イギリス旅行記~その4:Bletchley Park & Tha National Museum of Computing [紀行]
2024年3月10日の日記
さて,翌日はちょっと電車に乗って,ブレッチリー・パークへ。
こんなところまで来る,日本人なんていない,と思いますけど.....。実際,日本人はもちろん,最近はどこに行ってもいる,隣りの赤い国の人もまったく見かけませんでした......。
ストーンヘンジにはたくさんいらっしゃったのですけど.....要は,隣りの赤い国の人たちは自国で予約できる旅行社のツアーに入っているところなら行けるけど,自分で予約しないといけないところには行けない,ということなんでしょうね....。まあ,日本人も昔はそうでしたけど......。
ここは戦時中,ナチス・ドイツや日本など,敵国の暗号通信を解読していた施設です。iruchanは一度,行ってみたい,と思っていました。
有名な,エニグマ(Enigma)ですね~。解読不能とまで言われた暗号です。
ここに,チューリング(Alan Turing:1912.6.23~1954.6.7)らがいて,ドイツの暗号を解読しました。
もっとも,エニグマ自体は1915年,オランダのSpenglerと,van Hengelが開発した歯車を用いた暗号機で,特許も取得していますし,商品になって発売されていたりしましたから,原理は早くからわかっていた,と思います。
1922年にはドイツのScherbius und Ritter社に特許を供与し,ドイツとの関係が生まれます。翌年,同社が製品化しますが,それに伴って購入することもできました。
ただ,これをドイツ軍が独自に改良(改悪?)し,電話交換機のようなプラグボードを追加して電気結線を複雑にした上,歯車も最初は3個でしたが,最大8個まで使用できるようにして,暗号の解読を難しくしてしまいます。
ちなみに復号する場合は,同じセッティングの装置を用意すれば簡単に復号できる仕組みになっています。
中でもLorenz社が作ったSZ42は最強と言われ,特にドイツの高官用の暗号として使われ,その解読はチューリングらの目標でした。
エニグマは単字置換式の暗号で,入力された文字を1字ずつ,別の文字に置換しますが,2回目に同じ字を入力しても同じ字にはならないようになっています。その組み合わせは当初の3歯車式のものでも,3つの歯車と結線の変更により,1.6×1020 通りの組み合わせとなってしまいます。
これらのセッティングは毎日,午前0時に変更され,翌日は別の歯車と結線の組み合わせになってしまいます。
とはいえ,1941年5月9日,ドイツ海軍のUボート,U110がアイルランド沖で拿捕され,沈没直前に暗号機やコードブックを入手し,解読の手がかりを得ています。プリムローズ作戦ですね。iruchanはこれは知っていました。
一方,日本の暗号はセッティング変更をほとんどしなかったので,簡単に破られちゃった訳ですけど.....
そもそも暗号の解読なんて,武士のすることではない,と考える偉いさんが多かった国ですから,他国の暗号を解読しよう,という努力はほとんどなかったでしょうし,実際にはできなかった訳ですしね。
そもそも近代の戦争とはなんなのか,まったく理解していなかった,と思います。
もっとも,この解読不能とまで言われたエニグマですが,入力されるもとの平文の文字は決して,その文字には変換されない,という欠点があり,そこをチューリングらは突破口として解読するわけです。
つまり,単純には,ありとあらゆる文字の組み合わせを考え,それをもとの暗号文と比較して,同じ文字が現れてこない組み合わせを探す.....ということになります。また,e や i だとたくさん出現しますが,q や j は出現頻度が低いので,これらの文字を含め,解読するアルゴリズムは複雑だと思います。
ブレッチリー・パークではエニグマ暗号を総称してFishのコードネームで呼び,さらに,陸軍の暗号はTunny(マグロ),空軍はSturgeon(チョウザメ)のコードネームで呼ばれていました。
なんで魚ばかりなのか....というと,ドイツ軍が自らの暗号システムをSägefisch(sawfish ノコギリザメ)と呼んでいたためのようです。
LorenzのSZ42が生成する暗号文の解読のため,世界初のデジタルコンピュータ,コロッサス(Colossus;”巨像" の意があります)が1943年末に完成します。
これ自体はチューリングは製作にかかわらず,開発したのは中央郵便局のFlowersですが,1944年2月から稼働します。改良されて,マークⅡとなったものもの含め,全部で10台製作されました。
前身はFlowersが作ったHeath Robinsonと呼ばれた暗号解読機で,これも▼のコンピュータ博物館で展示されています。
これ,人名なのでそのHeath Robinsonという人が作ったように思っちゃいますが,当時有名なイラストレータで,奇妙で複雑な装置のイラストを描いていたりしたので,女子職員がニックネームをつけ,それが定着してしまったようです。
Colossusはテープリーダで暗号と暗号解読用の鍵の両方を読み込んで解読する仕組みのHeath Robinsonを改良し,メモリに蓄積した暗号鍵で解読する仕組みでした。
ただ,世界初のコンピュータ,というと1946年に米ペンシルヴェニア大学のMauchlyらが作ったENIACが有名ですが,これはプログラムはなく,ハードウェア(結線)で構成するもので,計算も弾道表の計算が目的でしたから,computerではなく,calculatorというべきものです。数字も十進数を扱っていて,2進数ではありません。
Colossusの方は,戦後,エニグマがテロリストに流用されることを恐れて,というのが公式の理由とされていますが,実際はソ連や共産圏に渡って再利用されたときに,Colossusで解読しよう,と言う意図があったと思いますが,戦後,1990年代くらいまで英政府はその存在を秘匿しました。
それに,チャーチルがコヴェントリー空襲(1940.11.14)を事前に察知していたのに,暗号解読をしていることがドイツにばれるとまずいので警告しなかった,という話が流布していますが,おそらく,同様に,戦後,国民から賠償請求されるのを恐れたのではないか,と思います。
ところで,真空管式コンピュータって,戦後,日本以外では実際にUNIVACやIBMから装置として売られるくらい,意外に多数製造されているんですが,現在も稼働可能なのはこれだけではないか,と思います。真空管を2,500本も使用した,真空管式コンピュータを見てみたい,とずっと思っていました。
なお,ここにはブレッチリー・パークの暗号解読施設を博物館にしたところですが,博物館は2つありパーク全体を博物館とした,Bletchley Parkと,コンピュータの歴史を保存する,The National Museum of Computingがあります。後者はブレッチリー・パークのH棟なのですが,どうも組織が別のため,入場料金も別なのは困りもの。Bletchley Parkは£25.50,Museum of computingは£10です。結構高いですね.....
と言う次第ですけど,せっかくここまで,はるばる日本から来たので,見に行きたい,と思います。今回の英国旅行の目的のひとつです。
Bletchleyはロンドンからバーミンガムへ行く西海岸本線のルートにあり,ロンドン・ユーストン駅から通勤電車が出ていますし,iruchanはホテルに近い,Shepherd's Bushの駅から,West Midlandsのサービスで西海岸本線との接続点,Watford Junctionまで行って乗り換えました。
ホテルから近くのShepherd's Bushの駅から出発です。地下鉄central線と,旧国鉄の路線の交差点で,ターミナルになっています。
ロンドンの出発はここからです。地上のもと国鉄のOvergound路線の駅です。地下鉄駅は手前にあります。
ロンドンでは車両の規格が大きく異なるので,相互乗り入れはほとんどしていないため,乗り換えが必要になりますが,実際にこうやって乗り換えてみても,すぐ隣りに地下鉄の駅があったり,そもそも駅構内に地下鉄の入口があって,特に不便とは思いません。
むしろ,どこかの路線が止まったら,他社も含めて乗り入れている鉄道が全部止まってしまう日本より便利だし,効率がよいのではないか,と思います......
ただ,このShepherd's Bush駅など,Undergroundの駅とOvergroundの駅は隣接していますが,建物は別ということも多いので,注意が必要です。切符はどちらでも買えますけどね。ただ,どういうわけか,自動改札は使えません。駅員さんにひと言言うと,ホームへ入らせてくれます。
ここから,SouthernのサービスでWarfort Junctionまで行って,西海岸本線の列車に乗り換えます。
SRは第3軌条ですが,途中で架線に移行するので,この電車にはパンタグラフがついています。次のWembly Cenral駅までの間にパンタを上げて架線に移行するはずで,それもDC600VからAC25kVに切り替わるはずなんですが,結局,どこで切り替わっているのか,さっぱりわかりませんでした......。
この駅を出て,北に少し歩くとブレッチリー・パークに着きます。
ただ,西海岸本線はバーミンガムの前後でいくつかのルートがあり,Bletchleyを通らない列車もあるので,注意が必要です。バーミンガム周辺にいくつも大きな都市があるので,本線が何本にも分岐していて,それらの都市を経由してまんべんなくサービスが行き届くようにしているところはさすがだと思います。
とはいえ,英国鉄の民営化は日本よりも徹底していて,路線のみならず,列車ごとに分社化してしまったので,近年,非常に料金が高くなってしまっています。英国は鉄道は安かったのですけどね.....
London Shpherd's Bush~Bletchely間は幸い,この日,往復でも£20でしたけど,70kmほどの距離で3,800円ほどになりますから,やはり高いです
ここはもとは1883年,自由党の政治家Herbert Leonが建てたヴィクトリアゴシック様式の邸宅です。
ここに,戦時中,ドイツや日本の暗号解読のための研究所が設置されていました。チューリングがいて,亡命ポーランド人が開発した機械式の解読器BOMBEを改良し,エニグマを解読しました。その後,ドイツが暗号が解読されていることに気づいたのか,エニグマの設定を変え,歯車が1枚増えると解読できなくなり,Flowersが世界初のデジタルコンピュータ,Colossusを作ったことは知っていました。
ベネディクト・カンバーバッチがチューリングをやった,"イミテーション・ゲーム" (2014)をご覧になった方も多いと思います。また,この映画に隠れてしまいましたけど, "エニグマ" (2003)と言うそのものズバリ,と言うイギリス映画もあります。こちらは"タイタニック" のケイト・ウィンスレットが出ていますね。ちょっと地味で真面目な彼女もとても美しいです。
残念ながら,どちらも映画ではBOMBEが主体で,あまりColossusのことは出てこないのですが,実は,このColossusは2007年に復元され,実際に稼働する状況だということを聞いていたので,ぜひ,一度,見てみたい,と思っていました。
iruchanは,ずっと,BOMBと思っていました。発音は同じですが,BOMBEはいわゆるボンベのことです。
とはいえ,動いているときにカチカチと時計のような音がして,解読終了間近になると歯車が1個ずつ停止していくので,時限爆弾のように聞こえたから,と言う話もあり,それだったらBOMBじゃないのか,って思いますけどね.....。
Bletchley Parkのビジターセンターの横を歩いて,駐車場の奥になります。もし,時間がない,という人はこちらだけでもいいと思います。
本部とでも言うべき建物です。ここで出退勤管理や事務処理をしていました。
もとのHut 4の建物を利用しています。いかにも軍用施設,という感じがいいですね~。
iruchanも大好きなFish & Chipsを頼みました。やっぱ,ここではドイツ野郎のFishを食べないとね~~
でも,日本人だともう,これでお腹いっぱい,なんですけど.....。
英国や米国のレストラン行くと,注文したあとに必ず,"Anything else?" って聞かれますけど,ここで,"Yes" なんて答えると後悔します。食べきれませんってば。
でも,実際,周囲にいるイギリス人のオヤジを見ると,たいてい,ハンバーガーなんかも頼んでいたりしてビックリ。そりゃ,太るわなぁ~~
といって,前の日にもFish & Chipsを食べたのですが,魚は失敗。
前日はCodfishを食べたので,今日は別の魚にしよう,と思って,Haddockにしたら,どう見ても同じ。
何のことはない,Codはタラで,Haddockはコダラでした......
やっぱ,英語は勉強しないといけませんね......。
ほかにも,Plaice(オヒョウ)やSkate(ガンギエイ)やRay(エイ)なんて魚も使うようです。エイなんて食べるの~って感じですけどね。今度,こいつらを注文してみよう,と思います。
ここは中はなにも展示はなく,建物そのものの様子を見学するところのようです。
ここにチューリングらの科学者達が集まって,ビリヤードや宴会,芝居などが開催されたようです。要は福利厚生施設ですね....。
戦争中に科学者達の慰労を考えるような国と戦争をするべきではありません。
今度はBletchley Parkを出て,駐車場の奥にある,コンピュータ博物館を見学します。
ブレッチリー・パークはBOMBEまでですが,Colossusはこちらに展示されています。
簡単に言えば,Bletchley Parkは施設や人,歴史を見るためのソフトの博物館で,実際に解読した機械などのハードを見るにはこちら,という感じでした。
こちらはコンピュータ博物館で保存されているSZ42です。
解説にも,ホームページにも何にも書いていませんけど,右のテレプリンターはCNNに出ていますが,2016年にeBayに出て,この博物館がたった£9.50で入手したそうです。左の本体はノルウェーのオスロで保存されているものを長期借用しているようです。世界中に数台しかないようなので,写真を撮っておいてよかったです。
Lorenzの暗号を使った通信ネットワークが欧州に張り巡らされていました。ブレッチリー・パークでは,▲のような受信機で傍受し,モールス信号を18mmの紙テープにさん孔してHeath RobinsonやColossusに読み込ませます。
▲の無線システムの横に展示してありました。テープ読み込み部はColossusとそっくりです。
とはいえ,送信手によって,●と━の長さが異なるし,同じ送信手でも毎回,微妙に異なるはずですから,これらを0と1に対応して読み込ませるのは今でも結構,面倒な問題と思ったら,独軍はすでにテレプリンターに移行していて,5ビットで文字を送信する仕組みになっていたそうです。
真空管2,500本,消費電力9.5kWというのに驚きます。
ドイツ軍の暗号文を5bitの紙テープとして読み込みました。5bitなら,ドイツ語のアルファベットがカバーできるわけですね。
紙テープには横に5個,穴が開くようになっていて,かなりの高速で回っていました。符号は光電管で読み込みます。
それにしてもよくも当時,これだけの真空管を並べて配線したな,と思うと同時に,1990年代にこれだけ集めたな,と思います。まだ,EF50なんかは入手可能ですけどね.....。とは言え,これだけの数を集めるとなると,もう無理なんじゃぁ,ないでしょうか。
右から,CV105, EF50,6V6,42?, 807と思いますが,左の3本は英国球で型番不明です。
EF50のほか,EF37も使われていて,こういう5極管は論理素子としても乗算回路が構成できるのでわかるのですが,なんで6V6や807なんてパワー管が必要なのか.....。
☆EDSAC
ケンブリッジ大学が戦後,開発した初期のプログラム内蔵型コンピュータのひとつです。1949年に完成しました。
主記憶は水銀遅延線です。また,ウィンドウの中にあるCRTはVCR97と言うやつで,戦時中のレーダー用ですが,メモリの状況をモニターするためのものです。同様に,日本初のコンピュータFUJICは水銀遅延線を使用して成功しています。
CRTをメモリとして使うと,ランダムアクセスができて,実際のメモリの状況が画面に表示されるので,面白いですけど,制御が難しいので,使われていないようです....
使用されている真空管はGT管が多く,戦後の銀色シールドを被ったMG管タイプのEF50が多いようですが,欧州球ばかりのようです。
真空管で論理回路を構成するのは信頼性の面でもコストの面でも無理があると考えられたので,リレーやデカトロンなどの別の論理素子を使うことが考えられました。日本でもリレー式コンピュータはありましたし,パラメトロンなんてのも真剣に検討されましたね。
☆Harwell Dekatron Computer
デカトロンがコンピュータに使われた,というのは聞いていましたが,実物を見るのは初めてです。
デカトロンは放電管の1種で,パルスを1個,入力するごとに別の電極が光るようになっています。エレベータの階数を指示するのを見たことがありますが,電極の電圧を見るとパルスのカウントができます。
これは英Harwell社が1950年に開発したデカトロンコンピュータです。リレーとデカトロンを使っています。
残念ながら,真空管と半導体以外のスイッチング素子を使ったコンピュータは演算速度が遅く,すぐに取って代わられることになります。また,意外に真空管が信頼性が高いことがわかって,IBMなどからもビジネス用として真空管式コンピュータが販売されていますよね。本機も1956年には引退しているようです。
引退後,Wolverhampton大学が譲り受け,Wolverhampton Instrument for Teaching and Computation from HarwellということでWITCH(魔女)と命名されます。なんか,こじつけ.....
☆Gazza Record
さて,今日は一日,ロンドンを離れていましたけど,ホテルに帰る前に,一軒,寄っておきたいお店があります。
Bletchleyの隣りのLeighton Buzzardという街に中古レコード屋さんがあり,iruchanが探していた,Coleman Hawkinsのレコードがありました。
Discogsで見つけたので,注文し,引き取りは現地でお願いしていました。
Bletchleyからひと駅,Euston駅行きの電車に乗り,下車しました。Leighton Buzzardは人口3万5000人の小さな街ですが,中心部にマーケットがあり,とても賑わっています。
なぜか駅は無人駅。その割にたくさんの人が待合室で待っていますし,売店も開いています。時間や曜日によっては駅員さんがいるのかもしれませんけどね。電車は多く,頻繁にロンドンやバーミンガムなどへ行く電車が停まり,なかなか便利そうです。
駅からちょっと歩いて,人1人しか歩けないような細い道を歩いたりして,Gazza Recordに着きました。
レンガ作りの元は倉庫? らしき建物です。周囲に溶け込んで美しいですが,溶け込みすぎて,最初,通り過ぎちゃいました....。
最近,やはりレコードが若い人にも人気があり,英国でも同じようで,訪ねてみたら,若い女性が頼んだレコードを引き取りに来ていました。
とても小さなお店でしたけど,パンクやレゲエのレコードが一杯。
店主のGaryさんは本当に音楽が大好き,という陽気なおじさんでした。
店主と顔なじみの常連さんが大歓迎してくれました。その常連さんはマドンナのファンらしく,彼女のレコードを買って帰りました。iruchanも高校生の頃,マドンナよく聴いていたな~。
美味しいエスプレッソをいただいて,Coleman Hawkinsと,ついでにPeggy Leeのベスト盤を買って帰りました。
米盤が1961年に出ていますけど,その5年後に出た英盤の方が断然音がよかったです。
帰ってきて,自宅のシステムで聴いてみました。Garrard 301で聴くとサイコ~
再び,Leighton Buzzardの駅からEuston駅行きの電車に乗り,ホテルに戻りました。
例によって,欧州の列車は最高速度100マイル/時なので,160km/h! 通勤電車でもものすごく速いです。
某JRの新快速も真っ青のスピードで,断然,英国の各停は速いです。某JRの中央線の鈍足じゃなかった,快速なんか,氏ね! ですね~
今日は久しぶりに夕日がきれい。ずっと滞在中,曇りでしたし,夜は必ず雨が降るし,日中も時折,ザーッと雨が降る,という冬のロンドンの陰鬱な天気でしたけど,明日はようやく晴れるみたいです。
なんか,最終日だけ晴れる,という皮肉な天気でしたが,行きたいところには全部行けたし,大満足です。
イギリス旅行記~その3:British Vintage Wireless & Television Museum & さよならAMラジオ~送信所めぐり~その13:BBC Crystal Palace送信所,Alexandra Palace TV送信所 [紀行]
2024年2月20日の日記
今日はラジオ関連の博物館めぐりと,BBCの送信所を訪ねてきました。
ロンドンはものすごくたくさんの博物館があり,電話や郵便の博物館までありますけど,さすがに,ラジオとTVの博物館というとここだけ,だと思います。
また,Science Museumは国立,電話や郵便だと企業の博物館ですが,ここは私設の博物館で,その点では施設も貧相で,ちょっと気の毒な感じもしましたが,大変なコレクションでした。
場所はロンドン南部,ダリッチ地域にあります。Dulwichというところなので,ダルウィッチと発音するのか,と思ったのですが,電車の自動放送ではダリッチと発音していました。
ロンドン・ヴィクトリア駅からsoutheasternのサービスでWest Dulwichまで電車で行くか,地下鉄でヴィクトリア線Brixtonからバス3 Crystal Palace行きに乗れば行けます。
ちょっと離れたところにBBCのクリスタル・パレス送信所があります。
知ってはいましたが,博物館としての建物はなく,ごく普通の民家の裏庭に何軒か,仮設の木造倉庫みたいな建物を建てて,そこに展示しています。特になにもmuseumという看板もないので,googleマップで見ないと通り過ぎてしまいます。
また,開館は金曜午後のみなので,事前に予約が必要です。
BushやRobertsなどの英国ブランドのラジオのほか,Philipsがやはり強いんですね~。美しいヨーロッパ風のラジオがたくさん並んでいます。
PYE 25B(1928)とCossor 390U(1938)
どちらも英国のラジオブランドです。美しいデザインですね。Cossorのはそっくりさんが戦後,まね下電器などから販売されていますね......
PYEは驚いたことに4球ポータブルです。Cossorも4球ですが,AC電源仕様のTRFです。
ところで,PYEはこのようにRising Sunといって,有名なデザインですが,日本からインスパイアされたものか,ずっと疑問に思っていたので,聞いてみると,やはりそのようで,戦前のジャポニスムブームに乗ってデザインされたもののようです。
ついでに,戦後,帝国海軍の旭日旗に似ていると批判されたのでは,と聞いてみたらやはりそうらしく,戦後のデザインが変わっているそうです。そういえば,戦後のPYEは雲のマークがなくなっています。逆に,それじゃますます旭日旗じゃん....って思うのですけどね。
せっかく,日本は,浮世絵などに敬意を払ったデザインをしてくれているのに,それを裏切ることをしてしまったわけですね......
回路はTRFになっています。TRFのポータブルは珍しいです。
PYEは英国の大電機メーカに成長しますが,1960年代に経営難に陥り,66年にPhilipsに買収された後,細分化されて売却され,2013年には最後の英国工場が閉鎖されています。1980年代にTV工場のみ三洋が買収したことは知られていますね。
一方のCossorは真空管でも有名ですが,やはり1958年にはラジオ,TV部門がPhilipsに売却され,その後,1961年には本体が米Raytheonに買収され,英国の拠点が消滅しています。どちらも戦後は軍需に活路を見いだすのですが,いずれも裏目に出た感じです。
正直,部門別にバラバラと事業を切り売りし始めるとおしまいの始まり.....なんですね。東芝さん,大丈夫ですか......
日本では真空管ラジオはいつまで作られていたのか,と質問があったので,1964年と答えておきました。いろいろ調べても,大体,この年には製造中止になっている,と思います。真空管ラジオは昭和30年代で終了,と考えています。理由も聞かれましたが,おそらく,日本では東芝や,松下,日立などの大メーカーが作っていたので,各社一斉に中止したのだと思います。
中小のポータブルラジオのメーカは存続していましたが,国内ではポータブルのトランジスタラジオが急速に普及し,販売先を輸出に切り替えて,米国に大量に輸出したのはご存じの通りです。だから,今でも米国で日本製の真空管ポータブルのラジオが意外に残っていて,コレクションとして取引されています。
ちなみに,英国最後の真空管ラジオは1967年製だそうです。ダイヤルにBBC 4と書いてあるので,そのように判断できる,とのことでした。
残念ながら,英国でもAMラジオは衰退していて,時期は明確ではないが,廃止の方向,とのこと。
すでに,2012年にはAM局の一部を停波し,リスナーの反応を見た上で,すでに2018年には一部民放がAM放送を終了したようです。
実際,今回,ソニーのICF-SW1を持っていったのですが,AMはBBC-4と5のほかはニュース専門局と民族系の移民向けラジオ局が聴けるだけでした。
ちなみに,ロンドンのラジオ周波数はこちらで確認できます。
逆に,デジタルラジオはダメで,FMと並行してDABで放送されていますが,受信しにくいらしく,あまりよく聞こえず,アナログの方がよい,とのことでした。
う~~ん,いまだにiruchanはデジタルラジオは聴いたことがないので,どんなものか聴いてみたいですけど,DABの受信機をわざわざ現地で買うしかないですしね.....。米国のIBOCも,非常に音がよいらしいですけど。
とはいえ,驚いたのですけど,政策的にDABに移行したノルウェーを除いてDABの普及は遅れているらしく,フィンランドやポルトガルはDABによるデジタル移行を取りやめていて,どうもAMステレオの二の舞,という感じがします。やっぱり,ラジオって新しい技術は難しいんだな~。
さて,ここは特にTVのコレクションも充実しています。
1920年代はニプコー円板を使った機械式TVの時代です。1926年1月,ベアードはTVの送信実験を行いました。
ベアードのテレバイザーの復刻品が展示されていました。走査線30本です。ベアードも1930年代半ばには電子式に移行します。
英国は1936年に世界初の高解像度TVの商業放送を開始しています。走査線405本,毎秒25フレームと言う規格で,戦後,欧州は625本の規格で統一されるのですが,405本の放送は1985年まで続きました。
iruchanはこれは知っていたのですけど,そもそもどのチャンネルでやっていたのか,と思って聞いたら,BBC 1のみだそうです。なぁんだ。
残念ながら,英国の戦前のTV放送は1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻と同時に中断してしまいます。
そのため,戦前のTVセットは非常に希少で,オークションなどでも高値で取引されるくらいで,とても貴重ですが,ここで見ることができました。
実を言うと,ドイツが1935年3月に米Farnsworthのイメージディセクタを用いて,TV放送を開始しているのですが,走査線180本と低解像度で,また,TV受像機は市販されず,街頭に設置したTVでナチスのプロパガンダをするためのもので,商業TV放送ではなかったため,世界初のTV放送は英国とされています。
Marconi 703(1937), HMV 900(1936)
TVは日米ともに同じですが,アマチュアが自作しました。ここでも,TRFの自作TVが展示されていました。日本でもNHKだけの頃,TRFのTVを作った人がいますね。
アマチュアが戦後,米軍放出品を使って作ったそうです。CRTはグリーンです。
PYE 18T(1948)とBV51(1950)。欧州のTVはデザインが美しいですね。
ロンドンの近郊で,ヴィクトリア駅から3駅ですが,日中は無人駅のようです。この辺,驚きますね。oysterカードのリーダが置いてあるだけでした。その割にカフェは営業していて,驚きますが,これはありがたいです。
この辺りはSouthern Railwayが戦前,第3軌条で電化したところなので,鉄道には架線がありません。▲の鉄橋は鉄道線路なのですが,架線がないので,貨物線みたいで変な感じですね......。
この日はバービカンセンターでBBC交響楽団の演奏会を聴きに行きました。庄司沙也香さんのソロで細川俊夫氏のヴァイオリン協奏曲の英国初演を聞きましたが,さっぱりわかりませんでした......
残念ながら,iruchanは現代音楽は苦手です......。
ただ,その後のKahchun Wong指揮BBC響のショスタコーヴィチの交響曲第5番は超名演でした
☆BBC Crystal Palace送信所
先ほどの地図▲に,BBCの送信所があります。British Vintage Wireless & Television Museumから,距離は2kmほどです。
最初,歩いて行こうか,と思っていたのですが,先ほどの博物館で遅くなり,BBC響のコンサートがあったので,最終日にヒースローへ行くまでの間に訪れました。
でも,これは正解だったようです。最初の計画は歩いて行く予定だったのですが,とんでもなく,送信所は丘の上にあって,バスで行かないとものすごくしんどいところでした。残念ながら,googleマップでは,高低差がわかりにくく,こんなところにある,とは思いませんでした。
Crystal Palaceとは,1851年,世界で初めて開催されたロンドン万博に際して建設された壮麗な建物で,当初はハイドパークに建設されましたが,終了後,ここに移設されたものです。
残念ながら,1936年11月に焼失しています。日本では "水晶宮" としてよく知られています。万博は日本からは岩倉具視らの遣欧使節団が視察していますし,また,日本の品々も駐日公使のオールコックが展示していたことは知られていますね。
また,ここはベアードのTV送信設備がありましたが焼失しています。
焼失後,建物自体は再建されていないのですが,もともとスポーツ大会が開催される公園に建設されたため,今もサッカーのCrystal Palace F.C.があります。
Crystal Palaceと検索したら,サッカーのことばかり出てくるので困るんですけど......
ここに,BBCが送信所を建設したのが1956年で,このとき,Alexandra Palace▼にあったTV放送設備を移転しています。高さ219mの鉄塔で,当時,ロンドン一高い鉄塔だったことは言うまでもありません。
実を言うと,戦前,ここからTV放送することも検討されたのですが,Alexandra Palaceの方が標高が高く,交通の便もよいことから,Alexandra Palaceに決定したようです。
当初,走査線405本のBBC 1のほか,民放のITVもここから送信されました。現在では,BBC 1, 2のほか,ITV1なども送信しているようですし,FMも,BBC Radio1~4のほか,民放2局が利用しています。AMは720kHzのBBC Radio 4のほか,民族系2局が利用しているようです。そのほか,デジタルラジオ(DAB)の送信も行われているようです。
と言う次第で,中波~極超短波まで,ありとあらゆる電波が飛んでいる場所のようです。
日本でもTV,FMのほか,中波も送信している送信所,と言うと北陸放送MROや山梨放送YBSの送信所がそうですが,そんなに多くはなく,普通はTV,FMが兼用していることはあっても,中波まで兼用している場合は多くないのですが,ここは高さが219mと,ほぼ中波帯の1/2λであることから送信所として利用されているようです。
Brixtonの駅から,3系統 Crystal Palace行きのバスに乗り,Crystal Palace Parade/College Roadで降りると,塔の根元です......
残念ながら,やはり時差ボケで午前2時くらいに目が覚めちゃって,時間がもったいないので早朝に出かけましたが,緯度が高いこともあり,2月のロンドンは8時を過ぎないと明るくならないので,きれいな写真は撮れませんでした......
それにしても大きな鉄塔にビックリ。やはりTV用に建設された鉄塔は違います。
STLのパラボラと,左に中波のリード線が見えます。給電部が見えますね。リード線が2本あるのは,BBC Radio 4のほか,民放2局があるため,と思います。
まぁ,しかし,それにしてもアンテナだらけ.......
一体,どれが何のアンテナなのか,さっぱりわかりません.......
残念ながら,給電点までの整合箱がどこかにあるはずですが,このレンガ小屋かどうかはわかりません。塔自体は接地されているので,ダウンリード式で,ダイポールアンテナになっているようです。木が邪魔なので,リード線はずいぶん長く絶縁されているようです。
帰りは丘を下ってSydenham Hillの駅から電車に乗って帰りました。
West Dulwichの駅もそうでしたが,ここも不定期に駅員さんがいるくらいで,普段は無人のようです。Crystal Palaceは丘の上に立っている関係上,切り通しの狭いところにホームがあり,すぐにトンネルです。上下線とも,ホームに行くには細い通路を歩いて,谷底に向かって歩くような感じです......。
これじゃ,まるで秘境駅の小幌駅みたい.....
Southern Railwayは第3軌条で電化したので,架線はありません。一見,非電化なので,ますます小幌駅......。
☆BBCラジオの歴史
ここでちょっと英国のラジオ放送の歴史を書いておきます。
公式な放送開始は1922年11月14日で,ロンドン中心部Waterloo橋近くのStrandにある,Marconi社のMarconi Houseから,コールサインは2LOです。
今ものこの建物は残っていますが,高級マンションになっているようです。ミュージカル "FROZEN" をやっている,Theatre Royal Drury Laneのすぐ近くだったので,見に行けばよかった......
ちなみに,もちろん,同社はイタリアのグリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Giovanni Maria Marconi 1874~1937)が設立した会社ですが,なぜ英国企業なのか,というと,やはり大英帝国の企業でないと世界的規模まで成長できない,と考えたためのようです。同様に,ロイター通信もドイツ人の創業者ロイター(Paul Julius Baron von Reuter1816~1899)が英国に移住したのも同じ理由のようです。iruchanはReuterと書くので,イギリス人じゃないな,と思っていました.....。
残念ながら,マルコーニ社は戦前は世界を支配する勢いでしたが,戦後は衰退し,1987年にGECと合併しますが,同社も解散し,その後,2006年にスウェーデンのEricssonが買収し,今もブランドを所持していますが,会社の実体としてはなくなりました。
コールサインのLOはもちろん,Londonを意味していますが,最初の数字がよくわかりません。2,5,6とあるようで,アマチュア無線のコールサインと区別しているようですが,よくわかりません。ちなみに3LOはメルボルンです。
公式な,と言うのはそれまでに同社の2MTと言う試験局がロンドンの北東,45kmほどのところにある,Writtleという町で放送を初めていたからで,2月に放送を開始しています。また,同社は5月11日には同じ2LOのコールサインで,先ほどの建物から試験放送を開始しています。
とはいえ,どちらも火曜日の夜,8時から30分だけの放送だったようです。
その後,Writtleの設備をMarconi Houseに移転し,毎日1時間の間,10分ごとに,両局が825kHz,出力100Wで放送を開始します。
実を言うと,周波数が判然としません.....。
ネット上には832kHzや857kHzという記述もあり,バラバラで,どれが正しいのか,さっぱりわかりません。
ただ,"The Saga of Marconi Osram Valve"(Vyse, Jessop 2000)にBBCのネットワーク局の周波数一覧が出ていて,当時の資料のコピーのようですので,これが一番正確か,と思いましたが,それを見ると825kHzのようです。
1922年10月18日に統合した組織,British Broadcasting Companyが発足します。BBCの始まりです。そして,翌月に正式な放送を開始します。
ちなみに,日本のラジオ放送開始は1925(大正14)年3月22日です。また,世界初は米ピッツバーグのKDKA局なのはよく知られていますね。1920年11月2日のことでした。このKDKAが英国でも聴けて,早く放送を,という声が上がっていて2MTなどの試験が開始された,とのことです。
放送開始に際して,BBCは新たに1.5kWの送信機を開発しました。翌年には,スタジオはすぐ近くのSavoy Hillに移転します。
1925年には,オックスフォードストリートに今もある,セルフリッジ百貨店に移転します。この辺りはよく知られているところで,iruchanもここからは知っていました。
ロンドンの百貨店と言えば,ナイツブリッジのHarrodsが有名ですけど,王室御用達,ということもあってか,高級百貨店というイメージで,一方,Selfridgeは庶民的,と言うイメージがあったのですが,どちらも最近,大きく変わってしまい,今ではどちらも高級ブランド店だけの集合店舗に変わってしまっています。Harrodsなんて,地下の食品売り場や,ほかにも洋服売り場など,結構,意外に庶民的な買い物もできたし,お土産を買うこともできたのですけどね.....
世界的にネット通販に押され,百貨店ビジネスが曲がり角を迎えていますけど,こういう生き残り策もあるのか,と思います。
1927年には正式に勅許(Royal Charter)を得て,British Broadcasting Corporationが発足し,1929年10月には送信所もロンドンの北,25kmほどのところにある,Brookmans Parkに移転し,842kHz,50kWで送信開始し,現在も送信しています。2LOはこのあと,閉局します。
ここ,ちょっと行ってみたいのですけどね......残念ながら,今度行ったときはAMは廃止されているでしょう。
ただ,驚いたことに,2LOの1.5kWの送信機がScience Museumで展示されているので,見に行きました。20年ぶりにこの博物館へ行った理由のひとつです。
出力管はM.O. ValveのMT7Bで,プレート損失500W,Vf=15V/If=10Aの規格です。
発振管は同じくM.O.ValveのMT2で,プレート損失300W,Vf=17V/If=15Aの規格です。残念ながら,水晶発振じゃなく,普通のLC発振回路ですから,周波数は不安定だったでしょう。
木箱に入ったメータがありますが,F.S. 5000Vになっていましたので,3000Vくらいは陽極にかけていたのかも,と思います。回路図はこちらに出ています。
整流管はM.O. ValveのMR6で,アノード電圧15kV,Vf=15.5V/If=10Aの規格です。
整流管が4本ありますがパラになっていてセンタータップ整流しています。
それにしても日本で言えば,愛宕山にあった送信機が展示されているようなもの......と思いますけど,よく残っているな~,と感心します。さすが英国,と思いましたが,意外にもやはり送信機は取り壊されていて,1954年にBrookmans Parkの送信所の倉庫でジャンクを見つけ,復元されたもののようです。
2002年にBBCから,Science Museumに寄付されたようです。
確か,各真空管に灯が入った状態のカラー写真を見た記憶があるので,ヒータくらいは電源が入る状態ではないか,と思うんですけどね.....。
じっと見入ってしまいました.....。
☆Alexandra Palace送信所
さて,引き続いて,TVの歴史にも触れたいと思います。
もとはロンドン万博後の解体資材で作られた展示場兼宮殿で,当時の皇太子(後のエドワード7世)のアレクサンドラ妃から命名されています。
英国では,John Logie Baird(1888~1946)が1925年にはニプコー円板と光電管を用いて最初のTV放送を実現しています。送信所は▲と同じ,やはりSelfridgeのデパートから,でした。
しかし,わずか走査線30本ではとてもTVとは言えませんよね。そこで,各国では高解像度の電子式TVの開発が進められる,というわけです。
英国では,1935年,Marconi-EMI Tlevisionが開発した,emitron撮像管が開発され,BBCがロンドンの北,10kmほどのところにある,ここアレクサンドラパレスに送信鉄塔を設置し,実験を開始します。emitronは米RCAのZworykinが発明した,アイコノスコープ(iconoscope)と原理的に同じものです。
同社は1934年5月,Marconi Wireless and Telegraph(MWT)と,Electric and Musical Industries(EMI)が折半出資してできた会社で,親会社を通じて,米RCA,GEの特許を自由に使えました。ということはiconoscopeも自由に使えたわけですね......。
もちろん,Bairdも手をこまねいていたわけではなく,米国のFarnsworhから,イメージディセクタ(image dissector)を導入し,電子式TVを開発していました。
ただ,イメージディセクタは蓄積型ではないのが災いし,感度が低く,最初期の撮像管のひとつですが,実用化は無理だったようですし,実際,Bairdもこの実験で使用することはできなかったようです。
蓄積型とは,電子ビームで1フレームスキャンする間にモザイクと呼ばれる微少なコンデンサに電荷を蓄積するものですが,イメージディセクタは映像をスキャンし,光電子を電圧に変換する部分が1個しかないので,非蓄積型となります。
Bairdらは,フィルム中間方式と言って,一度,映像をフィルムに感光させ,機械式の走査機で分解し,それを光電管で電気信号に変換する,という半電子式です。スタジオ放送用としては,飛点走査方式と訳されていますが,flying spotといって,真っ暗なスタジオに走査円板で作ったスポット光をスキャンする形で被写体を走査し,それを光電管で受ける,というやり方です。
Bairdのシステムの走査線は240本です。
EMIは純電子式で,走査線は405本,現在と同様のTVカメラを開発し,移動式カメラまで用意していましたから,最初から,勝負は明らかだったと思います。
BBCはAlexandra Palaceの東側の1棟を借り,スタジオAにはEMIが,スタジオBにBairdが入って放送実験を行いました。
1936年11月2日から,両社のシステムの実証試験放送が開始されますが,2ヶ月後,Bairdのシステムは放棄され,Marconi-EMI方式に一本化されます。Bairdのほうも,自社規格が採用されなくても,受像機の販売で儲ければいい,と言う考えだったようです。実際,戦後のTV放送再開後も高級ブランドとしてTVセットが売られています。
というわけですが,この送信所は▲にも書きましたとおり,Cystal Palaceに移転するまで使用され,鉄塔も残っています。ロンドンのKing's Cross駅から,電車に乗ると丘の上に建っているのが見えますし,一度,Alexandra Palaceに行ってみよう,と思っていました。
ここはoysterカードが使えます。駅を出て,この写真の右にある通路で再び鉄道を越えて反対側に出て,2車線の道路を歩くとAlexandra Palaceが見えてきます。
それにしても,West Dulwichもこの駅も,昔のままの美しい駅舎ですね。駅って街の顔なので,古いものを残してほしいものです。20年ごとくらいに建て替えちゃう,どこかの国と違います。
見学する際は,東側の入口から,と書いてあるのですが,受付のおばさんに聞いたら,見学できない,と言われました。まあ,事前に調べておいたのですが,見学できる風ではなかったので,しかたないです。
戦前の写真を見ると,一番上の毛虫のような感じの部分はなく,おそらく,戦後のTV放送用でしょう。
戦前は,その下に遊園地の回転飛行機みたいな腕が6本出ていて,それが4組あって,アンテナを構成し,映像用が上で,音声用が下だったらしいです。
それにしても,TV以外のアンテナがにょきにょきついていて,なにがなんだか,さっぱりわかりません.....
南側にロンドンの街が一望でき,素晴らしい景色が見られます。TVの送信には最適の場所でしょう。大阪の生駒山に送信所が並んでいるのと同じ理由ですね。
ここから1937年5月12日,ジョージ6世(エリザベス2世女王の父君)の戴冠式がTV放送されることになります。BBCの実験も,この戴冠式が目標でした。
しかし,時代は戦争に向かっていくことになります。
ジョージ6世は徹底抗戦を唱えるチャーチルを支援し,空襲下でもロンドンを離れず,国民を勇気づけ,最後に勝利を迎えます。今も英国民が尊敬する国王です。
イギリス旅行記~その2:自然史博物館,科学博物館とストーンヘンジ~ [紀行]
2024年2月17日の日記
2月6日未明発の深夜便JAL 41便でロンドンへ行ってきました。
ところが.......
なんと久しぶりに南岸低気圧で大雪
そういえば,2.26事件も大雪の日だったし,iruchanもずっと昔,ワシントンへ仕事で出かけたとき,成田で一晩明かしたのを覚えています。空港は大混雑で,床にみんな寝ているし,カウンターは大行列でした......
調べてみると,2006年1月21日のことだったようです。成田の積雪は13cmでした。
この日のことが頭をよぎったのですが,まあ,飛行機はかなりの大雪でも飛ばないと仕事にならないし,iruchanも大雪の青森空港や新千歳の記憶がありますけど,ちゃんと飛んでいました。ただ,2日連続で紋別空港が閉鎖されて渡道できなかった経験もありますけど.....。
問題は中央線.......
真っ先に止まりそう......と踏んだので,南武線~京急と乗り継いで羽田に無事に着きました。
飛行機は順調に飛んでいるようですし,欠航の表示もわずか2便だけのようです。
安心してゲートで本でも読んで休憩していたのですけれど......。
21:00くらいまで順調に飛んでいたのに,ここでストップ。
なんと,雷警報が出たらしく,地上の作業が止まっているようです。
これは仕方ありませんね。前線の通過前後に積乱雲のせいで雷が出ているようです。
おかげでフライトは2時間遅れ。
でも,なんとか飛んでくれてよかったです。旅程が1日,減るところでした。
飛行機は787。国内では何度も乗っていますが,国際線は2回目です。
深夜便なので,すぐに寝ちゃったのですが,起きてみたら室内はグリーン。
もしかしてオーロラ?
って思っちゃったのですけど.......。
単に液晶のブラインドに陽が当たると緑に見えるだけ,のようです。
ただ,それにしてもこのとき,気がついたのは787って,とても静かなのですね。
飛行機って,ゴォーッとエンジンと機体周りの空気の渦の音がずっとしますけど,787は非常に静かです。新幹線より静かなんじゃ,ないでしょうか。
ヒースローには2時間遅れの8:30に到着。どうもありがとうございました。
あとは簡単,いつものピカデリー線でまずはホテルへ行って,荷物を預けたい,と思います。
ホテルはHammersmithにしました。高級住宅街のKensingtonに近く,治安も比較的よいところ,と思います。何より交通結節点で,ピカデリー線のほか,ディストリクト線もあるので,市内観光にもちょっと距離がありますが,便利だと思います。なにより,中心部のホテルはめっちゃ高いので.....。
さて,ホテルに荷物を預けたら.......そのディストリクト線に乗って,まずはSouth Kensingtonへ。
ここで,博物館を2つ,回りたいと思います。
☆Natural History Museum
自然史博物館,と訳されています。恐竜の化石の展示が有名ですが,地学,天文学などの発見を展示しています。
iruchanのお目当ては始祖鳥の化石です.....。
一度,2017年に上野の科学博物館に来たので,子供と見に行きましたけど,本当の展示場所で展示されている状態を見たい,と思いました。
1860年,ドイツ南部のSolnhofenで発見されたのが最初で,時代によって違うのですけど,iruchanが中坊だったときは見つかった化石は世界で3個という記憶があります。確か,今では10個くらいはあるはずですし,中国でも見つかった,と新聞に出たのを覚えていますが,その後,どうなったか不明です。
ロンドンのは1861年,やはりドイツ南部のLangenaltheimで発見された化石で,ロンドン標本と呼ばれます。
始祖鳥の化石です。ロンドン標本と呼ばれるものです。
でも,なんで2つあるの? って思ったのですけど,単に化石の表と裏ですね.....
おまけに,▼のドードーのとなりにも1個,展示されていて,3つあるのか,と思ったのですが,こちらは説明で複製であることが書かれていました。
ドードーは人気者。みんなこの前で記念撮影していました。"go the way of the dodo" は絶滅する,廃れるという英語のイディオムにもなっています。
ほかにも海竜のものすごい化石群に圧倒されます。
前期ジュラ紀の地層から発見されたロマレオサウルス。
恐竜好きの人はぜひ行くとよいと思います。iruchanは小坊のころは恐竜マニアでしたけど,そのうち電気の方に興味が移っちゃいました......。
☆Science Museum
科学博物館ですが,▲の自然史博物館の北隣にあります。
こちらは産業革命以後の工学の発達を記録,保存している博物館で,社会人になったばかりの頃,訪問しました。あれから20年以上経ちますが,久しぶりに訪れてみました。
お目当てはニューコメンの蒸気機関とBBCのラジオの送信機の展示です。後者は最近,移転したもので,今回,初めてです。
ニューコメンとワットの縦型蒸気機関は入ったところに展示してあります。そのほか,トレビシックの高圧蒸気機関やパーソンスの蒸気タービン,英国製のルノワールの内燃ガス機関も展示されていて,初期のエンジンに興味がある人はたまらないところです。
Newcomen's atomospheric engineと書いてあることが多いです。ピストンの背圧は大気圧のため,どうしても大型になります。
ピストン内の蒸気を凝縮させる水のバルブは人間が手動で開けていたのだ,と思いましたが,▲の蒸気機関は説明にあるアニメーションを見ると自動化されているようです。
展示されているのは1791年製のダービーシャーで使用されていた蒸気機関ですが,なんと1918年まで使用されていたそうです
どうも英国内には実際に可動するニューコメンのエンジンがあるようですが,一度,見に行きたい,と思います。
James WattとMathew Boultonの蒸気機関です。1797年完成で,1885年まで稼働していたようです。友人のMaudのところで鉱石や他の化学物質を砕くのに用いられたようです。
ワットとボールトンは1775年にバーミンガムで共同で会社を設立し,1895年まで活動していました。
トレビシックが1801年に開発した高圧蒸気機関です。彼は非常に小型の蒸気機関を開発しました。従来のワットらの据置型,縦型蒸気機関から脱して,船舶や機関車など,交通機関への応用の道筋を作りました。
ワットの発明は凝縮器をシリンダーから分離し,効率を向上させたもので,また,後にはダブルアクションと呼ばれる,われわれがよく知っている蒸気機関車と同じく,背面にも蒸気を加えるシステムを完成させますが,いずれも,いわゆる大気圧機関の域を出ず,トレビシックの高圧蒸気機関は危険だとして,ネガティブキャンペーンをしています。
Burnley Ironworks製の蒸気機関
すでにモータが実用化されていましたが,20世紀に入ってもなお,蒸気機関が主力として使われました。
1903年製の水平蒸気機関で,紡績工場の動力だったようです。
20tのフライホイールが圧巻。出力は700HPです。
じっと見ていたら,博物館のお兄さんに,"This moves on Thursday. Have a look!" と言われました。木曜日に,午前と午後,動くようです。
蒸気機関の次はタービンですよね。
火力発電の動力源は蒸気機関でしたが,20世紀に入るとタービン発電機が普及します。
1891年にパーソンスが開発した,蒸気タービン発電機です。翌年,Cambridge Electric Supply社に納入され,30年間活躍したタービン発電機だそうです。
こんなに小さいのか,って思っちゃいました......。でも,出力は75kWもあるようです。中途半端な数字だな~,と思ったら,出力100HPということなんでしょう。
フランスのルノワールが発明した内燃機関です。彼は内燃機関の始祖とされますけど,当時,いろんな人がガス内燃機関を開発していて,ルノワールだけではありません。彼はそれなりにビジネスに成功したから有名になった,と言う訳です。フランスのオリジナルはパリで見ましたし,ライセンス生産で英国製があると聞いていましたが,実物はこれです。ロンドン西部のReading Iron Works製のようです。
う~~ん,なんかこうやって比較してみると,随分とイギリスとフランス製じゃ,違うんですね.....
内燃機関と言っても,まだ蒸気機関の呪縛から逃げられていなくて,ピストン両側に点火栓がついていますし,吸い込んだガスの圧縮をしない,非圧縮機関なので,効率も出力も小さいです。出力は0.5HPです。
燃料はガスと言っても気化ガソリンではなく,石炭を高温で乾留した際に発生する石炭ガスです。1792年にマードックが発明しました。この頃にはガス灯のネットワークもできていて,ガスが容易に手に入る頃になっていたので,中小の工場などで,このエンジンはよく利用されたのでしょう
あと,Science Museumは無線関係の展示も2Fにあるのですが,またそれはあとで....。
☆ ☆ ☆
ただ,この日はもうフラフラ。前夜からの深夜便でしたし,さすがに着いた直後から観光しているとしんどいです。
ホテル帰って,いつもよく買っているwasabiという寿司チェーンの寿司でご飯にしました。時差ボケで食欲もありませんしね。wasabiのお寿司はとても美味しいです。
☆ストーンヘンジ
フランスのモン・サン・ミッシェル同様,一度,見に行ってみたいと思っていました。
ところが,学生時分,行こうとしたら,まだインターネットもない時代,そもそもどうやって行くのかって,"地球の歩き方" くらいしか情報源がありませんでしたよね......。
おまけに,とりあえず,ソールズベリまでは鉄道で,あとはバス,と言うことくらいしかわかりません。
なんとか,電車(実際には気動車ですけどね)の時刻くらいはトーマス・クックの時刻表 懐かし~ でわかりますが,地元のバスの時刻が何時なのか,1日に何本あるのか,なんてわかりません。
とするとロンドンからの日帰りができるかどうかわからないし,泊まりになるとホテルも予約しなくちゃいけない,って訳で,結局あきらめました。
今はいい時代ですね。現地のバスの乗り継ぎも含めて,googleさんが懇切丁寧に教えてくれますから.....
ただ,さすがにgoogleさんも電車の料金までは教えてくれないので,とりあえず,鉄道会社がわかったので調べてみると.....
とんでもない料金が出てきます。
ロンドンのヴィクトリア駅~ソールズベリーまでは距離は直線で120kmほどですが,料金は片道£48.50などと出ます。
びっくりで,東京からなら沼津くらいの距離ですが,JRだと2,310円なのに対し,9,000円を超える金額です。
いくら,今は円安だからって,iruchanが前回行ったときは£1=¥140ほどでしたけど,円のレートが当時と一緒でもJRの料金の3倍近いという料金です。
昔はこんなことなかったのに.....,って思いました。
30年ほど前,ヨークの鉄道博物館へ行ったとき,東京~豊橋くらいの距離なのに,日本の半額って,思った記憶があります。それに,英国だとインターシティと呼ばれる225km/hの特急が走っているのに,欧州は特急料金がありませんから,随分安いな,と思った記憶があります。
一体どうして......と思いましたが,例の英国鉄BRの民営化以後,おかしくなってしまったようです。
各路線やサービスを,バラバラの会社に分割した結果,収益優先で各社が料金を定めた結果,のようです。
これでインフラは国が負担しているので,料金は安くできるはずですが,独立採算を考えるとこんな料金になるようです。
そりゃ,そうですよね。鉄道って,黒字路線の収益で,赤字路線の維持を図る,と言う構造的問題があるので,線区ごとに独立採算にしちゃうと,儲からないところの路線はどんどん高くなる訳です。
沼津まで快速で往復したら単純に片道の2倍と考えると,2万円近くする,ということですね.......。
まあ,時間帯別で料金が異なりますし,英国では,長年の慣習として,往復でもほとんど片道と同じ料金くらい,と言うことが多いので,ソールズベリーまでreturn切符を買って往復しても1万円ほどのようですが,それでも日本の倍近い値段です。
おまけに,飛行機みたいに早めに予約すると安いんですけど,▲のWEBで買おうとすると,住所,氏名を入力してアカウントを作らされた上,挙げ句の果て,最後に "英国内居住者でないと発売できません" と出ます
ちゃんと,countryという欄があって,Japanと入力できるんですけどね......
今回,▼の観光バスも含め,各博物館やコンサートを日本で予約したりしましたけど,なにも問題ありませんでした。
と言う次第ですけど,旅行者は鉄道利用の場合,当日券を買うしかなさそうです。
また,ソールズベリー~ストーンヘンジ間は各社のバスが出ていますが,大体,£20くらいです。
と言う次第で,鉄道で行くと,トータルで£90くらいはしそうであきらめ,ロンドンから直接,日帰りのバスツアーがあるはず,と思って探したら,ありました。
Golden Toursと言う会社のSimply Stonhengeと言うツアーが£64でした。
ほかにもいくつかバスツアーがあるのですが,冬場は午後便しかないとか,そういうところが多かったのでここにしました。
ロンドン・ヴィクトリア駅のバス停No.8からバスが8:30から出ます。帰りは14:30頃,と言う弾丸ツアーですけど,帰ってきてからまた別のところに行けるし,便利だと思います。実際,この日はツアーから帰ってきて,ナショナル・ギャラリーへ行って時間が有効活用できました。
ただ,現地滞在時間が2時間ほどなので,これが十分かどうか......iruchan的にはもう1時間あれば,と思いました。
現地のビジターセンターで昼食を食べられますが,2時間では結構厳しいです。
ま,それにしても長年憧れていた,ストーンヘンジへ,1万円ほどで行ける,と言うのは魅力的です。
イタリア系の運転手さんの陽気で楽しいガイドもとてもよかったです。
ビジターセンターはストーンヘンジから2kmほど離れたところにあり,そこから無料バスでストーンヘンジへ行きます。ロンドンからのツアーバスはビジターセンターの駐車場までです。
周囲はのどかな田園風景。土産物屋がずらりと並んでしまう,どこかの国とは違います。羊が寒い中,寝たり,草を食んだりしていました。かなり寒いんですけどね~。羊たちは大丈夫なようです。
ストーンヘンジの周辺は遺跡や,墓地が広がっているため,限られた道路以外は歩くことも,ビルを建てることもできないし,もちろん,そういう理由とは別に,野放図な開発を制限して観光地とはせず,ありのままの姿を保存しよう,としているところはさすがです。
明治時代の鉄道の貴重な遺跡が出てきたからと言っても,その上に巨大ビルをぶっ建てて一私企業が金儲けしようという国とは民度が違いますね.....。むしろ,その遺跡を保存して,海外からたくさんの観光客に来てもらった方が国全体としては儲かる,と言う発想すら全くないようです。
イギリス旅行記~その1:この子とコロッサスに会いに.....~ [紀行]
2024年2月14日の日記
やっと会えました.......
フランスのドラローシュ(Paul Delaroche 1797~1856)が描いた,"レディ・ジェーン・グレイの処刑" です。
この絵,"怖い絵" の代表とされますね。日本にも,2017年に来ています。
残念ながら,この絵は前回,ロンドンへ行ったときにナショナル・ギャラリーへ行ったら,いなくて,一体,どこに行ったのか,と思ってインフォメーションの女性に聞いたら,アメリカに行っている,とのこと。ガ~~~ン
と言うこともあったんですけど,ようやく会えました。
まずは所在確認,ということで到着すぐにインフォメーションで聞いてみるとroom 45にある,とのこと。"Straight down and right room."(入ってすぐ右ですよ)とのこと。
なあんだ,入ってすぐそばじゃん,と言う次第でした.....。
行ってみてビックリ。なんとものすごく大きな絵でした。3×2.5mもあるそうです。
美術館って,こういうところもいいですよね.....。教科書なんかで見ているとさすがにサイズまではわかりませんから。大好きなルオーやモローの絵も,実際は逆に,非常に小さかったりしてビックリ,なんですよね。
1553年,悪名高いヘンリー8世の跡目争いに巻き込まれ,イングランド初の女王として即位するものの,長女のメアリが勝ち,わずか9日で退位させられ,のちに反逆者としてロンドン塔で刑場の露として消えてしまいます。わずか16歳という薄命でした。英王室は今も彼女が女王だったとは認めず,称号もQueenではなく,単にLadyとされています。
即位したメアリ1世はカトリックだったため,親父に似て残酷で,一転して新教徒を弾圧し,ブラディメリーのカクテルにもなっていますね.....
ジェーンは聡明で教養のある女性だったらしく,彼女がそのまま女王となっていれば,その後の歴史は変わっていたでしょう。実際,メアリの次のエリザベス1世がイングランド国教会を設立し,その後,最終的にはイギリスは新教徒の国になるわけですから.....。
それにしても,わざわざ見に行ったのにはぐらかされ,ようやく見ることができたので感慨無量でした
ほんとうによかったです。
やはり人だかりができていて,皆さん,写真を撮っていますけど,海外の美術館だと普通は行列,なんてこともなく,ルーブル美術館同様,ゆっくり見ることができました。
iruchanは閉館近く,ベンチに座って30分ほど鑑賞できました。
しかし,あまりにも彼女に科せられた運命は過酷で,残酷だと思います。
実際,本当の処刑は黒い服と頭巾を被せられ,公衆の面前でおそらくは罵声を浴び,憎しみと好奇の視線を浴びての公開処刑だったようですから,もっと現実は悲惨だったと思います。
それをデラローシュは哀れむとともに,彼女の潔白を証明し,メアリ一派に対する批判を絵にして後世に伝えようと画家は考えたのでしょう。フランスはカトリックの国だし,デラローシュもカトリックだったのではないか,と思いますが,メアリを批判し,公正な立場で物事をとらえる人物だったのでは,と思います。
ただ,それにしても宗教で対立して殺し合う......なんて,われわれ日本人には理解しがたいですよね。
カトリックとプロテスタントはもちろん,イスラムやユダヤ教徒など,互いに殺し合うまで宗教で対立する,と言うのは理解できません。日本で,○○宗と××宗で,長年対立して殺し合いをした,と言う歴史がなくてよかったと思います。
絵の中の彼女は純白のドレスを着て,肌の白さも際立ち,彼女の美しさと気品が感じられます。
教誨師らしき主教はそっと寄り添い,断頭台の前でキリストに魂の救済の祈りをしているのでしょうし,侍女2人はもはや放心状態で,処刑吏もまた,気の進まない仕事を押しつけられ,困惑している,と言う感じです。
もうひとつ,ちょっと思ったのですけど,iruchanがルーブルで見た,やはり教科書にも出てくる,ダヴィッドが1805年に描いた,”ナポレオンの戴冠” と同じくらい大作ですし,画家はひょっとして,この絵のことが頭にあったのではないか......なんて思っちゃいました。
大好きなフェルメールもあります
"ヴァージナルに立つ女","ヴァージナルに座る女" です。
☆ ☆ ☆
ようやく彼女に会うことができました。
ナショナルギャラリーへは,Charing Cross駅が一番近いですが,路線はBakerloo, Northern線で,あまり乗らないところですから,Piccadilly線のPiccadilly Circusか,Circle線のEmbankmentから歩くとよいでしょう。iruchanはEmbankment駅から歩きました。正面の広場はトラファルガー広場で,ネルソン提督がにらみつけています......。
今回,ストーンヘンジと,戦時中,ナチスドイツの暗号,エニグマを解読していたブレッチリーパークへ行って,チューリングが作った世界初のデジタルコンピュータ "コロッサス" (Colossus)を見てきました。
5年半ぶりのイギリス訪問記を書こう,と思います。しばらくお付き合いください。
E10に会いに......。~さよなら青梅鉄道公園~ [紀行]
2023年7月8日の日記
とうとう,青梅鉄道公園がリニューアルのため,9月から2年間閉園する,とニュースが出ました。
以前から,ここがしばらく閉園する,とは聞いていたのですが,9月とは思わなかったし,また,夏休みで混んでくる前に,と思って出かけました。
そう,ここにはiruchanの地元の北陸を走った,E10が保存されています。
30年前に一度,会いに行っているのですが,今回は家族連れて会いに行ってきました。
何より,一番の心配は新しく展示場所ができたから,とかリニューアルというついでに,今まで保存していた機関車を解体してしまう例が多いことで,例えば,EF58 122とか,ED62 14とか貴重な車両を簡単に捨ててしまったどこかの博物館とか,先例がありますし,ここも先ほどの記事にあるとおり,JR東日本は「リニューアルでは記念館を建て替え、展示車両を見直す」と言っているのが心配。
まあ,まさか,全国で1両しか保存されていない,E10を廃棄する,とは思えないのですけど......。
でも,屋根もないところに展示されているし,以前はスシ28が展示されていましたが,解体されていますし,1982年9月には大雨で法面が崩れ,今は大宮にいるC51 5が崖下に転落したこともあり,国鉄末期のずさんな経営のひとつとしてとばっちりで批判されたこともありましたけど,こういうことがあっただけに,ちょっと心配です。
E10は板谷峠向けに1948年に5両だけ製造されていて,JR東日本とは縁もゆかりもない訳じゃないですけど,翌年4月には直流電化されて,肥薩線へ飛ばされ,そこでもすぐに横圧過大とのことで北陸本線の倶利伽羅峠に移動するのですが,そこも1955年には新倶利伽羅トンネルが開通してご用済みとなり,結局は本領発揮できないまま,米原~田村間の交直接続で余生を送ったのはよく知られています。
結局,そこでも,余剰となったD51などを使う方が得策とされて,1962年には廃車になっています。iruchanが生まれるずっと前のことなので,現役の頃には見たことはないのですけど......。
ということですけど,E10に会いに行ってきました。
☆ ☆ ☆
なんて立派な おうめ......(島本須美さんの声で!)
って,つぶやいちゃいました......
このギャグ? で笑う人は相当なおじさん&おばさんだと思います
もちろん,1924年,青梅鉄道本社として建てられた歴史的名建築です。直線を活かしたアール・デコ風のデザインがとても印象的です。
同様に,1931年に豊川鉄道本社として建てられたアール・ヌーボー調のモダンな豊川駅を建て替えちゃったバカな会社と違って,ここは昭和レトロとして市を挙げて街作りに取り組んでいるところなので,駅舎は2005年にリニューアルしています。
1962年に,鉄道開業90周年を記念して建設されました。
某社の博物館は,鉄道記念物 蒸氣動車と十河さんが揮毫した石碑を捨てちゃいました。その会社は十河さんのおかげでご飯が食べられるんじゃないでしょうか........
どちらも,古い記念物を長く保存するとともに,博物館に来た,若い子供達が古い機関車や設備などの実物に実際に触れてみて,鉄道の長い歴史や昔の人たちの汗と努力の跡に何か感じてもらって,子供達の将来に少しでも何か役立てば,と十河さんが筆を執られたのだと思います。
ここがこの貴重な石碑を大切に保存し,末永く記念してほしい,と思います。
大好きな8620や9600も保存されています。どうもiruchanは昭和の機関車が好きになれません.....。英国風の優美な化粧煙突が美しく,大正期の機関車はとても好きです。
昭和期に入ると,途端に武骨なアメリカンな機関車デザインとなり,好きになれません。
どうも,第1次世界大戦が終結し,日英同盟を破棄することになって,日本が誤った方向へ進んでいくのと,軌を一にしている気がしてなりません。機関車は国を表す,のではないでしょうか。
残念ながら,iruchanは青梅,南武線のEF15は現役の時に写真を撮ることができましたが,さすがにED16は拝島駅で留置されている姿しか見たことがありません。小型の箱形デッキ付機関車はとても好きです。
残念ながら,1号機はすでに解体されてしまっていたので,保存されたのは2号機です。
残念ながら,汽車会社の銘板は取り外されていました。また,今は車号銘板は背景が赤く塗られています。
と言う次第で,30年前に撮影した銘板を載せておきます。
後退運転がもともと定位だったので運転台は助士席側に設けられていましたが,米原~田村間の交直接続が目的となったので,好都合だったでしょう。ブレーキ弁や加減弁が普通とは反対の位置についているのが分かりますね。
英Leaderや米Southern PacificのAC-12同様,日本で唯一のキャブフォワード機と見ることもできるのではないでしょうか。
1969年汽車会社製の22-75。大窓が懐かしいですね~。敵性文化? としてリニューアル後は微妙な車両ナンバー1じゃないでしょうか。貴重な大窓車だし,ぜひ,このまま保存してほしい,と思います。
ヘタすると,最近,びっくりしたのですけど,北海道の第1号機関車で小樽市総合博物館に保存されているED75 501号機みたいに,PCBを含んでいるから,ということで解体される可能性もあります。22型だから主変圧器積んでいるはずで,やばいな.....。
引き出し式のテーブルや,今じゃ考えられない灰皿が懐かしいです。
☆ ☆ ☆
ということで,30年ぶりにiruchanは青梅鉄道公園に行ってきました。あの頃は独身だったし,今回は家族連れで,でした。30年は長いですね~~~。
それにしても再開は2026年春のようですけど,車両は解体せず,このまま保存することを強く希望します。
お昼は麓のアトリエよぎさんで,美味しいチキンのトマト煮込みのランチをいただきました。挽き立てのコーヒー込みで850円ととてもお得でした。ご主人はギターアンプの真空管マニアで,話があいました。
☆おまけ☆
消えてしまった豊川駅舎です。
最近はマメに駅の写真を撮ることにしていますけど,次に訪れたときは駅が変わっている,と言うことが多すぎます。街の風景になっているところも多いし,何よりこういう戦前の名建築を壊してしまうことには大反対です。
鉄道の日に寄せて..... [紀行]
2022年10月14日の日記
鉄道の日ですね~~
今年は鉄道150年,ということでいろんなイベントが開かれていますね。
残念ながら,iruchanはもう重いカメラ抱えて遠いところまで行く元気はないんですけど,この前上京したので,大好きなお弁当を買ってきました。
☆チキン弁当
iruchanが上京して帰りにいつも買って帰るのはこれか,シウマイ弁当。鉄道の日,と言うことでどちらも復刻版が出ています。シウマイ弁当の復刻版は以前,買いました。
まさか,中身は1964年10月製じゃないですよね........
昔はこんなのだったのか......って感じです。おかずも驚き。ポテトチップスが入っているのはすぐわかりますが,あとはなんと.....ガリでした。今はスモークチーズが入っていますね。
ちょっとビックリ。フライドチキンに寿司のガリとは.....。
酸っぱいし,寿司が大好きなうちの娘もさすがにこれは食べません。昔の子供はこんなの食べたのか.....。
それに,ポテトチップスだって,どうしても湿ってしまうし,美味しくないはず。
とはいえ,iruchanも記憶がありますけど,昔はポテトチップスなんて一般的じゃなくて,じゃがいもはコロッケ以外はみそ汁か,茹でて醤油をかけて食べるくらいのもの。揚げて塩をかけて食べる,と言う習慣はなかったし,お菓子としてもカルビーが袋入りで売り出したのはずいぶんと後だったような.....。そもそもマクドが開店して全国でこれを売り始めるまでは一般的ではなかったように思います。
そもそも今どきの若い人はマクドはずっと前からあった,と思っているんじゃないでしょうか。
マッカーサー今どきの若い子はこいつも知らないか....が開店したわけじゃなくて,1号店は1971年開店です。
ということで,ポテトチップスというのが当時は非常に珍しかったのではないか,と思います。
そういや,フライドチキンだって,ケンタが1号店を開店したのは1970年のことなので,この頃はフライドチキンなんて言わずに, "唐揚げ" だったはずですよね......。
どうしても欲しい駅弁だったので,ネットで予約してゲトしました。どうもありがとうございました。
ただ,新幹線の車内で食べましたけど,残念ながら,N700S......
つまんねーヤツだな.....(チコちゃんの声で!)
0系 だったらいいのに......とiruchanは思いました。
☆静岡駅
静岡駅でも定番の幕の内弁当が復刻版になっていました。ホーム下の2Fの売店でゲトできました
この駅弁はとても懐かしい思い出があります。
学生時分,お金がないので,よく,大垣夜行で上京して都内で鉄をしたり,秋葉原で部品を買いに行ったりしましたけど,静岡駅に真夜中に停車すると,ホームで売っていました。
下りの場合はどうだったか,覚えていないのですが.....。
大垣発の340Mの静岡停車は1時半頃なので,遅い夜食でした。下りの345Mはもう1時間遅い時間の停車だったと思います。
東京駅に着くとまだ4:40で,秋葉のお店が開くのはずっと先で,山手線を一周して時間を潰してもまだ先,ということでクタクタに疲れた思い出があります。東京駅地下には温泉があって,入ったのもいい思い出ですが,とうになくなってしまいました......。
う~~ん,コレコレ!って思っちゃいました。久しぶりです
それにしても民営化され,後継の "ムーンライトながら" も廃止されて久しいですけど,鉄道の夜行列車がなくなったのは非常に残念。つい最近もバスの事故がありましたけど,安全な鉄道の夜行列車がない,と言う状況はおかしいです。欧州へ行くと,夜行列車がまだたくさん走っているのですけど....。
☆三島駅
残念ながら,桃中軒さんの営業開始時刻が遅く,その上,東海道新幹線では多くの駅でホーム上の売店が閉店しているので,買えませんでした。
☆小田原駅
過去,一度もこの駅の駅弁は買ったことがなかったので初めてですけど,とても美味しい駅弁でした。掛け紙がとてもよいです。
おかずはちくわ,焼き鮭,鳥そぼろでした。
☆大船駅
iruchanは魚が大好きなので,押し寿司を買ってきました。あじの押し寿司でした。
海軍工廠や首都防衛のため,三浦半島周辺は軍事基地ばかりでしたしね.....。ヘタにこの辺で鉄をしていると憲兵に連れて行かれますね.....。
美味しいお寿司でした。iruchanは鯖寿司が好きでよく食べますけど,ほかには駅弁だと敦賀駅の小鯛のお寿司が好きなんですけど,あじの押し寿司は初めて食べました。
☆名古屋駅
名古屋と言えば......味噌かつやひつまぶしもいいけど......やっぱ,復刻弁当でしょう。ひかりはなくなっちゃったけど,こだま弁当も健在です
のぞみ弁当なんていらん
iruchanの大のお気に入りのお弁当です。いつも名古屋に行ったら買って食べています。コロナのせいで100円ほど高くなっちゃいましたけど,今でも安いです。
おかずは白身魚フライ,牛肉の炒め煮,卵焼き,それにiruchanの大好きなサバの照り焼き
静岡駅の幕の内とよく似ていますけど,たぶん,新幹線開業時はどこの駅もこんな駅弁だったのでしょう。
今回は鉄道150年記念と言うことで名古屋汎太平洋平和博覧会(1937)の掛け紙になっていました。
掛け紙はしょっちゅう変わり,毎回,できるだけ買っていますが,どれも味のある美しい掛け紙でうれしいお弁当です。
ちょっと10月は過ぎちゃったんですけど,記念の掛け紙を入手できました
JR青梅線の廃線跡を訪ねて.....中神駅引込線 [紀行]
2022年5月8日の日記
前回に引き続いて中央線立川駅周辺の廃線跡を訪ねます。
軍都立川には陸軍の立川飛行場があり,それに隣接して,東側に立川飛行機,西側に陸軍航空工廠が立地していて,それぞれに専用線が敷設されました。前回は立川飛行機専用線を訪ねました。今回は西側,青梅線中神駅から分岐していた,専用線を訪ねます。通称,中神引込線ですね。建設は東西ともに同時期のようで,こちらも1943年の建設のようです。
立川飛行機の専用線の終点から,一度,北に行って,立川駐屯地や昭和記念公園を越えて,泉町西公園という緑地を目指すと引込線の終点に行くことができます。自転車だと楽だと思います。
ただ,iruchanは終点から先に訪ねたのですけど,普通の人は中神駅から訪問されるでしょうから,中神駅から解説します。
米軍撮影の空中写真です。もうベトナム戦争も末期で,急速に撤退を進めていた頃だと思います。あと半年でサイゴン陥落ですね.....。iruchanは,サイゴン陥落とデカい見出しが載った新聞を今も覚えています.....。
1969年には燃料輸送も終了したらしいのですが,線路も貨車も残っています。右側に米軍将校用社宅が見えます。
う~~~ん,やはり戦争に負ける,ということはかういふことかと......。
日露戦争に負けていたら,かういふ状況かもしれないやうですけど,まあ,ほとんど今と変わらない状況かと....。住んでいるのがロシア人,と言うだけかも
1954年の線路図です。上り側に2線,側線があります。"専用線" と書かれています。
現在の状況です。右側(北側)から引込線が出ていたのですが......。ここから,中神引込線通りへ出るまで,痕跡は消えてしまっています。特に,駅東側の都道59号が立体交差となり,周辺の道路も整備されて消えてしまったようです。
向こうの信号機の奥から線路跡のようです。
奥に見える公務員住宅の東側が線路跡です。S字状に道路がカーブしていますが,後半のカーブが線路跡の曲線のようです。この道路の右側(東側)にある歩道が線路跡のようです。つい20年ほど前まで線路が残っていたそうです。
途中から道幅が狭くなり,線路跡らしくなります。ただ,一方通行ですけど,車の通行は可能で,ちょっとその点は残念。1997年までは線路が残っていたようですけど,東側の立川飛行機専用線跡のように緑道とした方がよかったのではないでしょうか。
線路は途中で分岐し,南北に並行した2本の線路となって航空工廠に入っていました。分岐点にモニュメントが置かれています。
ここの分岐器が残されています。説明板も設置されています。
このまま,線路はゆっくりカーブし,東側に向いていきます。南側の引込線は国際法務総合センターへ突っ込む形になります。北側の線はあきしま相互病院に突っ込んでいきますが,どちらの線路もむさしの公園という大きな緑地で復活? します。
線路終点には▲の小高い丘の東西にモニュメントがあります。ここが実質的に線路の終点ですが,1970年代に残堀川が改修され,以前は直角に曲がっていた川が斜めに経路変更されるまではその奥まで伸びていたようです。
小高い丘の西側にあるモニュメントです。分岐器と信号柱が残っています。
もう少し,分岐器も本体がしっかり残っていて,転轍機なんかも残っているとよかったんですけどね。それに,そもそも,この丘がなくて,終点まで線路が残っていてもよかったんじゃないでしょうか。
むさしの公園に入る前,道路西側の昭島市北部配水場横にあるモニュメントですが,ここは非常に見つけにくい。相当探さないとわからないと思います。その割に残っているのは路面電車みたいな線路だけ,なんですけどね.....。
☆ ☆ ☆
帰りはまた自転車で帰りました。途中,昭島名物のごんにんごんさんで,おいしい弁当を買って帰りました。iruchanは駅弁とか,持ち帰り弁当大好きなので......。
JR中央線の廃線跡を訪ねて.....立川飛行機専用線跡 [紀行]
2022年4月30日の日記
先週に続いて,今日は国立駅に向かいます。そこから立川飛行機専用線を訪ねます。
立川は戦前,陸軍の立川飛行場と,隣接して立川飛行機の工場があった関係で,資材輸送や燃料輸送のため,専用線が引かれていました。
立川飛行機は石川島造船所(現IHI)が1924年に設立した石川島飛行機が前身で,赤トンボとしてよく知られた,九五式一型練習機が有名です。1930年に工場を月島から立川に移転し,1936年に立川飛行機と社名変更します。一時は中島飛行機の一式戦闘機・隼のOEMも手がけましたが,戦後,GHQから航空機産業が禁止された時期に技術者が独立して自動車に進出し,プリンス自動車となり,その後,日産に吸収されたのはよく知られています。一方,航空機生産も再開しますが,しばらくして撤退し,現在は不動産業が主力です。
線路の建設時期については,はっきり書かれた資料が見つかりませんが,立川に移転した1930年ごろではないか,と思っていたのですが.....。
立川は軍都と呼ばれただけあって,立川飛行場の他,立川飛行機や関連の軍事施設や工場がありましたので,米軍が集中的に爆撃しますが,偵察時に撮影した空中写真がたくさん残っています。
国土地理院のWEBでこういった写真を閲覧できますので,調べてみますと....。
驚いたことに,太平洋戦争初期の頃の空中写真には出てきません。
もちろん,戦前の米軍撮影の空中写真,というのはありませんので,確認できませんが,戦前には線路はなかったはずです。むしろ,宣戦布告されて大っぴらに領空侵犯して偵察飛行できた,というのは皮肉ですね.....。
1944年11月に撮影した写真には出てくるので,どうも戦時中,おそらく1943年か44年に建設されたようです。残念ながら,1943年の写真がないので,建設時期がはっきりしません。
一方,現在は陸上自衛隊東立川駐屯地になっている場所が戦前は帝国陸軍獣医資材廠(1941年7月開設)だったのですが,そこへの引き込み線も設けられていて,立川飛行機への専用線はそこから分岐して建設されています。獣医資材廠では馬の飼料が大量に必要なので専用線を敷設したのでしょう。
iruchanは先に立川飛行機専用線が建設され,後から獣医資材廠線が建設された,と思っていましたが,逆のようです。
戦後はご存じの通り,米軍立川基地となり,そこへの燃料輸送が継続されました。1977年11月に基地が全面返還されますが,燃料輸送も,それに先だって1968年には終了し,線路は1972年に廃止されているようです。
今も横田基地へは青梅線拝島駅から専用線が伸びていますが,立川も同じ光景が見られたでしょう。横田への燃料輸送は今はDE11ですが,立川のほうは牽引機はDD13のようですけど,占領中はDD12(占領軍形式8500)だったかもしれません。横田も昔はDD13でしょう。
廃線跡の路線図はかなり難しく,先ほどの米軍撮影の航空写真他を参照させていただきました。花子で航空写真とGoogleマップを重ねて,さらにその上のレイヤーに線路を描きました。さすがに,前回,1/25000の地図は当てにならない,と言うことに気がつきましたので.....。
それに,かなり基地内は線路の変遷が激しく,B線は戦後早くに撤去されていますし,一番長く,基地の一番南まで伸びていたC線も早いうちに撤去されています。━━と━━が戦前の線路で,……は終戦後,建設された部分です。旧立川飛行機工場内はほとんど痕跡が残っていないので,推定です。
陸軍が建設した元の滑走路が短かかったため,戦後,米軍が東側に2000mの滑走路を建設します。▲の路線図を見ても,戦後,大きく基地が拡張されていることに驚きます。戦前の1/25000地図を見ると,立川飛行場が意外に小さいのに驚くのですが,戦後に大幅に拡張されたようです。
結局,これでも滑走路が足りず,横田基地を拡張して3350mの滑走路を建設して,1960年から順次,横田に移っていくことになります。
ちなみに現在の立川飛行場の滑走路は西側に新たに建設されたもので,900mの長さがありますが,航空機用としては短いので,現在はヘリコプター主体の基地となっているのはご存じのとおりです。旧滑走路は立川広域防災基地となり,先日ゴジラが蒲田に上陸し,暴れたときに巨大不明生物特設災害対策本部がここに移転してゴジラを退治したのはよく知られていますね.....(^^;)。
☆ ☆ ☆
国立駅北口でレンタサイクルを借りて出かけます。
すでに中央線は高架になってしまい,分岐地点はわからないだろうな.....と思っていたのですが....。
まだ三角状になった土地が残っていて,雑草防止のためか,ビニールシートがかけられていました。
中央線との接続部分
反対の専用線側はすでに宅地になっていてアパートが建っていますが,長年,線路敷だったこともあり,土地の境界もそうなっているので,建物が斜めに建っていて,線路敷は駐車場になっています。
反対側
なお,iruchanが持っている中央線線路図によれば,この専用線は本線から直接分岐していたわけではなく,立川駅東側にあった,立川貨物駅の上り1番線から出ていたことがわかります。
また,終戦直後のほんの短い期間ですが,専用線と中央線の間に2本,引き込み線が出ていたのが空中写真でわかりました。
iruchanが最近入手した,1971年3月の線路図です。路線名も立川飛行機専用線となっています。
終点のキロ程は3.7kmと記載されています。現在,緑地帯として遊歩道が整備されているのは,旧砂川踏切までで,2.5km地点となります。
この横断歩道部分から線路が奥へ行っていたようです。
しばらく行くと国立市の北第一公園があり,広場があり,ここから先,北緑地(国立市),西町緑地(国分寺市)栄緑地(立川市)となっていて,ずっと立川市内まで,快適な遊歩道が続いています。
前回の武蔵野競技場線と異なり,線路敷は一段高くなっていて,鉄柵もずっと続いていて,結構,遺構が残っています。コンクリート製の土留め壁もずっと続いていて,いかにも線路らしいです。お近くにお住いの高齢の女性に伺いましたが,50年ほど前まで,毎日,朝夕,1本ずつ貨物列車が走っていたとのこと。おそらく,夕方は返空でしょうね。どうも貴重なお話をありがとうございました。
公園を出ると北緑地となり,そこはかつての獣医資材廠への分岐点ですが,残念ながら,その先は,つい最近まで線路まで残っていたらしいのですが,家が立ち並んでもはや跡形もありません。
獣医資材廠への分岐部分。すこし柵が広がっていました。
Google Earthで過去の空中写真を見られますが,どうやら2012年ごろには宅地開発がされて,全く痕跡はなくなりました。かつては2面2線のホームまで残っていたそうです。
ここから先は閑静な住宅街が続きますが,時折畑や果樹園があり,東京とは思えないのどかなところです。
国分寺市内から立川市内に入ると住宅が建て込んできて,道路も頻繁に横切りますが,もとは踏切だったわけですので,両側にコンクリートの壁があったり,また,線路敷は1段,高くなっていることが多いので,横切る道路も斜めに傾斜したりしています。
ただ,細い道が多く,いずれ道路が改修されて,拡幅されたりすると景色が一変してしまうでしょう。特に立川市内は立飛跡地の再開発や多摩モノレールの開通で,発展著しいので,今後,どんどん変わっていくでしょう。
栄緑地の終点は芋窪街道との交差点です。ここから先は立川飛行機の後進の立飛企業が開発したところで,交差点の反対側に少し緑地が残っている以外はほとんど痕跡は残っていません。ただ,Google Earthを見ると,マクドナルドのすぐ南を線路が通り,つい最近まで,細い道が残り,両側に木が生えていて,少し痕跡が残っていたようですが,現在は駐車場に変わってしまいました。
その先,今の都立砂川高校のあるあたりに留置線や分岐がありますが,戦時中は留置線までで,そこから先,飛行場へ伸びている部分は戦後の建設のようです。▲の線路図でいうと,B線とC線は戦後のようです。このうち,C線が米軍への燃料輸送線として活用されました。
奥は立川拘置所で,左は多摩モノレールの車両基地です。
路線図を見るとずっと滑走路の終点近くまで線路が伸びていますが,かなり早い時期に線路が撤去され,おそらく,米軍が新滑走路を造り,燃料供給関係の設備を移設し,不要になったためだと思います。専用線は北側に2線並んでいて頭端式ホームがあるところまでになったようです。何のためにホームが必要だったのか,不明です。機関車の乗務員交代のためだけなら,長いホームは不要ですが,100mくらいはあったようです。また,iruchan所蔵の線路図は,このホーム以南の配線も載っていますが,とうに廃止になった後で存在していないはずです。
米軍撮影の航空写真から判断して,この緑地がホーム部分だと思います。ホーム終端側から東を見た状況です。なぜかこの狭い土地だけだけ国有地で,右側にモノレール基地があります。ホームはこの後ろ側,拘置所の駐車場まで続いていたようです。
この先はまったく痕跡は残っていませんので,実質的にここが廃線跡の終点です
左から1947年11月,2005年4月,現在です。
2000年代初め頃まで,ホームの跡が残っていたようです。2009年に立川拘置所が開設し,道路も新設されて大きく変わりました。
多摩モノレールの車両基地にて。
立ち入り禁止なら,OFF LIMITSだろ,と思いました。単数形で書いてあるのは初めて見ました。
なお,英語で立ち入り禁止はNo entry, No enter, Do not enter, Stay outやNo trespassingが普通かと思います。
この点,日本ではなぜか,立ち入り禁止の意味でOFF LIMITSと書かれていることが多いんですが,この場合,英語ではその先は軍事施設を意味することが多いです。
ここなら,Restricted area(制限区域)か,Authorized personnel only(関係者以外立ち入り禁止)くらいがいいかもしれません。でも,これでも何か軍事施設を想起させますけど。
よく,外国人が日本を訪れて,いたるところにOFF LIMITSと書かれているので,日本にはこんなに軍事施設があるのかと驚く,という話を聞いたことがあります。新幹線なんかでもOFF LIMITSと書かれていることが多いです。
まあ,鉄道も軍事施設なのかもしれませんけど......。鉄ちゃんじゃない,普通のおじさん,おばさんを民間人とも言いますしね.....言わへんて。
☆ ☆ ☆
周囲はモノレールも開通し,ららぽーと立飛は家族連れでにぎわっています。もはや誰もここが昔は戦闘機を作っていて,戦後もすぐ横の滑走路からは米軍機が朝鮮半島やインドシナ半島へ飛んで行き,街には米兵があふれていた,とは想像できない状況となりました。ららぽーとに来ている若い人にそんな話をしてもちんぷんかんぷん,というところなんではないでしょうか。まぁ,今どきの若い人に,「日本は昔,アメリカと戦争してたんだ」と話したら,スゴ~~~い!! なんて言われる時代ですからね......
旧滑走路跡。
右は2車線の道路,さらにその右は立川市役所,極地研究所などがあります。
2022年5月22日追記
立川飛行機専用線の建設時期がわかりました。
三田鶴吉著1987年けやき書房刊行,"立川飛行場物語"(下)の巻末に年表があり,1943年11月建設と記載がありました。
また,同氏の "立川飛行場史" (1976)にはDD13が写った写真が載っていました。
DD13です。
写真は背景に立飛企業川崎工場という看板が見えるので,今の立川市栄地区にあった同社の川崎工場と思われます。
ホームページをみると,川崎工場は1961年操業開始のようですから,▲の写真は1961年以降の撮影ですね。
説明をみると120両/日のタンク貨車が運転されていたようです。
JR中央線の廃線跡を訪ねて.....武蔵野競技場線,東京都水道局専用線跡 [紀行]
2022年4月23日の日記
━━が戦前の路線で,━━が戦後の路線です。
iruchanはむかし,多摩地区に住んでいたことがあり,多少,この辺りは知っています。久しぶりにこの前,上京したので,近くの廃線跡を訪ねます。以前,下河原線を紹介していますが,今日は三鷹から出ていた,武蔵野競技場線と,武蔵境から出ていた,東京都水道局の専用線を訪ねました。
どちらもよく知られていますね。iruchanも後者はよく知っていて,いつか行きたい,と思っていました。
なお,戦後は始発駅が変わってしまっていますが,戦前の建設時はどちらも武蔵境が始発駅です。ちなみに武蔵境駅は建設当時は境という名前の駅ですが,1919年に武蔵境と改称しています。
☆武蔵野競技場線
もとは1938年から終戦の45年まで稼働していた中島飛行機武蔵製作所への資材搬入のための専用線です。ここで中島飛行機は航空機用の原動機を作っていました。途中まで,先にできていた東京市の境浄水場用引き込み線を利用し,そこから先を建設しました。
1950年5月に廃線となったのを利用し,国鉄が武蔵野グリーンパーク野球場への観客輸送を目的として,翌年4月14日に武蔵野競技場線として開業しています。国鉄は前年に,国鉄スワローズを設立した経緯もあり,将来的に本拠地とする目的があったようです。
なお,グリーンパークという名前は戦後,米軍がこの辺りを接収し,命名した名前に由来します。まあ,代々木公園がワシントンハイツとなっていたのと同じですね。戦前は徹底的に敵性語として英語を排除したのに,戦後は今になってもその名前を使い続けている,なんて,ちょっと呆れます。日本人のよく言えば柔軟性,適応性というか,まあ,逆に言えば,なんというか,権力のある者にはひれ伏す,という民族性が,確かにありますね......。水戸黄門を笑って見ていちゃいけない,って思います。マッカーサー=水戸黄門,なんじゃないんでしょうか......。
しかし,翌年,連合軍に接収されていた,神宮球場が接収解除となると,都心のほうが利便性が高いので,結局,放棄され,1シーズンのみ使用されただけです。武蔵野競技場線も営業列車が運転されたのは1年だけで,1959年11月には廃止されました。野球場も1956年には閉鎖されています。
全線電化3.2kmで,国鉄が営業開始する前に電化工事のほか,そもそも路線が武蔵境発だったのを三鷹発に路線変更したり,終点部分ももとは工場への引き込み線だったのを路線変更し,球場前に移動するなど,結構大工事をしています。
どんな電車が走っていたのだろう......って思いますが,ネットを検索しても実際に電車が走っている写真が出てきませんが "鉄道廃線跡を歩くⅠ" (JTBキャンブックス)にボールの絵が描かれた行き先表示板のついたモハ63の先頭部のアップの写真がありましたので,モハ63のようです。
元の分岐が武蔵境だったのは,まだ三鷹駅がなかったから,だと思います。同駅の開設は1930年です。国鉄の建設規定で,駅(停車場)以外で線路を分岐してはならない,とあるので,本線上で勝手に分岐はできません。ある意味,日本の鉄道が結構,いろんなところで遠回りしているのもこの規定が原因か,と思います。
iruchanは,もし,今もヤクルトスワローズの本拠地だったら.....なんて思います。西武球場のほうがはるかに遠いわけですし,決して立地は悪くありません。周辺は人口も多く,朝夕なんか,209系あたりを4両で走らせていれば結構,儲かるんじゃないか,なんて思います。試合開催日は直接,E233系を乗り入れればよいと思いました。
ところで,西武も是政線(現多摩川線)を延伸して新宿線・東伏見で接続する計画があり,球場前に駅を設けるつもりだったようです。西武ドームはひょっとして所沢じゃなくて武蔵野だったかも.....。
また,西の方は多摩ニュータウンの建設にあわせ,小田急や京王ばかりではなく西武も途中の北多磨(現白糸台)駅で分岐して,多摩センターまで延伸する計画がありました。このときは国鉄が武蔵境駅の混雑を懸念したため,頓挫したようです。
☆ ☆ ☆
さて,散策してみます。
三鷹駅北口を出て,と言いたいところですが,南口に出ます。
なんでか,というと.......。
太宰治がよく散歩に来ていた,という跨線橋があるから,です。ここを渡ってから北口に出ましょう。
1929年,鐵道省が三鷹電車庫を開設した際,南北の交通を確保するため設置した跨線橋です。作家の太宰治が愛したことでも有名で,この写真の右下にパネルが設置してあります。
別に太宰治じゃなくても,ここに昇ると電車がひっきりなしに通って楽しいところですし,鉄道に興味ない人でも,周囲が一望できて景色も素晴らしいです。iruchanが近くに住んでいたら毎日散歩しに来るよな.....。なにより子供たちが大喜びで,土,日はかなり賑わいます。ママ鉄の皆さんもいらっしゃいます。
残念ながら,JR東日本が撤去を決め,市に無償譲渡を提案したのですが,補修費がバカにならないのであきらめた,と言うことになっています。おまけに耐震強度が不足しているので,その補強費は数十億円とのこと。
う~~ん,なんだかなぁ~~って感じですね。耐震補強なんて,最近はわざと古いマンションとかビルの建て替えの口実に使われているんじゃない,って思っています。
この前の東北地方の地震でも明らかですが,架線柱など,弱いものです。震度7に耐えるような架線柱は存在しません。それどころか高架橋ですら阪神高速でもそうでしたけど,もたないわけなので,耐震補強なんてムダ,と思います。とんでもなく頑丈で,高価な構造物となってしまうのは明らかです。むしろ,ある程度,壊れることは前提にした構造物とするくらいの割り切りが必要では,と思います。もちろん,人命は最優先ですので,壊れても人命が保たれればよい,と言う設計ができるはずですので,コストも考慮した構造物,と言うのはあり得ると思います。構造物の寿命の方が巨大地震よりはるかに短いわけで,地震で壊れる前に建て替えになることの方が多い訳ですから.....。
正直,何でこういう古くてみんなから愛されているものを取り壊すのか.....。きちんと補修し,あとの時代に貴重な歴史遺産として保存するのが我々の役目,という気がします。
もう,JR東は取り壊すことが決まっているから....ということなのか,塗装も直さず,ボロボロです。もっとも,もう,取り壊すお金もないから,ということで当面,このまま使用されるようです....orz。
別に太宰治じゃなくても,楽しいところです。奥が三鷹駅です。
一番左は保守基地へ行く線路ですが,ひょっとしてこの分岐が競技場線への分岐だったかもしれません。ただ,1969年に三鷹まで複々線化しているので,この線路が旧本線と同じ位置なら確かにそうかもしれないと言えるとは思いますが......。
複々線化時に,旧本線のどちら側に線路を増設したのでしょうか。たぶん,南側が旧本線で,こちらは増設した方ですよね.....。
それより何より,中央線を複々線化するときに安易に線路別配線にしちゃったのは残念。関西みたいに方向別配線にしてくれていれば,もっと便利なのに,と思うのはiruchanだけでしょうか。御茶ノ水出た途端に線路くぐって元に戻っちゃうのは残念
跨線橋の反対側はこんな景色です。
競技場線はこの保守用車置き場の先から伸びていたようです。
線路はもちろん撤去されていて,線路沿いに道路ができているため,しばらくは廃線跡が消えてしまっています。
ということですが,堀合(ほりあわい)児童公園というのができていて,そこから先,線路沿いに遊歩道が作られ,桜も植えてあるので,春はとてもきれいなところでしょう。残念ながらiruchanが行ったときにはほとんど散っていました......
ただ,当時の1/25000の地図にある線路と,Googleマップに出てくるこの公園の位置が少しずれていることに気がつきました。どうも線路はもう少し北側を走っていたように見えます。
おそらく,この公園を作る頃にはすでに線路跡が民有地になっていて,開発されていたのでこの公園と遊歩道は少し南に作った,と言うことではないか,という気がしたのですが.....。
と考えるとどう見ても今のぎんなん橋の位置がおかしいです。橋台は巨大なコンクリートの構造物ですし,都道の整備で動かした,なんてことは考えられませんしね。中央線との接続部も妙にカーブがきついし,どうも今のGoogleの地図の方が正しい感じです。ひょっとして1/25000の地図が間違っているのかも.....。
当時の1/25000の地図と重ねてみました。
土地以外の鉄道の遺構はあまり残っていません。国鉄の用地境界標は,と思ってもあまり見つかりませんでした。とはいえ,線路境界に設けられている,鉄製の柵などはところどころで今も用地の境界として利用されているようです。
レールが敷かれていますが,橋桁はもちろん,もとの線路ではありません。モニュメント的に設置されたものです。橋台がもとの設備ですが,草ボウボウできれいな写真は撮れませんでした。
橋桁撤去後はこんな感じで橋台が見えていたようです。2011年,都道12号(新武蔵境通り)の整備に伴い,歩道の橋として活用するため,この橋台を利用してぎんなん橋が架けられました。
わずかですが,柵が残っています。このほかでも見かけました。
ほかにも,国鉄の土地境界標が残っていますが,水道栓の表示と紛らわしく,また,表面が風化していて,それらしきものはたくさんあるのですが,ブログに掲載するのはやめておきます。
途中のグリーンパーク緑地(関前)という開けたところはブランコや滑り台の遊具が置かれ,家族連れの格好の遊び場になっていますが......。
あとで調べてみると,帝国陸軍の八八式7センチ野戦高射砲6門が設置されていたさうです。75ミリ砲弾を発射して最大射高9,100m,有効射高7,000mほどだつたやうです。残念ながら,これぢや,B29には届きません。皇紀2588年といふと1928年制定といふ訳ですから,やはり第2次世界大戦用としては古すぎると思ひます。
B29に対抗するには標定用のヴュルツブルグレーダーを装備した五式15センチ高射砲(最大射高19,000m)を待たないといけませんが,実戦配備できたのは2門だけと言う状況では,国土が焦土に化すのは免れませんでした。
こんなところに高射砲が配備されていたとはとても信じられません。いつまでもこの光景が続くことを祈ります。
戦前,中島飛行機の引き込み線はここからまっすぐ,北に延びていました。戦後,国鉄が球場への観客輸送のため,東のほうへ線路を敷き直したようです。
終点は今は広い武蔵野中央公園になっています。スタジアム跡はなにもありませんけど,公園内の道路がそれらしき形をしています。
奥には巨大なビルが.....。
もと,逓信省の電気通信研究所で,通称,通研と呼ばれていたところです。あまりに大きくて 異様 偉容 なので,某国外交部やHuawei本社ビルを想起してしまいました.....
偉容を誇るHuaweiじゃなかった,NTTの武蔵野研究センター
ここに技術史料館という博物館があり,木,金の13:00~17:00だけ,無料で公開されています。歴代の交換機の実物の他,マイクロ波通信設備の展示があって圧巻でした。電気の好きな人は一度,見学するとよいと思います。
おぉ~~っと,これはMusasino-1じゃないですか!
1957年に電電公社の喜安善市が東大の後藤英一が発明したパラメトロンを使って完成させた,国内初のパラメトロンコンピュータです。5400個のパラメトロン素子と519本の真空管を使っています。のちに富士通がFACOM 201として商用化しています。日立のHIPAC 101もパラメトロンコンピュータです。
パラメトロンは動作速度が遅いのと,小型化できないのが問題で,スイッチング用ゲルマニウムTrが量産できるようになると廃れました。
昔は日本もこんなに頑張っていたんですね......。マジでこの会社も某国企業の傘下となる日も近いかと.....。
☆東京都水道局専用線
1924年3月開設の浄水場と連絡する専用線です。
そもそも浄水場に何で専用線がいるのか......。
ずっと疑問に思っていました。まさか,ミキ20で水を運ぶため,じゃないでしょうしね.....。
調べてみたら,浄水場は大量の砂を使用するため,その砂を運ぶため,のようです。
取水は狭山湖および多摩湖からで,すぐ横を流れている玉川上水じゃありません。また,1965年に淀橋浄水場が廃止されてからは小平の野火止用水との接続地点(小平監視所)以南では水源としては利用されておらず,ひと昔前は空堀状態だったようですが,今は東京都の清流復活事業で水が流れています。
淀橋浄水場廃止前は大量に水が流れていて,だから,太宰治が飛び込んで死ねたわけですね......
iruchanは最初に玉川上水を見たとき,これじゃ,死ねへんやろって思ってました.....(^^;)。
もちろん,ご存じ通り,今は淀橋浄水場の跡に高層ビル群が建っています。だから,なんとかカメラという電器屋さんもあるわけですね....。
武蔵境駅の北口を出て,線路沿いに東に行ってコンビニの横にそれらしい斜めの道があります。一番▲の地図にある通り,このすぐ先に留置線があり,線路が3本あったようです。最大のものは有効長190mもあったようなので,20両くらいは停められたようです。留置線自体は東京都の所有のようです。右側の会社の部分が,留置線と専用線のあったところで,実はこの細い道は線路跡ではないようです。
この線路図を見ると専用線部分は点線となり,社線扱いであることがわかります。とすると,この部分が国鉄の所有地,というのは変なのですが......。
もう,武蔵境駅の地平時代というのはほとんど記憶がありませんが,西武は3番線から出ていたのですね。
米軍撮影空中写真(国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから)
戦後,米軍が撮影した写真です。留置線の位置がわかります。iruchanは,最初,途中の直線部分か,と思っていましたが,もっと南の中央線との接続部分に近いところでした。また,10両ほどの貨車が写っているのがわかります。中央線の電車はモハ63の6両編成ですね.....。中島飛行機の引き込み線もはっきり写っています。
それと,この留置線は戦前の写真には写っていないので,どうも戦時中に作ったようです。中島飛行機への資材搬入量が増え,設置したのかも。
専用線は東京都の財産だったはずなので,土地境界標は東京都のマークがついているはずですが,この付近にある境界標は国鉄マークが入っています。それに,線路跡を歩いているように思っていましたけど,実は線路跡はこのコンクリートの壁の奥側のようで,iruchanは線路の外を歩いている,と言うことになります。
途中の公園のトリケラトプス君。
トリケラトプス君のお尻が写っています......
その留置線の先,この公園のあるあたりが中島飛行機の工場への引き込み線との分岐点だったようです。この公園が少し広くなっている以外はその痕跡は見られません。
Google Earthで同じ場所の過去の空中写真を見ることができます。都道12号の開通前の写真です。中島飛行機への引き込み線の痕跡がかすかに認められます。それにしても1本の道路のため,いかに多くの方が立ち退きをしなければならなかったかがよくわかります。
草ボウボウできれいな写真が撮れませんが,草刈りしてあると明確に橋台があることがわかるそうです。
玉川上水を渡る地点は少し,道路が拡幅されていて,ベンチも置かれて休憩できるようになっています。すぐ近くに武蔵野市の史跡になっている大橋があります。1932年製の橋の親柱が保存されています。
境浄水場入り口。両側の門のコンクリートの台は専用線時代のものでしょう。後ろは玉川上水。廃線後,しばらくは橋が架かっていて,渡れたそうです。
浄水場内は2線あり,終端は1本になっていて機回しができるようになっていたようです。
この専用線が廃止されたのは1971年12月のことのようです。
貨車の運転は西武鉄道が請け負っていたようです。是政線に貨物も走っていましたので,こちらの輸送も請け負っていたのでしょう。もともと是政線は多摩川の砂利運搬用に建設されていますが,浄水場用への砂も運んでいたのかも。
もっとも,多摩川の砂利採取は1964年に禁止されているので,どこか別のところから武蔵境駅まで来て,入換をしてこの留置線に貨車を停めていたのではないかと思います。
それにしても,浄水場へはどんな貨車や機関車を使っていたのだろう.....。
※ この記事の写真は1950年代製のNikkor 35mm F2.5を使って撮影しました。今でもシャープな画が撮れます。
さよなら相模線205系 [紀行]
2022年1月22日の日記
常紋トンネルに向かう205系500番台。146キロポストにて....(^^;)。
実際は29キロポストですけどね.....。
ずいぶん前から気になっていたのですが,ようやく相模線の205系を撮りに行くことができました。早く行こう,と思っていたのですが,昨年,父が亡くなり,落ち込んでいたし,どうにもバタバタしていて,結局,行けたのは1月になってからで,もうすでに205系は置き換えが始まっていて,今日の運用を見ても3本しか動いていないので,かなり撮影には苦労しました。
205系自体,山手線に投入されたタイプは凡庸な国鉄デザインだったと思いますが,後期に相模線や京葉線に投入されたタイプは従来の国鉄のデザインの殻を打ち破り,私鉄のようなデザインでとても好きです。相模線も地下鉄かよ,というデザインで,とても好きなデザインです。
悪いけれど,E231系もE233系もいいデザインとは思いません。E235系に至っては,なんで今さら平面ガラスなの? って感じで,正直,今時こんなデザインなんて本当に信じられない。もはや論評の対象外,って感じです。お金がないなりに工夫を凝らした国鉄時代の後期の205系の方がよっぽど優れたデザインだと思います。iruchanは下手にお金かけてデザイナーにやらせるとロクなものはできない,と思います。某西の果ての会社なんてひどいものだと思います。
久しぶりに上京したiruchanは早朝,八王子みなみ野へ。
八王子南野陽子駅にて....昔,好きでした
うちの嫁はんは若い頃,南野陽子に似ていると言われてました.....。
ここは周囲が山で,まだ朝,7:15なので陽が昇っていなくて暗いです。ISO800でやっとです。さすがに暗い.....orz。
3月12日のダイヤ改正で全車E131系に置き換わりますが,ついでに列車の運行形態が変わり,相模線の横浜線乗り入れが廃止されます。
ということなので,この写真はとても貴重です。
ちょっと陽が出てきました
お前なんか呼んでへんわい!.....って言いたいのですが,E131系がこの区間を走るのはわずか3ヶ月ほどのことなので,ある意味,この写真も貴重です。
朝夕,3往復ずつ,八王子まで相模線が乗り入れていますが,3月からは全部橋本乗り換え,と言うことになります。ずっと国鉄時代から,朝夕ラッシュ時は八王子まで乗り入れて利便性の向上が図られていましたが,どんどん本数が減り,かつては10往復だったのが2015年から6往復になっていました。結局は効率化最優先で,事業者の都合で旅客の利便は犠牲になってしまいます。
また,編成数も八王子乗り入れ中止で1本削減できてE131系12本体制,というのがメリットのようです。それに,車掌を廃止してワンマン化するようで,E131系は車端部にカメラがついていました。
ダイヤ改正と言いながら,今まで,本当に利用者にとって便利になるダイヤ改正,と言うのはないのでは,と思います。民営化も便利なところは便利になって,不便なところはどんどん不便になった,というのが実態でしょう。
残念ながら,朝3本あるはずの八王子乗り入れ列車も,この日は最初の2本がE131系で,いつまで経っても205系が来ないし,次までちょっと時間が空くので,あきらめて入谷に向かいます。
と,途中の南橋本で205系とすれ違いましたから,今日は朝最後の八王子乗り入れ列車が205系だったようです.....
入谷駅の南側に有名撮影地の四ッ谷踏切があり,午前中,順光できれいな編成写真が撮れます。
先ほどの八王子行きが折り返してきて,入谷を発車するのが9:30とにらんで待ち構えます。
それにしても寒い
この日の最低気温は八王子で-6.2℃だったやうです.....。
なんとか撮影できました....汗。
R1編成で,トップナンバーです。一番古いせいか,もう廃車が決まっているのでメンテしないせいなのか,屋根は傷んでいるし,スカートもさびが見られるし,前面もテープになぜか斑点があり,汚れていてかわいそう。
周囲はのどかな田んぼ。踏切は1車線しかなく,踏切から離れたところに待避所があり,通る車が鉢合わせたらバックしないといけません。それほどのどかなところです。iruchanの住んでいるところもこういう踏切があります。
ここで,このあと,3本撮影して移動します。
そろそろお昼だし,原当麻のキリン食堂さんでお昼を食べよう,と思ってたんですが,今日はお休みのようでした....。また今度,です。
次は上溝へ。
Googleマップで調べたら北側に切り通しのようになっていて,俯瞰写真が撮れそうな場所があります。
現地に行ってみてびっくり!線路がS字状にカーブしていて,これじゃ,まるでiruchanが大好きな石北本線・生田原~金華(信)の146キロポストそっくりです。行くのはとても大変ですけどこんな風にきれいな写真が撮れるところです。相模線の方は向きが逆ですけど,同じような構図の写真が撮れます。
上溝駅から県道57号を一度,西に行き,姥川を渡ったら右に曲がり,相模線をくぐったら崖の上に登って広い舗装道路の脇です。
隣は超立派なマンション,と思ったら某国防産業の会社の社宅のようです。この辺でカメラ持ってうろついていたら憲兵に,Suicaじゃなかった,誰何されるかも.....
それに,Googleマップでは一切,表示が出ていません。これって戦時改描なんではないでしょうか。
戦前,諜報対策のため,軍事関連の施設は田んぼや畑などに書き換えられていました。だから戦前の地図は信用しちゃいけません。これを戦時改描と言いますが,今でもGoogleマップは時折,こういうことがあり,以前セノハチに行ったら,途中に広大な米軍川上弾薬庫がありましたけど,Googleマップは単なる広大な空き地になっていて,なにも書いてありませんでした。今は修正したのか,書いてありますけどね。Googleも米国のセキュリティに影響するところは書かないようです。
そういえば,このあたりは陸軍士官学校(現米軍座間基地)があったり,相模陸軍造兵廠(現米軍相模総合補給廠)があったり,南の寒川には相模海軍工廠があったりして,軍事的色彩の濃いところでしたね。当時,このあたりをカメラ持って歩いていたらマジで連行されたでしょう。カメラ持って鉄をしていてもなにも言われない平和な時代になってよかったと思います。
久しぶりに相模線乗りましたけど,結構お客さんも乗っているし,大体20分間隔なのは結構便利。非電化時代の八高線は乗りましたけど,相模線は電化(1991年)してから,でした。1984年廃止の西寒川の枝線は乗っておくとよかった.....って後悔しています。今,ググってみると廃線跡は東京競馬場前まで行っていた,国鉄下河原線のように緑道になっているようですから,一度,行ってみようと思っています。
相模線は無人駅も多いのですけど,Suicaならワンマン運転しても問題ないでしょう。ただ,駅ホームに時刻表がないし,ホームにも改札口にも発車標がなく,次の電車が何時なのかわからない。今ならパソコン用のモニターで安く作れるでしょ,と思います。それに,自動放送が「上り列車が来ます」なんて放送しているのもどうか,と言う感じです。そもそも相模線ってどっちが上りなのか.....。茅ヶ崎方面となんで言えないのか,って思いました。たぶん,電化工事の時に入れた設備のままなんでしょうね。どれもワンマン運転するならまずいでしょ,って感じです。やっぱりこの会社はあまりお客さんのことは考えてないようです。
☆ ☆ ☆
美しい205系の写真が撮れて満足でした。▲のあとはまた,今日は割に固まって走っている205系が茅ヶ崎から折り返してくるまでしばらく時間があるので,帰ることにしました。また今後は久しぶりに模型を作ってみよう,と思っています。
帰りに橋本駅の麺処一ぷくさんのおそばを食べて帰りました。温かいおそばはとてもうれしいです
エビやイカの入った海鮮かき揚げそばはとても美味でした。
2022年2月25日追記
今日で205系の運用が終了したようです。最後のR12編成が営業運転終了後,国府津車両センターへ回送されました。
ダイヤ改正当日に全車置き換えとなるわけじゃないので,それより早く置き換えになるのは知っていますが,もっとギリギリかと思っていたので,とても残念です。
本当にどうも長い間,ありがとう。さようなら。