互乗り入れが前提となったため,トンネルが大きすぎます。これじゃ,お金がかかりすぎ。今じゃソウルの方が路線長が長いなんて,おかしいと思います。おまけに相互乗り入れしているから,結局はどの路線も大手町と霞ヶ関を通るような路線ばかりで,肝心の所に地下鉄が通っていない,と言う状況はなんとかしてほしいです。六本木なんて,大江戸線が通るまで長い間,日比谷線しか通っていませんでしたし,品川は今でも地下鉄がありませんね。

最初から,ロンドンみたいにミニ地下鉄で作っておけば東京はもっと便利になっていたのでは,と思います。ミニ地下鉄にして低コストで路線の建設を進め,本当に必要なところに線路を引いた方がよかったでしょう。ターミナルで乗り換えが必要になりますが,ロンドンではターミナル駅のホームど真ん中に地下鉄コンコース行きのエスカレータがあったり,乗り換えが非常に便利になっていますから,それほど不便を感じません。

むしろ,相互乗り入れなんてやっているから○○の山奥で人身事故があったからと言って都心の地下鉄が遅れる.....なんておかしくありません? また,環状線は地下鉄でやるのがやはり正解。日本は東京も大阪もJRがやっているので,乗り換えのたびに料金取られるのも不都合。地上を走っているので乗り入れもできない。ロンドンの地下鉄が四通八達しているのは郊外線の電車が環状線に乗り入れることができるからで,そのため旅行者には非常にわかりにくいですが,慣れると乗り換えが少なく,非常に便利です。名古屋は地下鉄で環状線作ったので正解です。さらに,名古屋はどうしても環状線と言っても輸送密度が部分的に異なるので,名古屋港へ行く電車を利用して,混雑する大曽根~金山間を緩和しているのはお見事[晴れ][晴れ]

そもそも東京メトロは13号線が完成したら東京の路線網は完成,と言っているので,新たな路線が建設されることはありません。一体,どうなっているのか......。

話が脱線しましたが鉄道の話をしてるんだから脱線はまずい,ロンドンはやはり地下鉄が便利。ヒースロー空港へも延びています。iruchanもよく利用しています。
 
     ☆          ☆          ☆
 
2018年9月15日追記
けふの日経朝刊にかやうな記事が載つてをりました。
連続災害(日経'18.9.15).jpg
一体,いつから日本はこんな高い周波数で電化されるようになったんだ.......。

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倫敦消息~ロンドンから~ [紀行]

2018年9月15日の日記

先日,黒部峡谷へ行ったばかりですが,iruchanは今日まで,ロンドンに仕事で行っておりました。ロンドンは実に18年ぶり。さすがに子供が生まれたので最近はほとんど行っていませんでした。ずいぶんと街は変わったかな,と思ってもほとんど変わっていません。昔ながらの古い建物が建ち並ぶ街並みは本当に美しいですね。家はおろか,ビルまで古くなると建て替えちゃうどこかの国とはえらい違いです。だからそんな国の首都はちょっとの年月ですっかり町の風景が変わっちゃいますが,さすがロンドンはいつ行っても荘重な雰囲気は変わらず,街並みは美しいですね。

さて,なんとか夕方,早めに会議を終え,地下鉄Circle線のEmbankment駅へ。ここからナショナル・ギャラリーに行くことにします。

trafalger square.jpg ナショナル・ギャラリー

正面はトラファルガー広場で,1805年,仏=スペイン連合艦隊をトラファルガー沖で破ったネルソン提督が立っています。

う~~ん,なんか,日本だと東郷元帥が銅像になって東京駅前の広場に立っているようなものなんですが,銅像と言えば日露戦争の時の旅順港閉塞作戦中に戦死して,万世橋駅前の銅像になった広瀬中佐が有名ですね。おそらく,この像を参考にしたのだと思います。太平洋戦争後,日本の軍国教育のひとつとされて撤去され,再建されることはありませんでした。

さて,ナショナル・ギャラリーでのお目当てはこの子。

the execution of lady jane grey.jpgレディ・ジェーン・グレイの処刑

  Delaroch's "The execution of Lady Jane Grey"

夏目漱石がこの絵を見て,恐怖感を覚えて短編 "倫敦塔" に書いていますね。英国留学中に抑うつ状態となって下宿に引きこもっていたのはよく知られていますが,この絵の影響もあったのでしょうか。

iruchanもこの絵のことを最初に知ったのは中学の時に朝日の日曜版に出ていたのを見たのが初めてですが,これほど残酷で怖い絵はない,と思ったものです。

一度,実物を見てみたい,と思っていたのですが.....。

昨年10月から,東京・上野の森美術館に来ていたので,見に行きたかったのですが,3時間待ちなんて大人気で,とても見に行く気がせず,今度ロンドンに行ったらナショナル・ギャラリーに行こう,と思っていました。

ところが......。

残念ながら,今,この絵はナショナル・ギャラリーで展示されていないのです。

事前にググってみて大ショック[雨][雨][雨]

さすがに,もう幽霊になっちゃったので,どこかで化けて出ているのだろう,と思いましたが....。どこほっつき歩いてんだよ.......。

しかたないので,インフォメーションの親切なおばさんに聞いてみると,やはり "on the loan" (貸し出し中)とのこと。さすがにそれだけじゃ面白くないので,今どこ? と聞いてみたら,端末をチョコチョコ叩いて調べてくれ,今はヒューストンらしいです。ついでに,今度,ロンドンに帰ってくるのは来年2月だそうです。

アメリカなんかでボ~っと遊んでんじゃねぇよ~~(チコちゃんの声で!)

と思いました。そもそもお前さんが死んだとき,アメリカなんて国はなかったろう,そんなとこで化けて出ててもど~しようもないやろ,と思いました.....(^^;)。

と言う次第で,よほどiruchanはこの子に嫌われているのか,いまだに会ったことがないのです。

        ☆           ☆           ☆

1537年,ヘンリー8世の異父兄であったサフォーク公の長女して生まれたジェーンはヘンリー8世の唯一の生存男子で,9歳で即位したエドワード6世がわずか15歳で死去すると,その跡目争いに巻き込まれていくことになります。

もちろん,そんな幼い子供が即位すると周辺の重臣達が政治利用するのは明らかなので,ヘンリー8世は集団指導体制を遺言していくのですが,豊臣秀頼同様,こういう体制がうまく行くわけはなく,重臣の1人で枢密院議長に就任したジョン・ダドリーがジェーンを利用し,息子と結婚させた彼女を即位させて後ろで操ろう,と考えました。

問題となるのはヘンリー8世の長女のメアリーです。それに,妹にはエリザベスがいます。

そこでジョン・ダドリーはメアリーがカトリックなのを利用し,エドワード6世に次はジェーンと遺言させてジェーンの即位を宣言しますが,メアリーの拘束ができなかったのが失敗のもとで,逆にジェーンが拘束されてロンドン塔に幽閉され,処刑されることとなってしまいます。彼女が即位してから9日後に処刑されたので,9日間の女王,とも呼ばれます。処刑されたときは16歳でした。うちの娘と同い年だな......。

デラローシュが19世紀に描いたこの絵は実際の処刑の場面ではない,ということが明らかになっています。

本来は反逆罪なので,衆人環視のもと,黒い囚人服を着て,目隠しもされず公開処刑されていて,実際には最後に勇敢にも "Please dispatch me quickly." (早くあの世に行かせて)と言ったそうです。

ところが,この絵は白い服をまとい,従容として死を受け入れ,密室で最後に自分の首を載せる台を手探りで探し,と言う絵になっています。奥では侍女が絶望のあまり,壁に倒れかかっていますし,彼女の耳元では教誨師? が最後のお祈りを捧げています。床には血を吸うためのわらが敷き詰められ,処刑人も気の進まない仕事を押しつけられ,女王に憐憫の情を寄せている感じがします。

斬首刑と言っても,当時は斧で力任せに首を切り落とす,と言う手法が普通で,ただ,のちの断頭台でもそうでしたけど,結構,首って切り落とすのは困難で,失敗することが多く,実際,エリザベスに殺されたスコットランド女王のメアリー1世(先ほどのメアリーとは別人。在位1542~1567)も1刀目ではまだ生きていて,何かお祈りを捧げていたので2刀目を振り下ろしても,まだ首が切断されず,ようやく斧をのこぎりのようにして切り落としたと言われています。それでフランスのギヨタン博士が断頭台を発明するのですが,これとてうまく行かないことがあり,フランスのルイ16世も刃が落ちた後,何か叫んでいて,そこでしかたなく,処刑人が体重をかけて首を切り落とした,と言う話が残っているくらいです......。ゾ~ッ!。

メアリーはイングランド女王として即位し,徹底的にプロテスタントを迫害します。カクテルのブラディ・メリーは彼女にちなんだものであることは有名ですね。iruchanも好きなお酒です。

実はこの絵は,彼女は国王として権力を振るって国を支配するつもりなどなく,単に世間に対して無知で,義父に利用されただけと彼女の潔白を証明するため,あえて史実とは異なる状況で描かれた,とされているのです。

あまりにもiruchanも気の毒で見るに堪えない絵なのですが,一度,本物を見てみたいと思っています。いまだにその夢は叶っていないのですが......。

絵はがきを買ってきたので,毎日,拝んで彼女の霊を慰めることにします。

しかたないので,と言うわけじゃありませんが,もう一つのお目当てはやはりフェルメール。ナショナル・ギャラリーには2枚,展示されています。

vermer.jpg 大好きなフェルメールです。

"ヴァージナルの前に立つ女" と "ヴァージナルの前に座る女" の2枚が展示されています。狭い第16室で展示されていて,まあ,誰かに聞かないと行けないような奥の狭い部屋で,iruchanもスタッフに聞きました......(^^;)。


rembrandt.jpg 

  レンブラントの有名なこの絵はここにあります。

どうもiruchanはオランダ絵画が好きなのか,レンブラントも大好きです。1669年,彼が63歳の時の自画像です。この年,世を去っています。

わさび.jpg わさびってなんだよ~

帰りはどこかで食事を,と思っても,1人じゃレストランに入るのも気が引けるし,時差ぼけでそんなに食欲もないしな~と思っていたらEmbankmentの駅前に持ち帰りの寿司屋があり,結構,OLの おばさん お姉さん達で賑わっています。

どうにも気になるので買ってみました。iruchanはレストランを選ぶ基準として,おばさん お姉さんが多い店,と言うのを基準にしています。おばさん お姉さんというのは味にうるさいですからね.......。ホテルに帰って調べてみると,わさびという英国のチェーン店のようです。

食べてみてびっくり[雷]

まあ,わさびは外人さんには受けないので,別の袋に入っていますし,アボガドが入ったカリフォルニア巻が入っているのはご愛敬として,マグロやサーモンの握りはもとより,巻き寿司も非常に美味[晴れ][晴れ] 少なくとも,うちの嫁さんが近所のスーパーで買ってくるサーモンより断然おいしい! お米もちゃんと短粒種(当たり前か~~)だし,おいしい寿司でした。値段もリーズナブル。▲の寿司セットは£8くらいです。まあ,日本より少し高い,くらいでしょうか。ほかにDonburiと称して鳥の照り焼きのどんぶりや,カレーの弁当もあり,おいしそうでした。

なにより,ちゃんと日本の文化であることを紹介するため,わさび なんて店の名前にしているのも好感がもてますし,親切な兄ちゃんは ”Kotchi!" なんてかたことの日本語をしゃべっていました。

こうして古いものは古いものとして大切に保存し,新しいものも優れたものには敬意を払い,受け容れていく,という国民性は大いに見習うべきだと思いました。

以前,ワシントンのダレス空港で,韓国人が経営する寿司の売店がありましたけど,いきなり "アンニョンハセヨ" っと挨拶されたのにはさすがのiruchanもブチ切れた経験があります。"You must say, 'Konnichiwa'" と言ってやりましたけど......。

さすがにこの寿司だけじゃ,足りないと思ったのでカップ麺を買いました。といって,結構寿司は量が多く,これでお腹がいっぱいになっちゃったのですけど.....。

ワシントンでちゃんと日清が作っている,カップヌードルを買って帰ってきたことがありますが,あまりにまずくて子供らは誰も食べず,iruchanが一人で食べた経験があります。カップヌードルと言っても米国人向けの味付けになっていて,とても食べられたもんじゃありませんでした....。

そのときの経験もあるので警戒したのですが,このラーメンは意外においしかった[晴れ]

麺はそうめんみたいに細くて丸い麺です。スープは豚骨らしく,意外においしいです。ただ,うまくかき混ぜなかったらしく,底の方は酸っぱくて参りましたけど.....。一応,日本風にKabutoというブランドになっていて,"Samurai must stir first." なんて注意書き? もありました。オレはサムライじゃねえってば!

といっても,側面には "He who knows others is wise, he who knows noodles is enlightened." って書いてありました。それは老子だっちゅ~の!!

さて,翌日はもう帰らなきゃいけないので,あまり遠くへ行っちゃいけません!

都心へ行くのはあきらめた方がよいので,ホテルから近いキュー・ガーデンへ。一度,行ってみたかったんですよね~。

さすがにキュー・ガーデンは地下鉄District線の終点Richmondに近いところなので,都心のホテルからは遠く,ツアーなんかにも入っていないことが多いと思います。iruchanもここへ行くのは初めてです。

District線の電車に乗ってものの30分もしないうちに緑豊かな田園地帯となり,ひろいテムズ川を渡るとKew Gardensの駅に着きます。さすがに周囲は高級住宅街だけあって,静かなところです。

それにしても地下鉄で30分ほどの距離のところに豊かな田園風景が広がり,こんな大きな公園があるなんて,やはり,英国はやはり素晴らしいですね! 日本じゃ,電車で30分乗ったって周りはビルだらけ,ですからね.....。

palm house.jpg 有名なパームハウスです。

キュー・ガーデンは1759年に王立植物園として開設されました。今はユネスコの世界遺産に指定されています。このPalm houseはその名の通り,ヤシなどの熱帯の樹木を育てるための温室で,1844年の建設です。大英帝国の領土内から運ばれた熱帯植物が栽培されています。中は上から雨粒みたいに温かい水滴が降っているくらいのきわめて高湿度になっています。あまり日本でもここまで熱帯の気候を再現した温室はないと思います。

temperate house.jpg Temperate house

もう一つ,ヴィクトリア朝の様式で建てられた温室があります。世界中の熱帯,亜熱帯の植物を栽培していて,日本の竹やサゴヤシの展示もありました。Native distribution:JAPANと書いてあるのが気になりましたけどね.....。Native distributionというと,原産地かと思いますが,まあ,日本でも宮崎などサゴヤシを植えているところがありますが,普通はインドネシアかそこらだと思いますが.....。

temperate house1.jpg Temperate Houseの中

   このように,中は美しい花が咲き乱れています。

cactus.jpg おみやげのサボテン

"たまに水をもらうのは好きだけど,窓越しの直射日光は避けて。焼けちゃう~~" ってのが笑えます。

日本では見たこともないような色とりどりのサボテンが売られていました。

おみやげに....と思っても,土がついている植物はいかなる種類でも持ち込み禁止ですので,日本に持って帰ることはできません。

まあ,英国人は園芸好きで,この公園も朝早くから賑わっていました。大好きな映画 "北京の55日" のラストで英国公使役のデヴィッド・ニーヴンが帰国したら何をする,と聞かれて田舎に帰って庭の手入れでもするよ,と答えているのはまるで日本人と感覚が同じ,と思っています。ちなみに,この映画,義和団事変に際して諸国軍が介入したときの話を描いていますが,日本からは伊丹十三がちらと顔を出していますね。

英国の人は日本人に似ているなと思っています。iruchanも毎日,誰からも頼りにされず冷や飯食ってるし,早く田舎に帰って庭いじりしたい.....。

        ☆              ☆              ☆

まあ,ヒースローへはPaddington駅からのHeathrow Expressの方が断然速くて快適ですから,そっちの方がいいです。地下鉄だと狭いし,スーツケース置く場所もありませんからね.....。

heathrow airport terminal5.jpg 大混雑のterminal 5

ヒースロー空港は2008年にターミナル5が開業し,大幅に改造されています。以前のターミナル1は2015年に閉鎖されています。iruchanもターミナル5を使うのは初めてです。

ただ......。

はっきり言ってゲロ混み。

出発に利用した羽田より混んでいて大変。それこそ人とすれ違うのも苦労するくらい混んでいるところもあって,帰りに空港でフィッシュ&チップスで昼飯,なんて考えていたらレストランもゲロ混みで,こんなんじゃおいしく食べられないのでドラッグストアで買ったサンドイッチで昼飯。まあ,イギリスのサンドイッチは結構おいしいので,これはこれでいいんですけどね.....。

それにしてもゲロ混みなのはあきれた。おまけにいつまで経っても出発ゲートが表示されない。普通はゲート横の椅子に座って本でも読んで待っているんですけど,それもできそうにない。

これじゃ,大変だなぁと思ったら,すでにターミナル6の計画があるらしいです。

まあ,やはり空港というのはその国の景気や利益ばかりじゃなく,そもそも国力を反映しているわけで.....,混んでいると言うことは結構なことです。帰りに着いた成田は薄汚く,がらんと空いているし,今の日本の状況を反映しているな,と思いました。おまけに東京まで1時間もかかる成田エクスプレスはやっぱりいただけない。駅の出札は大混雑だし,単線だからホームは逆方向の列車も来るし,出たと思ったら延々と田んぼの中を走るし.......,初めて日本に来た外国の人は驚くと思います。切符も日本語表記しかないのは驚き。外国からの観光客の皆さんはみんな聞いていました。

NEX切符.jpg 

 これじゃ,どこに座りゃいいのかわからへんやろ!

東京着はなぜか7分延! なんでこんなに遅れるの~~?。E259系も車内が薄汚いし,シートの赤いところも黒くなっていました.....orz。

アナ雪2.jpg アナ雪やってます[晴れ][晴れ]

帰りはBA(英国航空)にしました。行きの飛行機は777だったけど,帰りは787。国際線の787に乗るのは初めて!

やっぱり787は広いし,きれいなので快適。大気圧も1800mくらいなので少し気分も楽,という感じです。

残念ながらBAは映画がショボく,ロクなのがなかったけどアニメでアナ雪があったのに感激!! おもわず成田に着くまで4回も見ちゃいました.....(^^;)。

というのも日本語のほか,英,仏,伊,露,中,韓の7カ国語を選択できます。DVDだとリージョンの都合で日本じゃ,英,仏,伊版以外は見られませんし,そもそも日本版のアナ雪は英語しかついていませんからね。

まあ,韓国語,中国語で見る気はしないし,それに,どう聞いてもイタリア語じゃ,コメディーに聞こえちゃうのでフランス語とロシア語でも見てきました。また,仏,露,伊とも,アナではなくアンナと発音していました。

でも,やっぱり日本語版が最高。もちろん,意味がわかるというのは当然ですけど,何より松たか子さんと神田沙也加さんは歌も吹き替えも非常にうまくて最高!

"Let it go!" は以前,こちらで少し書きました。

フランス語版はどうにもみんな声がハスキーで,声域が低すぎ。歌はエルサのはちょっと違和感あり。特にエルサはシルヴィ・バルタンか,ブリジッド・バルドーみたいな感じがしてしかたない。どうもフランス人って,こういうダミ声が美人の条件,なんでしょうか......。

歌っているのはAnaïs Delvaさんで,カナダのフランス語版も歌っています。ただ,なんか,巻き舌で "Libérée, délivrée" ってどうにも耳についちゃってやな感じです。エンディングは日米は別の歌手でしたけど,フランスは同じ人が歌っています。

ロシア語版は結構,きれいな人が歌ってます。"ヤー,オラフ" ってのだけわかりましたけど。"ヤー,チャイカ"(私はカモメ)なんて言ったおばさんもいたな......(古っ!)

でも,なんかロシア語版もやたらダーと耳につきますね。それに......,

アナの最後のセリフも

frozen no!-1.jpg ニェッ~~~ト!!

でした。

エルサの首を悪党のハンスがはねようとしたとき,止めに入ったアナが最後に叫んだ言葉.....神田沙也加さんのダメ~~っ!! もいいですけど,英語版はNo! なのでロシア語版もやはりニェットでした。

iruchanは,お前はウィッテかよ,樺太全部よこせ~って思いました.....(^^;)。

    ☆          ☆          ☆

ところで,ジェーン・グレイは反逆者とされているので,Queenの称号じゃなく,単にLadyと称されています。

彼女は家柄と長女という立場から厳格に育てられ,ほとんど外出も許されず,読書を唯一の楽しみとして育ったそうです。なんかエルサと似ているな~。聡明な彼女はもし,女王として君臨していたらイングランドの歴史に名を残したかもしれません。

ただ,歴史上,わずか9日間だけだったとは言え,女王として即位しているのですし,そもそも歴史というのは勝者が記録,記述するので,歪曲している可能性もありますから,歴史はのちの歴史家が公正な立場で考えるべきです。

公正に考えればやはり彼女は歴史上,最初のイングランドの女王とすべきでしょう。おそらく,メアリー1世が "She was not Queen." と言った(言いそうな)のを歴史家が忖度してそのように書いていたのでしょう。

それにしても悪党のハンスがアナを見殺しにして,エルサを斬首して権力を握れば正統性を主張して歴史が枉げられていたでしょう。後で牢獄にぶち込まれたハンスを国外退去処分にしたのはいただけない。アレンデールの国内法できちんと裁くべきだったでしょう。とはいえ,殺人未遂で終わってしまっているので,ロシアのニコライ皇太子に斬りかかった津田三蔵同様,死刑にするには難しいかと......。

彼を殺人未遂罪で裁き,無期徒刑に処した大審院長の児島惟謙は日本が法治国家であることを国内外に示した偉人だと中学の時に習いました。しかし,児島は翌年,花札賭博の罪を着せられ,職を追われているし,後世はパッとした活躍をできていないようです。結局は,正しいことを言ってもこの国では正しく評価されないんだ,ということを知ったのはずっと後のことです。


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