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イギリス旅行記~その3:British Vintage Wireless & Television Museum & さよならAMラジオ~送信所めぐり~その13:BBC Crystal Palace送信所,Alexandra Palace TV送信所 [紀行]

2024年2月20日の日記

今日はラジオ関連の博物館めぐりと,BBCの送信所を訪ねてきました。


BVWTM-3.jpg 左の緑の扉の奥になります。

ロンドンはものすごくたくさんの博物館があり,電話や郵便の博物館までありますけど,さすがに,ラジオとTVの博物館というとここだけ,だと思います。

また,Science Museumは国立,電話や郵便だと企業の博物館ですが,ここは私設の博物館で,その点では施設も貧相で,ちょっと気の毒な感じもしましたが,大変なコレクションでした。

場所はロンドン南部,ダリッチ地域にあります。Dulwichというところなので,ダルウィッチと発音するのか,と思ったのですが,電車の自動放送ではダリッチと発音していました。

ロンドン・ヴィクトリア駅からsoutheasternのサービスでWest Dulwichまで電車で行くか,地下鉄でヴィクトリア線Brixtonからバス3 Crystal Palace行きに乗れば行けます。

West Dulwich'.png 場所はここです。

ちょっと離れたところにBBCのクリスタル・パレス送信所があります。

知ってはいましたが,博物館としての建物はなく,ごく普通の民家の裏庭に何軒か,仮設の木造倉庫みたいな建物を建てて,そこに展示しています。特になにもmuseumという看板もないので,googleマップで見ないと通り過ぎてしまいます。

また,開館は金曜午後のみなので,事前に予約が必要です。 

BushやRobertsなどの英国ブランドのラジオのほか,Philipsがやはり強いんですね~。美しいヨーロッパ風のラジオがたくさん並んでいます。
 
BVWTM-1.jpg 英国製ラジオ
 
PYE 25B portable(1929), Cossor 390U(1938).jpg 
 
    PYE 25B(1928)とCossor 390U(1938)
 
どちらも英国のラジオブランドです。美しいデザインですね。Cossorのはそっくりさんが戦後,まね下電器などから販売されていますね......[雨]
 
PYEは驚いたことに4球ポータブルです。Cossorも4球ですが,AC電源仕様のTRFです。
 
ところで,PYEはこのようにRising Sunといって,有名なデザインですが,日本からインスパイアされたものか,ずっと疑問に思っていたので,聞いてみると,やはりそのようで,戦前のジャポニスムブームに乗ってデザインされたもののようです。
 
ついでに,戦後,帝国海軍の旭日旗に似ていると批判されたのでは,と聞いてみたらやはりそうらしく,戦後のデザインが変わっているそうです。そういえば,戦後のPYEは雲[曇り]のマークがなくなっています。逆に,それじゃますます旭日旗じゃん....って思うのですけどね。
 
せっかく,日本は,浮世絵などに敬意を払ったデザインをしてくれているのに,それを裏切ることをしてしまったわけですね......[雨]
 
PYE 25B.jpg PYE 25Bの内部
 
   回路はTRFになっています。TRFのポータブルは珍しいです。
 
PYEは英国の大電機メーカに成長しますが,1960年代に経営難に陥り,66年にPhilipsに買収された後,細分化されて売却され,2013年には最後の英国工場が閉鎖されています。1980年代にTV工場のみ三洋が買収したことは知られていますね。
 
一方のCossorは真空管でも有名ですが,やはり1958年にはラジオ,TV部門がPhilipsに売却され,その後,1961年には本体が米Raytheonに買収され,英国の拠点が消滅しています。どちらも戦後は軍需に活路を見いだすのですが,いずれも裏目に出た感じです。
 
正直,部門別にバラバラと事業を切り売りし始めるとおしまいの始まり.....なんですね。東芝さん,大丈夫ですか......[雨]
 
Philips radios.jpg やっぱ,Philipsは強かった。
 
日本では真空管ラジオはいつまで作られていたのか,と質問があったので,1964年と答えておきました。いろいろ調べても,大体,この年には製造中止になっている,と思います。真空管ラジオは昭和30年代で終了,と考えています。理由も聞かれましたが,おそらく,日本では東芝や,松下,日立などの大メーカーが作っていたので,各社一斉に中止したのだと思います。
 
中小のポータブルラジオのメーカは存続していましたが,国内ではポータブルのトランジスタラジオが急速に普及し,販売先を輸出に切り替えて,米国に大量に輸出したのはご存じの通りです。だから,今でも米国で日本製の真空管ポータブルのラジオが意外に残っていて,コレクションとして取引されています。
 
ちなみに,英国最後の真空管ラジオは1967年製だそうです。ダイヤルにBBC 4と書いてあるので,そのように判断できる,とのことでした。
 
BVWTM-2.jpg 最後の5球スーパー(印)
 
残念ながら,英国でもAMラジオは衰退していて,時期は明確ではないが,廃止の方向,とのこと。
 
すでに,2012年にはAM局の一部を停波し,リスナーの反応を見た上で,すでに2018年には一部民放がAM放送を終了したようです。
 
実際,今回,ソニーのICF-SW1を持っていったのですが,AMはBBC-4と5のほかはニュース専門局と民族系の移民向けラジオ局が聴けるだけでした。
 
ちなみに,ロンドンのラジオ周波数はこちらで確認できます。
 
逆に,デジタルラジオはダメで,FMと並行してDABで放送されていますが,受信しにくいらしく,あまりよく聞こえず,アナログの方がよい,とのことでした。
 
う~~ん,いまだにiruchanはデジタルラジオは聴いたことがないので,どんなものか聴いてみたいですけど,DABの受信機をわざわざ現地で買うしかないですしね.....。米国のIBOCも,非常に音がよいらしいですけど。
 
とはいえ,驚いたのですけど,政策的にDABに移行したノルウェーを除いてDABの普及は遅れているらしく,フィンランドやポルトガルはDABによるデジタル移行を取りやめていて,どうもAMステレオの二の舞,という感じがします。やっぱり,ラジオって新しい技術は難しいんだな~。

さて,ここは特にTVのコレクションも充実しています。

Baird televisor-1.jpg Bairdのtelevisor(1930)

1920年代はニプコー円板を使った機械式TVの時代です。1926年1月,ベアードはTVの送信実験を行いました。

Baird televisor-2.jpg 映像です。

ベアードのテレバイザーの復刻品が展示されていました。走査線30本です。ベアードも1930年代半ばには電子式に移行します。

英国は1936年に世界初の高解像度TVの商業放送を開始しています。走査線405本,毎秒25フレームと言う規格で,戦後,欧州は625本の規格で統一されるのですが,405本の放送は1985年まで続きました。
 
iruchanはこれは知っていたのですけど,そもそもどのチャンネルでやっていたのか,と思って聞いたら,BBC 1のみだそうです。なぁんだ。
 

残念ながら,英国の戦前のTV放送は1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻と同時に中断してしまいます。
 
そのため,戦前のTVセットは非常に希少で,オークションなどでも高値で取引されるくらいで,とても貴重ですが,ここで見ることができました。
 
実を言うと,ドイツが1935年3月に米Farnsworthのイメージディセクタを用いて,TV放送を開始しているのですが,走査線180本と低解像度で,また,TV受像機は市販されず,街頭に設置したTVでナチスのプロパガンダをするためのもので,商業TV放送ではなかったため,世界初のTV放送は英国とされています。

Murphy A56V 9in. (1938).jpg Murphy A56V(1938)

Marconi 703(1937), HMV 900(1936).jpg 戦前のTVセットコレクション

   Marconi 703(1937), HMV 900(1936)

TVは日米ともに同じですが,アマチュアが自作しました。ここでも,TRFの自作TVが展示されていました。日本でもNHKだけの頃,TRFのTVを作った人がいますね。

amateur made TV with TRF circuit, Green CRT.jpg TRFのTVセット

アマチュアが戦後,米軍放出品を使って作ったそうです。CRTはグリーンです。

PYE 18T(1948), BV51(1950).jpg PYEの戦後モデル。

PYE 18T(1948)とBV51(1950)。欧州のTVはデザインが美しいですね。


West Dulwich St.png West Dulwich駅

ロンドンの近郊で,ヴィクトリア駅から3駅ですが,日中は無人駅のようです。この辺,驚きますね。oysterカードのリーダが置いてあるだけでした。その割にカフェは営業していて,驚きますが,これはありがたいです。

この辺りはSouthern Railwayが戦前,第3軌条で電化したところなので,鉄道には架線がありません。▲の鉄橋は鉄道線路なのですが,架線がないので,貨物線みたいで変な感じですね......。

この日はバービカンセンターでBBC交響楽団の演奏会を聴きに行きました。庄司沙也香さんのソロで細川俊夫氏のヴァイオリン協奏曲の英国初演を聞きましたが,さっぱりわかりませんでした......[雨]

残念ながら,iruchanは現代音楽は苦手です......。

ただ,その後のKahchun Wong指揮BBC響のショスタコーヴィチの交響曲第5番は超名演でした[晴れ]

☆BBC Crystal Palace送信所

Crystal Palace送信所.jpg 大きな鉄塔。

先ほどの地図▲に,BBCの送信所があります。British Vintage Wireless & Television Museumから,距離は2kmほどです。

最初,歩いて行こうか,と思っていたのですが,先ほどの博物館で遅くなり,BBC響のコンサートがあったので,最終日にヒースローへ行くまでの間に訪れました。

でも,これは正解だったようです。最初の計画は歩いて行く予定だったのですが,とんでもなく,送信所は丘の上にあって,バスで行かないとものすごくしんどいところでした。残念ながら,googleマップでは,高低差がわかりにくく,こんなところにある,とは思いませんでした。

Crystal Palaceとは,1851年,世界で初めて開催されたロンドン万博に際して建設された壮麗な建物で,当初はハイドパークに建設されましたが,終了後,ここに移設されたものです。

残念ながら,1936年11月に焼失しています。日本では "水晶宮" としてよく知られています。万博は日本からは岩倉具視らの遣欧使節団が視察していますし,また,日本の品々も駐日公使のオールコックが展示していたことは知られていますね。

また,ここはベアードのTV送信設備がありましたが焼失しています。

焼失後,建物自体は再建されていないのですが,もともとスポーツ大会が開催される公園に建設されたため,今もサッカーのCrystal Palace F.C.があります。

Crystal Palaceと検索したら,サッカーのことばかり出てくるので困るんですけど......[台風]

ここに,BBCが送信所を建設したのが1956年で,このとき,Alexandra Palace▼にあったTV放送設備を移転しています。高さ219mの鉄塔で,当時,ロンドン一高い鉄塔だったことは言うまでもありません。

実を言うと,戦前,ここからTV放送することも検討されたのですが,Alexandra Palaceの方が標高が高く,交通の便もよいことから,Alexandra Palaceに決定したようです。

当初,走査線405本のBBC 1のほか,民放のITVもここから送信されました。現在では,BBC 1, 2のほか,ITV1なども送信しているようですし,FMも,BBC Radio1~4のほか,民放2局が利用しています。AMは720kHzのBBC Radio 4のほか,民族系2局が利用しているようです。そのほか,デジタルラジオ(DAB)の送信も行われているようです。

と言う次第で,中波~極超短波まで,ありとあらゆる電波が飛んでいる場所のようです。

日本でもTV,FMのほか,中波も送信している送信所,と言うと北陸放送MROや山梨放送YBSの送信所がそうですが,そんなに多くはなく,普通はTV,FMが兼用していることはあっても,中波まで兼用している場合は多くないのですが,ここは高さが219mと,ほぼ中波帯の1/2λであることから送信所として利用されているようです。

Brixtonの駅から,3系統 Crystal Palace行きのバスに乗り,Crystal Palace Parade/College Roadで降りると,塔の根元です......[晴れ]
 
残念ながら,やはり時差ボケで午前2時くらいに目が覚めちゃって,時間がもったいないので早朝に出かけましたが,緯度が高いこともあり,2月のロンドンは8時を過ぎないと明るく[晴れ]ならないので,きれいな写真は撮れませんでした......[雨]
 
それにしても大きな鉄塔にビックリ。やはりTV用に建設された鉄塔は違います。
 

BBC Crystal Palace.jpg 頂部。

BBC Crystal Palace4.jpg 中間部。

STLのパラボラと,左に中波のリード線が見えます。給電部が見えますね。リード線が2本あるのは,BBC Radio 4のほか,民放2局があるため,と思います。

まぁ,しかし,それにしてもアンテナだらけ.......[台風]

一体,どれが何のアンテナなのか,さっぱりわかりません.......[台風]

BBC Crystal Palace5.jpg 基部

残念ながら,給電点までの整合箱がどこかにあるはずですが,このレンガ小屋かどうかはわかりません。塔自体は接地されているので,ダウンリード式で,ダイポールアンテナになっているようです。木が邪魔なので,リード線はずいぶん長く絶縁されているようです。

帰りは丘を下ってSydenham Hillの駅から電車に乗って帰りました。

West Dulwichの駅もそうでしたが,ここも不定期に駅員さんがいるくらいで,普段は無人のようです。Crystal Palaceは丘の上に立っている関係上,切り通しの狭いところにホームがあり,すぐにトンネルです。上下線とも,ホームに行くには細い通路を歩いて,谷底に向かって歩くような感じです......。

これじゃ,まるで秘境駅の小幌駅みたい.....[雨]

Sydenham Hill St.jpg Sydenham Hill駅下り方

Sydenham Hill St.-1.jpg 上り方面

Southern Railwayは第3軌条で電化したので,架線はありません。一見,非電化なので,ますます小幌駅......。

☆BBCラジオの歴史

ここでちょっと英国のラジオ放送の歴史を書いておきます。

公式な放送開始は1922年11月14日で,ロンドン中心部Waterloo橋近くのStrandにある,Marconi社のMarconi Houseから,コールサインは2LOです。

今ものこの建物は残っていますが,高級マンションになっているようです。ミュージカル "FROZEN[雪]" をやっている,Theatre Royal Drury Laneのすぐ近くだったので,見に行けばよかった......[雨]

ちなみに,もちろん,同社はイタリアのグリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Giovanni Maria Marconi 1874~1937)が設立した会社ですが,なぜ英国企業なのか,というと,やはり大英帝国の企業でないと世界的規模まで成長できない,と考えたためのようです。同様に,ロイター通信もドイツ人の創業者ロイター(Paul Julius Baron von Reuter1816~1899)が英国に移住したのも同じ理由のようです。iruchanはReuterと書くので,イギリス人じゃないな,と思っていました.....。

残念ながら,マルコーニ社は戦前は世界を支配する勢いでしたが,戦後は衰退し,1987年にGECと合併しますが,同社も解散し,その後,2006年にスウェーデンのEricssonが買収し,今もブランドを所持していますが,会社の実体としてはなくなりました。

コールサインのLOはもちろん,Londonを意味していますが,最初の数字がよくわかりません。2,5,6とあるようで,アマチュア無線のコールサインと区別しているようですが,よくわかりません。ちなみに3LOはメルボルンです。

公式な,と言うのはそれまでに同社の2MTと言う試験局がロンドンの北東,45kmほどのところにある,Writtleという町で放送を初めていたからで,2月に放送を開始しています。また,同社は5月11日には同じ2LOのコールサインで,先ほどの建物から試験放送を開始しています。

とはいえ,どちらも火曜日の夜,8時から30分だけの放送だったようです。

その後,Writtleの設備をMarconi Houseに移転し,毎日1時間の間,10分ごとに,両局が825kHz,出力100Wで放送を開始します。

実を言うと,周波数が判然としません.....。

ネット上には832kHzや857kHzという記述もあり,バラバラで,どれが正しいのか,さっぱりわかりません。

ただ,"The Saga of Marconi Osram Valve"(Vyse, Jessop 2000)にBBCのネットワーク局の周波数一覧が出ていて,当時の資料のコピーのようですので,これが一番正確か,と思いましたが,それを見ると825kHzのようです。

1922年10月18日に統合した組織,British Broadcasting Companyが発足します。BBCの始まりです。そして,翌月に正式な放送を開始します。

ちなみに,日本のラジオ放送開始は1925(大正14)年3月22日です。また,世界初は米ピッツバーグのKDKA局なのはよく知られていますね。1920年11月2日のことでした。このKDKAが英国でも聴けて,早く放送を,という声が上がっていて2MTなどの試験が開始された,とのことです。

放送開始に際して,BBCは新たに1.5kWの送信機を開発しました。翌年には,スタジオはすぐ近くのSavoy Hillに移転します。

1925年には,オックスフォードストリートに今もある,セルフリッジ百貨店に移転します。この辺りはよく知られているところで,iruchanもここからは知っていました。

ロンドンの百貨店と言えば,ナイツブリッジのHarrodsが有名ですけど,王室御用達,ということもあってか,高級百貨店というイメージで,一方,Selfridgeは庶民的,と言うイメージがあったのですが,どちらも最近,大きく変わってしまい,今ではどちらも高級ブランド店だけの集合店舗に変わってしまっています。Harrodsなんて,地下の食品売り場や,ほかにも洋服売り場など,結構,意外に庶民的な買い物もできたし,お土産を買うこともできたのですけどね.....[雨]

世界的にネット通販に押され,百貨店ビジネスが曲がり角を迎えていますけど,こういう生き残り策もあるのか,と思います。

1927年には正式に勅許(Royal Charter)を得て,British Broadcasting Corporationが発足し,1929年10月には送信所もロンドンの北,25kmほどのところにある,Brookmans Parkに移転し,842kHz,50kWで送信開始し,現在も送信しています。2LOはこのあと,閉局します。

ここ,ちょっと行ってみたいのですけどね......残念ながら,今度行ったときはAMは廃止されているでしょう。

ただ,驚いたことに,2LOの1.5kWの送信機がScience Museumで展示されているので,見に行きました。20年ぶりにこの博物館へ行った理由のひとつです。

2LO transmitter-4.jpg すげ~~~っ!

2LO transmitter-2.jpg 終段
 
出力管はM.O. ValveのMT7Bで,プレート損失500W,Vf=15V/If=10Aの規格です。
 
2LO transmitter-6.jpg 発振管と陽極電圧計
 
発振管は同じくM.O.ValveのMT2で,プレート損失300W,Vf=17V/If=15Aの規格です。残念ながら,水晶発振じゃなく,普通のLC発振回路ですから,周波数は不安定だったでしょう。
 
木箱に入ったメータがありますが,F.S. 5000Vになっていましたので,3000Vくらいは陽極にかけていたのかも,と思います。回路図はこちらに出ています。

2LO transmitter-3.jpg電源部

整流管はM.O. ValveのMR6で,アノード電圧15kV,Vf=15.5V/If=10Aの規格です。

整流管が4本ありますがパラになっていてセンタータップ整流しています。

それにしても日本で言えば,愛宕山にあった送信機が展示されているようなもの......と思いますけど,よく残っているな~,と感心します。さすが英国,と思いましたが,意外にもやはり送信機は取り壊されていて,1954年にBrookmans Parkの送信所の倉庫でジャンクを見つけ,復元されたもののようです。

2002年にBBCから,Science Museumに寄付されたようです。

確か,各真空管に灯が入った状態のカラー写真を見た記憶があるので,ヒータくらいは電源が入る状態ではないか,と思うんですけどね.....。

じっと見入ってしまいました.....[晴れ]

☆Alexandra Palace送信所

さて,引き続いて,TVの歴史にも触れたいと思います。

Alexandra Palace.jpg Alexandra Palace

もとはロンドン万博後の解体資材で作られた展示場兼宮殿で,当時の皇太子(後のエドワード7世)のアレクサンドラ妃から命名されています。

英国では,John Logie Baird(1888~1946)が1925年にはニプコー円板と光電管を用いて最初のTV放送を実現しています。送信所は▲と同じ,やはりSelfridgeのデパートから,でした。

しかし,わずか走査線30本ではとてもTVとは言えませんよね。そこで,各国では高解像度の電子式TVの開発が進められる,というわけです。

英国では,1935年,Marconi-EMI Tlevisionが開発した,emitron撮像管が開発され,BBCがロンドンの北,10kmほどのところにある,ここアレクサンドラパレスに送信鉄塔を設置し,実験を開始します。emitronは米RCAのZworykinが発明した,アイコノスコープ(iconoscope)と原理的に同じものです。

同社は1934年5月,Marconi Wireless and Telegraph(MWT)と,Electric and Musical Industries(EMI)が折半出資してできた会社で,親会社を通じて,米RCA,GEの特許を自由に使えました。ということはiconoscopeも自由に使えたわけですね......。

もちろん,Bairdも手をこまねいていたわけではなく,米国のFarnsworhから,イメージディセクタ(image dissector)を導入し,電子式TVを開発していました。

ただ,イメージディセクタは蓄積型ではないのが災いし,感度が低く,最初期の撮像管のひとつですが,実用化は無理だったようですし,実際,Bairdもこの実験で使用することはできなかったようです。

蓄積型とは,電子ビームで1フレームスキャンする間にモザイクと呼ばれる微少なコンデンサに電荷を蓄積するものですが,イメージディセクタは映像をスキャンし,光電子を電圧に変換する部分が1個しかないので,非蓄積型となります。

Bairdらは,フィルム中間方式と言って,一度,映像をフィルムに感光させ,機械式の走査機で分解し,それを光電管で電気信号に変換する,という半電子式です。スタジオ放送用としては,飛点走査方式と訳されていますが,flying spotといって,真っ暗なスタジオに走査円板で作ったスポット光をスキャンする形で被写体を走査し,それを光電管で受ける,というやり方です。

Bairdのシステムの走査線は240本です。

EMIは純電子式で,走査線は405本,現在と同様のTVカメラを開発し,移動式カメラまで用意していましたから,最初から,勝負は明らかだったと思います。

BBCはAlexandra Palaceの東側の1棟を借り,スタジオAにはEMIが,スタジオBにBairdが入って放送実験を行いました。

1936年11月2日から,両社のシステムの実証試験放送が開始されますが,2ヶ月後,Bairdのシステムは放棄され,Marconi-EMI方式に一本化されます。Bairdのほうも,自社規格が採用されなくても,受像機の販売で儲ければいい,と言う考えだったようです。実際,戦後のTV放送再開後も高級ブランドとしてTVセットが売られています。

というわけですが,この送信所は▲にも書きましたとおり,Cystal Palaceに移転するまで使用され,鉄塔も残っています。ロンドンのKing's Cross駅から,電車に乗ると丘の上に建っているのが見えますし,一度,Alexandra Palaceに行ってみよう,と思っていました。

Alexandra Palace St.jpg Alexandra Palace駅

ここはoysterカードが使えます。駅を出て,この写真の右にある通路で再び鉄道を越えて反対側に出て,2車線の道路を歩くとAlexandra Palaceが見えてきます。

それにしても,West Dulwichもこの駅も,昔のままの美しい駅舎ですね。駅って街の顔なので,古いものを残してほしいものです。20年ごとくらいに建て替えちゃう,どこかの国と違います。

Alexandra Palace-2.jpg スタジオ部分

Alexandra Palace-3.jpg 見学できるような感じですが......。

見学する際は,東側の入口から,と書いてあるのですが,受付のおばさんに聞いたら,見学できない,と言われました。まあ,事前に調べておいたのですが,見学できる風ではなかったので,しかたないです。

Alexandra Palace-4.jpg TV放送開始を記念する銘板

Alexandra Palace-5.jpg 相変わらず,何のアンテナだかわからない鉄塔。

戦前の写真を見ると,一番上の毛虫のような感じの部分はなく,おそらく,戦後のTV放送用でしょう。

戦前は,その下に遊園地の回転飛行機みたいな腕が6本出ていて,それが4組あって,アンテナを構成し,映像用が上で,音声用が下だったらしいです。

それにしても,TV以外のアンテナがにょきにょきついていて,なにがなんだか,さっぱりわかりません.....[雨]

Alexandra Palace-7.jpg 全体を見てもよくわかりません.....[雨]

Alexandra Palace-6.jpg Alexandra Palaceから

南側にロンドンの街が一望でき,素晴らしい景色が見られます。TVの送信には最適の場所でしょう。大阪の生駒山に送信所が並んでいるのと同じ理由ですね。

ここから1937年5月12日,ジョージ6世(エリザベス2世女王の父君)の戴冠式がTV放送されることになります。BBCの実験も,この戴冠式が目標でした。

しかし,時代は戦争に向かっていくことになります。

ジョージ6世は徹底抗戦を唱えるチャーチルを支援し,空襲下でもロンドンを離れず,国民を勇気づけ,最後に勝利を迎えます。今も英国民が尊敬する国王です。


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イギリス旅行記~その2:自然史博物館,科学博物館とストーンヘンジ~ [紀行]

2024年2月17日の日記

2月6日未明発の深夜便JAL 41便でロンドンへ行ってきました。

ところが.......[雷]

なんと久しぶりに南岸低気圧で大雪[雪]

そういえば,2.26事件も大雪の日だったし,iruchanもずっと昔,ワシントンへ仕事で出かけたとき,成田で一晩明かしたのを覚えています。空港は大混雑で,床にみんな寝ているし,カウンターは大行列でした......[雨]

調べてみると,2006年1月21日のことだったようです。成田の積雪は13cmでした。

この日のことが頭をよぎったのですが,まあ,飛行機はかなりの大雪でも飛ばないと仕事にならないし,iruchanも大雪の青森空港や新千歳の記憶がありますけど,ちゃんと飛んでいました。ただ,2日連続で紋別空港が閉鎖されて渡道できなかった経験もありますけど.....。

問題は中央線.......[雪]

真っ先に止まりそう......と踏んだので,南武線~京急と乗り継いで羽田に無事に着きました。

飛行機は順調に飛んでいるようですし,欠航の表示もわずか2便だけのようです。

安心してゲートで本でも読んで休憩していたのですけれど......。

21:00くらいまで順調に飛んでいたのに,ここでストップ。

なんと,雷警報が出たらしく,地上の作業が止まっているようです。

これは仕方ありませんね。前線の通過前後に積乱雲のせいで雷が出ているようです。

おかげでフライトは2時間遅れ。

でも,なんとか飛んでくれてよかったです。旅程が1日,減るところでした。

飛行機は787。国内では何度も乗っていますが,国際線は2回目です。

787機内.jpg なんで緑色

深夜便なので,すぐに寝ちゃったのですが,起きてみたら室内はグリーン。

もしかしてオーロラ?

って思っちゃったのですけど.......。

単に液晶のブラインドに陽が当たると緑に見えるだけ,のようです。

ただ,それにしてもこのとき,気がついたのは787って,とても静かなのですね。

飛行機って,ゴォーッとエンジンと機体周りの空気の渦の音がずっとしますけど,787は非常に静かです。新幹線より静かなんじゃ,ないでしょうか。

ヒースローには2時間遅れの8:30に到着。どうもありがとうございました。

あとは簡単,いつものピカデリー線でまずはホテルへ行って,荷物を預けたい,と思います。

ホテルはHammersmithにしました。高級住宅街のKensingtonに近く,治安も比較的よいところ,と思います。何より交通結節点で,ピカデリー線のほか,ディストリクト線もあるので,市内観光にもちょっと距離がありますが,便利だと思います。なにより,中心部のホテルはめっちゃ高いので.....。

さて,ホテルに荷物を預けたら.......そのディストリクト線に乗って,まずはSouth Kensingtonへ。

ここで,博物館を2つ,回りたいと思います。

☆Natural History Museum

NHM'.jpg

自然史博物館,と訳されています。恐竜の化石の展示が有名ですが,地学,天文学などの発見を展示しています。

iruchanのお目当ては始祖鳥の化石です.....。

一度,2017年に上野の科学博物館に来たので,子供と見に行きましたけど,本当の展示場所で展示されている状態を見たい,と思いました。

1860年,ドイツ南部のSolnhofenで発見されたのが最初で,時代によって違うのですけど,iruchanが中坊だったときは見つかった化石は世界で3個という記憶があります。確か,今では10個くらいはあるはずですし,中国でも見つかった,と新聞に出たのを覚えていますが,その後,どうなったか不明です。

ロンドンのは1861年,やはりドイツ南部のLangenaltheimで発見された化石で,ロンドン標本と呼ばれます。

archaeopteryx-1.jpg archaeopteryx

始祖鳥の化石です。ロンドン標本と呼ばれるものです。

でも,なんで2つあるの? って思ったのですけど,単に化石の表と裏ですね.....[雨]

おまけに,▼のドードーのとなりにも1個,展示されていて,3つあるのか,と思ったのですが,こちらは説明で複製であることが書かれていました。

Dodo'.jpg Dodo

ドードーは人気者。みんなこの前で記念撮影していました。"go the way of the dodo" は絶滅する,廃れるという英語のイディオムにもなっています。

ほかにも海竜のものすごい化石群に圧倒されます。

Rhomaleosaurus.jpg Rhomaleosaurus

前期ジュラ紀の地層から発見されたロマレオサウルス。

stegosaurus.jpg Stegosaurus

恐竜好きの人はぜひ行くとよいと思います。iruchanは小坊のころは恐竜マニアでしたけど,そのうち電気の方に興味が移っちゃいました......。

☆Science Museum

Science museum.jpg

 科学博物館ですが,▲の自然史博物館の北隣にあります。

こちらは産業革命以後の工学の発達を記録,保存している博物館で,社会人になったばかりの頃,訪問しました。あれから20年以上経ちますが,久しぶりに訪れてみました。

お目当てはニューコメンの蒸気機関とBBCのラジオの送信機の展示です。後者は最近,移転したもので,今回,初めてです。

ニューコメンとワットの縦型蒸気機関は入ったところに展示してあります。そのほか,トレビシックの高圧蒸気機関やパーソンスの蒸気タービン,英国製のルノワールの内燃ガス機関も展示されていて,初期のエンジンに興味がある人はたまらないところです。

Newcomen steam engine.jpg ニューコメンの蒸気機関

Newcomen's atomospheric engineと書いてあることが多いです。ピストンの背圧は大気圧のため,どうしても大型になります。

ピストン内の蒸気を凝縮させる水のバルブは人間が手動で開けていたのだ,と思いましたが,▲の蒸気機関は説明にあるアニメーションを見ると自動化されているようです。

展示されているのは1791年製のダービーシャーで使用されていた蒸気機関ですが,なんと1918年まで使用されていたそうです[雷]

どうも英国内には実際に可動するニューコメンのエンジンがあるようですが,一度,見に行きたい,と思います。

Watt's rotative steam engine.jpg Rotative steam engine

James WattとMathew Boultonの蒸気機関です。1797年完成で,1885年まで稼働していたようです。友人のMaudのところで鉱石や他の化学物質を砕くのに用いられたようです。

ワットとボールトンは1775年にバーミンガムで共同で会社を設立し,1895年まで活動していました。

Trevishick's high pressure engine.jpg Trevithick's high pressure engine

トレビシックが1801年に開発した高圧蒸気機関です。彼は非常に小型の蒸気機関を開発しました。従来のワットらの据置型,縦型蒸気機関から脱して,船舶や機関車など,交通機関への応用の道筋を作りました。

ワットの発明は凝縮器をシリンダーから分離し,効率を向上させたもので,また,後にはダブルアクションと呼ばれる,われわれがよく知っている蒸気機関車と同じく,背面にも蒸気を加えるシステムを完成させますが,いずれも,いわゆる大気圧機関の域を出ず,トレビシックの高圧蒸気機関は危険だとして,ネガティブキャンペーンをしています。

Burnley ironworks mill engine.jpg 

     Burnley Ironworks製の蒸気機関

すでにモータが実用化されていましたが,20世紀に入ってもなお,蒸気機関が主力として使われました。

1903年製の水平蒸気機関で,紡績工場の動力だったようです。

20tのフライホイールが圧巻。出力は700HPです。

じっと見ていたら,博物館のお兄さんに,"This moves on Thursday. Have a look!" と言われました。木曜日に,午前と午後,動くようです。

蒸気機関の次はタービンですよね。

火力発電の動力源は蒸気機関でしたが,20世紀に入るとタービン発電機が普及します。

Parsons Turbine.jpg Parsons radial-flow turbine

1891年にパーソンスが開発した,蒸気タービン発電機です。翌年,Cambridge Electric Supply社に納入され,30年間活躍したタービン発電機だそうです。

Parsons Turbine1.jpg タービン部。

こんなに小さいのか,って思っちゃいました......。でも,出力は75kWもあるようです。中途半端な数字だな~,と思ったら,出力100HPということなんでしょう。



Lenoir gas engine c 1865.jpg Lenoir gas engine

フランスのルノワールが発明した内燃機関です。彼は内燃機関の始祖とされますけど,当時,いろんな人がガス内燃機関を開発していて,ルノワールだけではありません。彼はそれなりにビジネスに成功したから有名になった,と言う訳です。フランスのオリジナルはパリで見ましたし,ライセンス生産で英国製があると聞いていましたが,実物はこれです。ロンドン西部のReading Iron Works製のようです。

う~~ん,なんかこうやって比較してみると,随分とイギリスとフランス製じゃ,違うんですね.....[雨]

内燃機関と言っても,まだ蒸気機関の呪縛から逃げられていなくて,ピストン両側に点火栓がついていますし,吸い込んだガスの圧縮をしない,非圧縮機関なので,効率も出力も小さいです。出力は0.5HPです。

燃料はガスと言っても気化ガソリンではなく,石炭を高温で乾留した際に発生する石炭ガスです。1792年にマードックが発明しました。この頃にはガス灯のネットワークもできていて,ガスが容易に手に入る頃になっていたので,中小の工場などで,このエンジンはよく利用されたのでしょう

あと,Science Museumは無線関係の展示も2Fにあるのですが,またそれはあとで....。

       ☆          ☆          ☆

ただ,この日はもうフラフラ。前夜からの深夜便でしたし,さすがに着いた直後から観光しているとしんどいです。

ホテル帰って,いつもよく買っているwasabiという寿司チェーンの寿司でご飯にしました。時差ボケで食欲もありませんしね。wasabiのお寿司はとても美味しいです。

☆ストーンヘンジ

Stonehenge.jpg とうとう来ました![晴れ]

フランスのモン・サン・ミッシェル同様,一度,見に行ってみたいと思っていました。

ところが,学生時分,行こうとしたら,まだインターネットもない時代,そもそもどうやって行くのかって,"地球の歩き方" くらいしか情報源がありませんでしたよね......。[雨]

おまけに,とりあえず,ソールズベリまでは鉄道で,あとはバス,と言うことくらいしかわかりません。

なんとか,電車(実際には気動車ですけどね)の時刻くらいはトーマス・クックの時刻表 懐かし~ でわかりますが,地元のバスの時刻が何時なのか,1日に何本あるのか,なんてわかりません。

とするとロンドンからの日帰りができるかどうかわからないし,泊まりになるとホテルも予約しなくちゃいけない,って訳で,結局あきらめました。

今はいい時代ですね。現地のバスの乗り継ぎも含めて,googleさんが懇切丁寧に教えてくれますから.....[晴れ]

ただ,さすがにgoogleさんも電車の料金までは教えてくれないので,とりあえず,鉄道会社がわかったので調べてみると.....

とんでもない料金が出てきます。

Southern Western Railway fare '24.2.15 return.png えぇ~~っ[雷]

ロンドンのヴィクトリア駅~ソールズベリーまでは距離は直線で120kmほどですが,料金は片道£48.50などと出ます[台風]

びっくりで,東京からなら沼津くらいの距離ですが,JRだと2,310円なのに対し,9,000円を超える金額です。

いくら,今は円安だからって,iruchanが前回行ったときは£1=¥140ほどでしたけど,円のレートが当時と一緒でもJRの料金の3倍近いという料金です。

昔はこんなことなかったのに.....,って思いました。

30年ほど前,ヨークの鉄道博物館へ行ったとき,東京~豊橋くらいの距離なのに,日本の半額って,思った記憶があります。それに,英国だとインターシティと呼ばれる225km/hの特急が走っているのに,欧州は特急料金がありませんから,随分安いな,と思った記憶があります。

一体どうして......と思いましたが,例の英国鉄BRの民営化以後,おかしくなってしまったようです。

各路線やサービスを,バラバラの会社に分割した結果,収益優先で各社が料金を定めた結果,のようです。

これでインフラは国が負担しているので,料金は安くできるはずですが,独立採算を考えるとこんな料金になるようです。

そりゃ,そうですよね。鉄道って,黒字路線の収益で,赤字路線の維持を図る,と言う構造的問題があるので,線区ごとに独立採算にしちゃうと,儲からないところの路線はどんどん高くなる訳です。

沼津まで快速で往復したら単純に片道の2倍と考えると,2万円近くする,ということですね.......。

まあ,時間帯別で料金が異なりますし,英国では,長年の慣習として,往復でもほとんど片道と同じ料金くらい,と言うことが多いので,ソールズベリーまでreturn切符を買って往復しても1万円ほどのようですが,それでも日本の倍近い値段です。

おまけに,飛行機みたいに早めに予約すると安いんですけど,▲のWEBで買おうとすると,住所,氏名を入力してアカウントを作らされた上,挙げ句の果て,最後に "英国内居住者でないと発売できません" と出ます[台風]

ちゃんと,countryという欄があって,Japanと入力できるんですけどね......[台風]

今回,▼の観光バスも含め,各博物館やコンサートを日本で予約したりしましたけど,なにも問題ありませんでした。

と言う次第ですけど,旅行者は鉄道利用の場合,当日券を買うしかなさそうです。

また,ソールズベリー~ストーンヘンジ間は各社のバスが出ていますが,大体,£20くらいです。

と言う次第で,鉄道で行くと,トータルで£90くらいはしそうであきらめ,ロンドンから直接,日帰りのバスツアーがあるはず,と思って探したら,ありました。

Golden Toursと言う会社のSimply Stonhengeと言うツアーが£64でした。

ほかにもいくつかバスツアーがあるのですが,冬場は午後便しかないとか,そういうところが多かったのでここにしました。

ロンドン・ヴィクトリア駅のバス停No.8からバスが8:30から出ます。帰りは14:30頃,と言う弾丸ツアーですけど,帰ってきてからまた別のところに行けるし,便利だと思います。実際,この日はツアーから帰ってきて,ナショナル・ギャラリーへ行って時間が有効活用できました[晴れ]

ただ,現地滞在時間が2時間ほどなので,これが十分かどうか......iruchan的にはもう1時間あれば,と思いました。

現地のビジターセンターで昼食を食べられますが,2時間では結構厳しいです。

ま,それにしても長年憧れていた,ストーンヘンジへ,1万円ほどで行ける,と言うのは魅力的です。

イタリア系の運転手さんの陽気で楽しいガイドもとてもよかったです。

ビジターセンターはストーンヘンジから2kmほど離れたところにあり,そこから無料バスでストーンヘンジへ行きます。ロンドンからのツアーバスはビジターセンターの駐車場までです。

sheep.jpg 羊です。メェ~~~っ!

周囲はのどかな田園風景。土産物屋がずらりと並んでしまう,どこかの国とは違います。羊が寒い中,寝たり,草を食んだりしていました。かなり寒いんですけどね~。羊たちは大丈夫なようです。

ストーンヘンジの周辺は遺跡や,墓地が広がっているため,限られた道路以外は歩くことも,ビルを建てることもできないし,もちろん,そういう理由とは別に,野放図な開発を制限して観光地とはせず,ありのままの姿を保存しよう,としているところはさすがです。

明治時代の鉄道の貴重な遺跡が出てきたからと言っても,その上に巨大ビルをぶっ建てて一私企業が金儲けしようという国とは民度が違いますね.....。むしろ,その遺跡を保存して,海外からたくさんの観光客に来てもらった方が国全体としては儲かる,と言う発想すら全くないようです。


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イギリス旅行記~その1:この子とコロッサスに会いに.....~ [紀行]

2024年2月14日の日記

やっと会えました.......[晴れ]

The execution of Lady Gane Grey.jpg "The Execution of Lady Jane Grey" (1833)

フランスのドラローシュ(Paul Delaroche 1797~1856)が描いた,"レディ・ジェーン・グレイの処刑" です。

この絵,"怖い絵" の代表とされますね。日本にも,2017年に来ています。

残念ながら,この絵は前回,ロンドンへ行ったときにナショナル・ギャラリーへ行ったら,いなくて,一体,どこに行ったのか,と思ってインフォメーションの女性に聞いたら,アメリカに行っている,とのと。ガ~~~ン[雨]

と言うこともあったんですけど,ようやく会えました。

まずは所在確認,ということで到着すぐにインフォメーションで聞いてみるとroom 45にある,とのこと。"Straight down and right room."(入ってすぐ右ですよ)とのこと。

なあんだ,入ってすぐそばじゃん,と言う次第でした.....。

行ってみてビックリ。なんとものすごく大きな絵でした。3×2.5mもあるそうです。

美術館って,こういうところもいいですよね.....。教科書なんかで見ているとさすがにサイズまではわかりませんから。大好きなルオーやモローの絵も,実際は逆に,非常に小さかったりしてビックリ,なんですよね。

1553年,悪名高いヘンリー8世の跡目争いに巻き込まれ,イングランド初の女王として即位するものの,長女のメアリが勝ち,わずか9日で退位させられ,のちに反逆者としてロンドン塔で刑場の露として消えてしまいます。わずか16歳という薄命でした。英王室は今も彼女が女王だったとは認めず,称号もQueenではなく,単にLadyとされています。

即位したメアリ1世はカトリックだったため,親父に似て残酷で,一転して新教徒を弾圧し,ブラディメリーのカクテルにもなっていますね.....[台風]

ジェーンは聡明で教養のある女性だったらしく,彼女がそのまま女王となっていれば,その後の歴史は変わっていたでしょう。実際,メアリの次のエリザベス1世がイングランド国教会を設立し,その後,最終的にはイギリスは新教徒の国になるわけですから.....。

それにしても,わざわざ見に行ったのにはぐらかされ,ようやく見ることができたので感慨無量でした[晴れ]

ほんとうによかったです。

やはり人だかりができていて,皆さん,写真を撮っていますけど,海外の美術館だと普通は行列,なんてこともなく,ルーブル美術館同様,ゆっくり見ることができました。

iruchanは閉館近く,ベンチに座って30分ほど鑑賞できました。

しかし,あまりにも彼女に科せられた運命は過酷で,残酷だと思います。

実際,本当の処刑は黒い服と頭巾を被せられ,公衆の面前でおそらくは罵声を浴び,憎しみと好奇の視線を浴びての公開処刑だったようですから,もっと現実は悲惨だったと思います。

それをデラローシュは哀れむとともに,彼女の潔白を証明し,メアリ一派に対する批判を絵にして後世に伝えようと画家は考えたのでしょう。フランスはカトリックの国だし,デラローシュもカトリックだったのではないか,と思いますが,メアリを批判し,公正な立場で物事をとらえる人物だったのでは,と思います。

ただ,それにしても宗教で対立して殺し合う......なんて,われわれ日本人には理解しがたいですよね。

カトリックとプロテスタントはもちろん,イスラムやユダヤ教徒など,互いに殺し合うまで宗教で対立する,と言うのは理解できません。日本で,○○宗と××宗で,長年対立して殺し合いをした,と言う歴史がなくてよかったと思います。

絵の中の彼女は純白のドレスを着て,肌の白さも際立ち,彼女の美しさと気品が感じられます。

教誨師らしき主教はそっと寄り添い,断頭台の前でキリストに魂の救済の祈りをしているのでしょうし,侍女2人はもはや放心状態で,処刑吏もまた,気の進まない仕事を押しつけられ,困惑している,と言う感じです。

もうひとつ,ちょっと思ったのですけど,iruchanがルーブルで見た,やはり教科書にも出てくる,ダヴィッドが1805年に描いた,”ナポレオンの戴冠” と同じくらい大作ですし,画家はひょっとして,この絵のことが頭にあったのではないか......なんて思っちゃいました。

Vermeer1.jpg Johannes Vermeer(1632~1675)

  大好きなフェルメールもあります[晴れ]

"ヴァージナルに立つ女","ヴァージナルに座る女" です。

     ☆          ☆          ☆

ようやく彼女に会うことができました。

National Gallery.jpg National Gallery

ナショナルギャラリーへは,Charing Cross駅が一番近いですが,路線はBakerloo, Northern線で,あまり乗らないところですから,Piccadilly線のPiccadilly Circusか,Circle線のEmbankmentから歩くとよいでしょう。iruchanはEmbankment駅から歩きました。正面の広場はトラファルガー広場で,ネルソン提督がにらみつけています......。

今回,ストーンヘンジと,戦時中,ナチスドイツの暗号,エニグマを解読していたブレッチリーパークへ行って,チューリングが作った世界初のデジタルコンピュータ "コロッサス" (Colossus)を見てきました。

5年半ぶりのイギリス訪問記を書こう,と思います。しばらくお付き合いください。


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