さよなら特急「有明」 [紀行]
2021年3月20日の日記
先週,特急「踊り子」の185系での運用が終了してブログを書いたばかりです。
実は,うっかりしていて,特急「有明」も終わっていたんですね......
う~~ん,実はiruchanはもう,鉄道雑誌はほとんど読まなくなっていて,最近の情報にすっかり疎くなってしまっていました。NHKラジオの "鉄旅・音旅 出発進行" で聞いてびっくり,でした。ちなみにこの番組,音鉄用の番組ですが,結構面白いです
そうか....ついに「有明」も終わってしまったのですね....。確かに,九州新幹線が開通して,ほとんど意味がなくなっていた,と思います。一時は25往復あって,国鉄の臨時特急は50号以上の番号だったのを80号以上にした理由にもなったのではなかったでしょうか。もっとも,30分ヘッドになった代わり,3両編成なんて列車もあり,ちょっと寂しい感じもしたのは事実ですけどね。
通例,新幹線が開通すると在来線の特急は廃止になるのが普通ですから,今まで生き残っていたのが不思議なくらいです。最後は朝の上り1本だけ,と言う寂しい状況でした。もっとも,新幹線では停まらない駅とか,新幹線のルートが在来線のルートから外れちゃったところとか,本線から離れて支線に直通する特急とかは新幹線が開通しても残すべき,と思っています。
特に,「有明」は783系ハイパーサルーンがiruchanはお気に入りで,国鉄民営化後初の特急電車として華々しく登場しましたが,その斬新なスタイルは国鉄時代最後の185系同様,ちょっと衝撃を受けました。模型の国鉄民営化反対派なので,JR以降のものは買いませんけど,783系と地元の683系だけは買ってあります.....(^^;)。
でも,残念ながら,この電車のあとは例のデザイナーがデザインするようになり,大嫌いです。そもそも,「つばめ」なんて九州とはそれほどゆかりのない名前をつけた電車が登場した頃から,九州の電車はおかしくなった,と思います。783系もその後,そいつの手にかかって変な色になっちゃいましたね.....orz。
そういや,九州には20回くらい行きましたけど,その後パタリと行かなくなってしまいました。多分,電車が嫌いになってしまったからだと思います。
783系はいつか乗りたい! と思って九州に行きました。その頃の写真を紹介しませう。
485系「有明」には乗りませんでしたけど,貴重です。
ここはよく行きました。上田浦駅から線路沿いに20分ほど歩いたところです。線路を越えて海側に半島みたいに突き出た場所があり,そこから撮影しました。今は鹿児島本線じゃなくなって,第3セクター肥薩おれんじ鉄道になっているところです。もう,電車が走らなくなってしまっています.....。
並行在来線はJRの経営から切り離す,と言うが原則になっているのに,鹿児島中央~川内間はJRがそのまま経営しているのが不思議です。もちろん,儲かるからで,そこから先は儲からないから捨てた,ということなのでせう。
西鹿児島行きは1997年に廃止になっています。東京~西鹿児島間を22時間かけて走行していました。iruchanはやはり,「はやぶさ」というと新幹線じゃなくて,これなんですけどね.....。やっぱ,東北新幹線は「はつかり」じゃないんでしょうか。車両故障で停まってはつかりがっかりって,また新聞に書かれるのが嫌でやめたのでせう。
国鉄コンテナが懐かし~~~。
これ以前の写真もあるのですが,どうにも褪色が激しいので止めにします。国産F社のフィルムはどうもこの年くらいまでは褪色がひどく,乳剤かなにか,悪かったのだと思います。
ここは上田浦の駅からかなり歩くので,行きも帰りも駅前のお店で冷えたジュース(まだこの頃はペットボトル入りのお茶がなかった頃だと思います)を買って,帰りはホームのベンチに座って休憩,と言うのがいつもの定番でした。行きも帰りも買ったので,店のおばさんが笑ってた記憶があります。また,海を見ながら無人駅で次の列車を待つ.....なんて贅沢な時間だったのだろうと思います。昔はよかったなぁ~~~~。
そういえば,▲の写真は先頭はクモハ485形ですね。しばらくして真っ赤になっちゃうので国鉄色の写真は貴重です。
ひと駅手前の肥後二見~上田浦のあいだのポイントもよく行きました。午前中は順光で海をバックにきれいな写真が撮れました。
今じゃ,485系「有明」の写真はとても貴重だと思います。
783系はこんなにかっこよかった.....
☆湯前線
「有明」や「はやぶさ」,「なは」を撮りに九州へ行ったのですが,湯前線に行くのも目的でした。
急行「くまがわ」に乗って人吉へ行きました。パノラミックウィンドウの1500番台ですね。
さよなら185系「踊り子」 [紀行]
2021年3月12日の日記
今日でとうとう,185系 "踊り子" が引退します。いよいよ国鉄形電車特急も終焉です。国鉄マニアのiruchanはもうこれで撮影する対象がなくなっちゃって,残念です。といって,昔みたいにEF58やDD51など,古い車両を全国追いかけ回す,なんてことは体力的にできなくなっているんですけど......orz。
正直,185系は"踊り子" だけじゃなく,新特急 "草津" など,何度も乗っているのですが,最後にお別れ乗車をしておこう,と思い,出かけてきました。
185系は1981年登場で,iruchanはよく覚えているんですけど,国鉄最後の特急電車として,国鉄らしからぬ,色とデザインには衝撃を受けました。国鉄の特急というとクリームに赤,と言う定番カラーを打ち破り,緑色でしかも水平じゃなくて斜めにストライプが入っている,というデザインは衝撃的だった,と思います。
とはいえ,足回りは485系などと同じ制御器と台車で,特に台車はDT32/TR69なんて,165系以来の相変わらずのペデスタル台車で,正直,かっこわる~~って思ったのは事実です。車体も張り上げ屋根じゃなく,雨樋の見える国鉄形の車体だし,車内も普通のアルミデコラ張りで変わりばえのしない内装です。椅子も0系や117系みたいに転換クロスシートなんてのも,当時ですら特急とは思えない設備でした。
当時の国鉄は何を考えていたのか,特急と快速を同じ車両で兼用する,なんてことを考えていたらしく,事実,185系も間合いで東海道線の普通電車に使われていました。通勤電車としても使うので,特急なら固定窓が当然なのに,大昔の157系みたいに窓が開くなんて驚きの設計でした。それに,157系は1段下降窓なのに,185系は車体の腐食を警戒したのだと思いますが,1段上昇窓で,これもびっくりでした。
おまけに,同時に登場した117系は最初から通勤用だったので,デッキなしの両開き2扉なのに,185系は一応,特急用と言うこともあり,デッキ付の片開き2扉で,これじゃ,通勤時間帯はムリ,という構造で,事実,国鉄は通勤時間帯は使わないと言っていたのに,実際は東京18:00発なんて下り普通電車にもバンバン使われていました。これじゃ,途中駅では降りられへんちゅ~の~~
また,国鉄は極力,新規の設計部分のない設計でコストを抑えてどんどん車両を作るつもりだったらしく,そういえば,気動車の185系も同じ考えですね.....。
ついでに,一時は電化も検討した高山本線にもこの考え方の車両を投入するつもりだったようで,デッキ付2扉の特急形気動車の図面を見た記憶があります。
いずれにしても,特急と快速を同じ車体で,というのはどちらも中途半端で,結局,四国のキハ185系も持て余して九州に売却したくらいだし,"ひだ" もやめておいて正解だったでしょう。JRになってから,どちらも新規に特急用車両を導入したくらいですし.....。
う~~ん,なんかこう考えてくると,国鉄も末期なのに古い車両の置き換えのため, "踊り子" もそうですけど,北海道や四国に新車を投入しましたね....。むしろ,高山本線や函館本線,石勝・根室本線,予讃本線など電化しておいてくれた方がよかったのでは,という気がします。せいぜい30年ほどで取り替える車両よりインフラに投資しておいてくれた方がよい遺産になったのではないかと思います。
と言う次第ですけど,117系も185系もとうとう車齢が40年になり,経年劣化から取り替えとなっています。伊豆方面の特急も中央線用のE257系をアコモ改善 & 塗装変更して投入することになりました。
本当はiruchanもE257系が去年のダイ改で投入され始めたので,早く行かないと,と思っていたのですが,去年の夏くらいから公私ともに忙しく,おまけにいろいろ悪いことばかり続いて,とうとう,3月になってしまいました。
"かいじ" に使われていたE257系はあまりにもブサイクなので嫌いなんですけど,まあ,この塗色ならそれなりにマシ35です。"E257にも衣装" ということでせうか.....。
ということで,3月3日(水)に出かけてきました。
最初,行き先は熱海にしようかと思っていたのですが,まだ伊東線に乗っていないことに気がついたので,伊東までにしようかと思いましたが,思い切って,伊豆急下田へ出かけることにしました。下田も以前,訪れたことがありますが,クルマだったし,今回は電車で行って,伊豆急と伊東線を乗り潰そう,と思います。やっぱ,北陸に住んでいると,こういう盲腸線(失礼!)はちょっと乗りにくいんですよね.....。
乗るのは,"踊り子" 14号にしました。伊豆急下田14:33発,東京17:30着です。これが一番空いていそう.....と思いました。行きの "踊り子" 9号だと,東京10:30発で結構いい時間帯ですから,混んでいそうです。
熱海駅に8:00過ぎに着き,各駅停車を乗り継いで,10:00前には伊豆急下田に着きました。天気がよく,伊豆諸島がきれいに見えました。
残念ながら,コロナのせいで街は閑散としています。本当に困ったことだと思います。
さて,"踊り子" 14号の発車まで4時間ほどあるので,少し観光させていただきます。
☆玉泉寺
やっぱ,下田と言えば,ここですよね~~。ぜひ,一度,行ってみたいと思っていました。伊豆急下田駅から1.6kmほどありますが,バスは2時間に1本くらいなので,歩いて行きました。
1853年6月(旧暦),ペリー艦隊が江戸湾に現れて,大砲をちらつかせて幕府に開国を迫ったわけですが,大慌ての幕府は右往左往の末,なんとかかんとかお引き取りいただいたものの,「また来るからな」というわけで,半年後の翌年1月,再びやってきて,14カ条の日米和親条約が締結され,下田と箱館が開港されます。
ペリーの目的は捕鯨船への食料や燃料の供給のためで,特に日本と貿易をしよう,と言うものではなかったので,1856年8月,ハリスが来日して今度は日米修好通商条約を結ぼうとしました。
まあ,ハリスはペリー同様,高圧的な人物で,ミルクや牛肉を所望して村人を困らせたし,TVでもあまりよくは描かれていませんよね。特に,芸妓のお吉との話はずいぶん歪曲されているとは思いますが,これもそうです。
もっとも,ハリスは敬虔な米聖公会のクリスチャンで,この前,バイデン大統領が就任直後にお参りしたワシントンのアングリカン教会というのはここの教会なんですけど,日本側が女で外人を籠絡しようという意図にはすぐに気がついて,さすがに激怒したらしいですが,今でもこういうのはハニートラップと言って,諜報関係では普通のことだし,意外にもそこまで考えた幕府側の作戦には結構驚かされます。
まあ,お吉は当時,17歳だし,どうも肌に発疹があって病気だと思われ,実際には3日で解雇されていて,普通に世話役と看護婦の役割を果たしただけと思いますけどね......。当時の日本人は何らかの皮膚病を患っていたらしく,イザベラ・バードの "日本奥地紀行" にも出てきますけど,ちょんまげのはげた部分も,とてもきたなかったそうです.....orz。
日本での捕鯨の話はメルヴィルの "白鯨" にも少し出てきますが,日本近海が鯨の好漁場だったためですが,エイハブ船長やペリーもそうですが,アメリカは太平洋岸から来たわけではなく,彼らの出発点は米東海岸です。ペリーは東インド艦隊の司令官で,日本へはインドから来ています。
蛇足ですけど,グレゴリー・ペックがエイハブ船長をやっている,映画 "白鯨" でも描かれているし,最近読んだ,この本にも書いてありますけど,鯨の皮を船で煮て,溶けた脂を樽に詰めて持ち帰り,ランプに使用していただけで,後は全部海に捨てていたわけですし,鯨が大西洋にいなくなったから太平洋まで出てきて,そのため,近くの日本に薪や水を補給しろ,というのは厚かましいし,自分らは明かりのためだけに散々鯨を捕っておいて,今は鯨が減ったから捕るな,なんていうのはおかしいと思います.....。そもそも捕鯨禁止のきっかけとなったシロナガスクジラが増えないのは人間がミンククジラを捕らなくなって,ミンククジラが増えすぎ,シロナガスクジラのエサが減ったから,というのは正しいと思います。
それに,ペリーは提督と訳されてますけど,そもそもAdmiralではなく,Commodoreで,准将です。日本ではこの階級がないので提督と訳したのでしょうけど,Admiralは少将以上なのでおかしいです。そもそも東インド艦隊というのも,艦隊ほどの規模はないので,英語ではfleetではなく,squadron(戦隊)となっています。もちろん,江戸湾に来たのが4隻なのですから,とても艦隊じゃないのですけどね.....。
普通の国なら,沿岸に大砲を設置して警戒していたはずだし,入港時には港に兵隊に銃を持たせて整列させておくだけで十分で,好きなようにはさせないわけですが,何にも考えていなかった日本はアメリカの力の外交に屈服しちゃうわけですね.....。
とはいえ,ペリーが来たときに対応した日本の役人が素っ裸で腰蓑をまとっただけで手にヤリ持って出てきたわけじゃなく,頭に変なソーセージみたいなもの載っけてるけど,きちんとした身なりで整然とした一団で現れ,一応,通訳らしき人物を連れて現れたので,オッ,と思ったのは事実でしょう。
了仙寺。こちらは1635年開山です。1854年5月,日米和親条約の細則を定めた下田条約締結の場所です。
その後,玉泉寺に初代米国総領事館を開設し,1858年6月に同条約が締結される,と言うわけです。もちろん,よく知られているように,日本には関税自主権がなく,領事裁判権により米国人の犯罪裁判を米国領事が米国法に基づいて行うとするなど,日本の無知につけ込んだいわゆる不平等条約です。こういう条約を押しつけたハリスはどうにも好きになれません。
それと,世界史でも学ぶし,最近も本で読んだのですけど,Graham Allisonの "Destined for War" には1793年,大英帝国から清に派遣されたマカートニーの話が出ていましたが,英は通常の外交儀礼で特使を派遣して皇帝(乾隆帝)に領事館の開設を要求するのですが,清は全く取り合わず,例の三跪九叩頭の礼を拒否した,マカートニーは門前払いされちゃったのですが,アメリカは「あれじゃあかん」と横で見ていたのではないか,と思いました。もっとも,英は後のアヘン戦争やアロー号事件など,今度は武力に訴える方針に変えるのですけど,アメリカも文明の低レベルの国には力で要求すればよい,と言うのを学んだのではないでしょうか。
もっとも,この清の尊大無礼な態度は,中国が世界の中心であり,貿易を要求されても,対等な関係でなく,あくまでも朝貢であるならば,という考えに基づくものですが,このときの対応が後の中国の植民地化につながったのではないか.....と思います。むしろ,江戸幕府のように,たとえおっかなびっくりでも相手に敬意を払ってまずは話を聞く,という姿勢が日中のその後の運命を分けた,と考えるのはどうでしょうか。
玉泉寺の北側にある,墓所です。iruchanもお参りしてきました。
1854年10月,プチャーチンはディアナ号に乗船して下田に上陸します。ペリーが去って半年後のことです。ディアナ号は2000tを超す大型艦で,500名近い乗員が乗っていました。もちろん,来航の目的はペリーに倣って日露和親条約を締結して,北方の国境を画定し,日本の開国を迫るものでした。巨大戦艦に乗ってやってきたのもペリーに倣ってのことでしょう。もっとも,すでにクリミア戦争が始まっていて,カムチャツカ半島にある母港のペトロパブロフスクが英仏軍により攻撃されることが予想されているのに,最新鋭の戦艦を日本に向かわせた意図はなんだったんでしょうね。でも,プチャーチンはペリーの高圧的態度とは異なり,終始紳士的で,日本に敬意を払い,日本側交渉役の川路聖謨が感銘を受けたことも知られています。
ところが,11月4日朝10時頃,推定M8.4の安政東海地震が発生し,下田地域も6~7mの大津波が襲い,ディアナ号も破損してしまいます。32時間後,同規模の安政南海地震が起きているのも有名です。船の修理のため,戸田港へ回送中,船は沈没してしまいます。
しかしながら,乗船者に3名の犠牲が出ているにもかかわらず,ロシア側は医師を陸側にも派遣し,被災者の治療を申し出たそうです。
12月21日に日露和親条約が締結され,日露国境はウルップ島と択捉島の間と決め,樺太は国境を定めず,日露共同管理? としました。この日が今の北方領土の日(2月7日)となっています。また,領事裁判権は日米和親条約と異なり,双務的で,日露平等になっています。
一方,哀れにもロシアに帰れなくなったプチャーチンは,戸田港の船大工の協力を得て日本初の洋式帆船ヘダ号を建造し,翌年3月,下田を出港し,6月には無事にロシアに帰還します。ヘダ号は,日本の造船技術の向上につながったことはよく知られています。
iruchanはこの辺り,吉村昭の短編 "洋船建造" や司馬遼太郎の週刊朝日の記事で読んだので知っているのですが,そもそもヘダ号は改めて調べていると100tほどの小型船。そりゃ,そうですよね~~。船大工がそう大きな船を作れるとは思えません。それに,皇帝に謁見して結果を報告しないといけないでしょうけど,こんな小さな船じゃ,インド洋,喜望峰を回ってペテルブルクへ帰れるわけがない,と思ったら,帰還航路はペトロパブロフスクです。
そこから陸路でペテルブルクへ.....といってもペトロパブロフスクからは今でも陸路ではモスクワはおろか,どこへも行けないようですから,結局,ペトロパブロフスクからは船で沿海州あたりに移動しないといけないので,とりあえずニコラエフスクへ移動し,そこから陸路でシベリア鉄道に接続するところまで移動して汽車に乗り換えて,と言うところのようです。
でも,この頃じゃ,まだシベリア鉄道はウラル山脈を越えた辺りまでだし,陸路でのロシア横断は大変だったはずです。実際,wikiを見ても,ペテルブルクにたどり着いたのは11月のようですし,この37年後,皇太子のニコライ(のちのニコライ二世)がウラジオストクでシベリア鉄道の起工式をやるのですが,ウラジオストクまでの移動はもちろんまだ鉄道は開通していないので,馬車なんですけど,陸路ではなく,船でした。ちなみにその途次,大津で受難するわけですが.....。それにしてもやっぱロシアは大変......。
また,このヘダ号は500人を乗せるには小さすぎ,結局,第1陣は米船フリート号で帰国し,第2陣がプチャーチンをはじめとして48人がヘダ号で帰国しています。おそらく,一番危ない? 小型のヘダ号で帰国したのは,船長としての責任と,助けてもらったお礼と言うことがあるのだと思います。プチャーチンはいいやつだな.....。
残る最後は独船グレタ号を雇って帰国を図りますが,英国船に拿捕され,捕虜となってしまいます。彼らが無事にロシアに帰国したのはクリミア戦争終結後のことです.....。
プチャーチンは日露友好に貢献したとして,1881年に明治政府から叙勲されていますし,娘さんが戸田村を訪れてお礼と寄付をしているのも知られていますね。
この後,下田漁港でおいしいキンメダイやえぼ鯛,アジの干物をお土産に買って,ペリー上陸の碑や下田公園まで行って,開国記念碑や了仙寺,開国博物館を見て伊豆急下田駅に戻りました。干物は子供らが喜びました
☆ペリー上陸の碑
☆下田公園
1953年5月に下田開港100周年を記念して建立されました。てっぺんに白頭鷲がいますし,揮毫したのは吉田ひつじじゃなくて,なんと吉田茂......。もう占領下じゃない時代ですけど,いろんなところにこれでもかとばかり日米友好と書かれた碑があったり,なんかアメリカの属国化を自画自賛するような印象を受けます。さすがに親英米派? のiruchanでもこれじゃ,鼻白んじゃいます......。
思わず,最近読んだ,佐々木譲の "抵抗都市" を思い出しちゃいました。
日露戦争に日本が負け,日本はロシアと表向き対等の二帝同盟を締結し,霞ヶ関にロシア統監府が設置され,通りの名前がロジェストヴェンスキー通りとか,ロシア風になっていたり,都内至るところに日露の英雄をたたえる銅像が建っていたりします......。
☆ ☆ ☆
伊豆急下田駅には駅弁があります
本当は金目鯛の塩焼き弁当が食べたかったのですが売り切れ。しまった.....。でも,このひれかつ弁当はボリュームがあって,カツもおいしいし,ケチャップであえたスパゲティもとても懐かしく,うれしいお弁当でした。
包み紙つきの包装もとてもいいですが,厳密に言えば,日本鉄道構内営業中央会に所属していないと駅弁とは名乗れないので駅弁の表示がなく,正式には駅弁ではないのですが....コンビニ弁当食べるのは絶対に嫌なので,駅でお弁当が買えるのはとてもうれしいです。今度はなんとか金目鯛弁当買おうっと...
海と伊豆大島がきれいでした....。こんな景色を見ながら駅弁を食べる,というのはサイコーですね
これほどはっきりと伊豆大島が見えることは少ないそうです。ラッキー
☆おまけ‥‥‥特急「踊り子」の写真
1984年,まだ登場したての頃の撮影です。残念ながら,当時の国産のフィルムは褪色が激しいです....。
同じ場所で,雪が降った日に撮影しました。残念ながら後ろ向きですけど....。1994年1月撮影。
10年経つとこれだけフィルムの質が向上します。おなじF社のフィルム(この会社の製品だとフイルムかな)なんですけどね.....。
☆おまけ
14系普通座席車による客車 "踊り子" も結構運転されていました。東京機関区のEF58が使われることが多かったです。一度,EF58 61牽引の "踊り子" で湯河原まで乗ったことがあります。1984年撮影。
183系1000番台による "踊り子" たぶん,18号だと思います。場所は湯河原かな?
田町電車区に皇族用に配置されていた,183系1000番台3編成が "踊り子" 運用に入っていました。こっちの方が国鉄特急らしい,と思うのは私だけでしょうか? 北陸に住んでいるiruchanは頭の補助灯がないのはどうにも間が抜けている気がするんですけどね。
183系は最初は3往復だったようですが,この頃は1往復のみだったはずです。東北新幹線のリレー号用185系がご用済みになって転属してくるとお役御免になりました。
☆もっとおまけ
サウンドを収録してきました。伊豆急下田を出て,伊東線の網代駅発車までです。残念ながら,鉄道唱歌のオルゴールの音が小さいですけどね.....。
踊り子14号 モハ184-215(2021年3月3日)
MT54の爆音とコンプ音がいいですね~~~
やっぱ,モーターはブラシがついていないヤツはダメだな~~~!!
伊豆急下田を出て,すぐに稲梓駅で各停と交換するんですね.....。コンビニ袋をビリビリやっているやつはiruchanじゃありません。だからコンビニ弁当は嫌いなんですよね......(^^;)。
最初,このブログにアップしていたのですけど,SSブログは最大10MBまでなので,mp3は48kbpsにしないとアップできませんでした。そのため,キュルキュル音が目立つのでYou Tubeに投稿しました。オリジナルデータはPCMなんですけどね.....。
メジロが来ています。
2021年2月28日の日記
小さなうちの庭に珍しいお客さんがやってきました。
うちの庭に,ツバキの木が1本,植えてあるのですが,年末からちらほらと咲き始めました。さすがに今はほぼ散ってしまったのですが,時折,メジロが蜜を吸いに来ています。
と言う次第で,ちょっとミカンをお裾分け.....。
こんな風にミカンを輪切りにして枝に刺しておいてやると食べに来る,という話を聞いていたのですが,やはり来るのですね~~~。
それに,ミカンはお気に入りのようで,ツバキの花はまあ,蜜が少ないと言うこともあるのでしょうけど,一瞬で吸って飛んで行ってしまいますが,ミカンはしつこくついばんでいて,5分くらい食べています。あっという間にミカンはすっかり空になり,1日で空っぽです。
また,カップルなのか,たいてい,2羽でやってきて,やはりカップルになっているせいか,特に争うわけでもなく,もう1羽は近くの枝に止まって行儀よく待っています。
かと思うと,あとから1羽だけ来て,追い出して食べているやつもいますけど.....。そいつは彼女いないのかも.....。
では,また。
☆ ☆ ☆
2021年3月21日追記
毎日メジロを観察しています......
やっぱり,カップルで来るようだし,1羽が食べていると取り合いをするわけじゃなく,パートナーが食べ終わるのを茂みの中でおとなしく待っているので,ミカンを2つおいてやったら,それぞれ別々に食べています。それに,驚いたことにたまに交代して別のを食べるのはまるで恋人同士みたいで笑えます。
また,このツバキの木は小さな庭にあり,今,ブログを書いている自作のPCは2Fにあるので,ベランダからツバキの木を見てみると一瞬でいなくなります。
▲の写真は横から撮ったものですけど,意外にカメラには動じないくせに,上からほんの少しでも人間が顔を出すと飛んで逃げていきます。
おそらく,上空からハヤブサなどの猛禽類が襲ってくるので,非常に上の方は警戒しているんでしょう。
なんか観察しているととても勉強になります。