2022年4月23日の日記

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   ━━が戦前の路線で,━━が戦後の路線です。

iruchanはむかし,多摩地区に住んでいたことがあり,多少,この辺りは知っています。久しぶりにこの前,上京したので,近くの廃線跡を訪ねます。以前,下河原線を紹介していますが,今日は三鷹から出ていた,武蔵野競技場線と,武蔵境から出ていた,東京都水道局の専用線を訪ねました。

どちらもよく知られていますね。iruchanも後者はよく知っていて,いつか行きたい,と思っていました。

なお,戦後は始発駅が変わってしまっていますが,戦前の建設時はどちらも武蔵境が始発駅です。ちなみに武蔵境駅は建設当時は境という名前の駅ですが,1919年に武蔵境と改称しています。

☆武蔵野競技場線

もとは1938年から終戦の45年まで稼働していた中島飛行機武蔵製作所への資材搬入のための専用線です。ここで中島飛行機は航空機用の原動機を作っていました。途中まで,先にできていた東京市の境浄水場用引き込み線を利用し,そこから先を建設しました。

1950年5月に廃線となったのを利用し,国鉄が武蔵野グリーンパーク野球場への観客輸送を目的として,翌年4月14日に武蔵野競技場線として開業しています。国鉄は前年に,国鉄スワローズを設立した経緯もあり,将来的に本拠地とする目的があったようです。

なお,グリーンパークという名前は戦後,米軍がこの辺りを接収し,命名した名前に由来します。まあ,代々木公園がワシントンハイツとなっていたのと同じですね。戦前は徹底的に敵性語として英語を排除したのに,戦後は今になってもその名前を使い続けている,なんて,ちょっと呆れます。日本人のよく言えば柔軟性,適応性というか,まあ,逆に言えば,なんというか,権力のある者にはひれ伏す,という民族性が,確かにありますね......。水戸黄門を笑って見ていちゃいけない,って思います。マッカーサー=水戸黄門,なんじゃないんでしょうか......。

しかし,翌年,連合軍に接収されていた,神宮球場が接収解除となると,都心のほうが利便性が高いので,結局,放棄され,1シーズンのみ使用されただけです。武蔵野競技場線も営業列車が運転されたのは1年だけで,1959年11月には廃止されました。野球場も1956年には閉鎖されています。

全線電化3.2kmで,国鉄が営業開始する前に電化工事のほか,そもそも路線が武蔵境発だったのを三鷹発に路線変更したり,終点部分ももとは工場への引き込み線だったのを路線変更し,球場前に移動するなど,結構大工事をしています。

どんな電車が走っていたのだろう......って思いますが,ネットを検索しても実際に電車が走っている写真が出てきませんが "鉄道廃線跡を歩くⅠ" (JTBキャンブックス)にボールの絵が描かれた行き先表示板のついたモハ63の先頭部のアップの写真がありましたので,モハ63のようです。

元の分岐が武蔵境だったのは,まだ三鷹駅がなかったから,だと思います。同駅の開設は1930年です。国鉄の建設規定で,駅(停車場)以外で線路を分岐してはならない,とあるので,本線上で勝手に分岐はできません。ある意味,日本の鉄道が結構,いろんなところで遠回りしているのもこの規定が原因か,と思います。

iruchanは,もし,今もヤクルトスワローズの本拠地だったら.....なんて思います。西武球場のほうがはるかに遠いわけですし,決して立地は悪くありません。周辺は人口も多く,朝夕なんか,209系あたりを4両で走らせていれば結構,儲かるんじゃないか,なんて思います。試合開催日は直接,E233系を乗り入れればよいと思いました。

ところで,西武も是政線(現多摩川線)を延伸して新宿線・東伏見で接続する計画があり,球場前に駅を設けるつもりだったようです。西武ドームはひょっとして所沢じゃなくて武蔵野だったかも.....。

また,西の方は多摩ニュータウンの建設にあわせ,小田急や京王ばかりではなく西武も途中の北多磨(現白糸台)駅で分岐して,多摩センターまで延伸する計画がありました。このときは国鉄が武蔵境駅の混雑を懸念したため,頓挫したようです。

     ☆          ☆          ☆

さて,散策してみます。

三鷹駅北口を出て,と言いたいところですが,南口に出ます。

なんでか,というと.......。

太宰治がよく散歩に来ていた,という跨線橋があるから,です。ここを渡ってから北口に出ましょう。

 三鷹跨線橋

1929年,鐵道省が三鷹電車庫を開設した際,南北の交通を確保するため設置した跨線橋です。作家の太宰治が愛したことでも有名で,この写真の右下にパネルが設置してあります。

別に太宰治じゃなくても,ここに昇ると電車がひっきりなしに通って楽しいところですし,鉄道に興味ない人でも,周囲が一望できて景色も素晴らしいです。iruchanが近くに住んでいたら毎日散歩しに来るよな.....。なにより子供たちが大喜びで,土,日はかなり賑わいます。ママ鉄の皆さんもいらっしゃいます。

残念ながら,JR東日本が撤去を決め,市に無償譲渡を提案したのですが,補修費がバカにならないのであきらめた,と言うことになっています。おまけに耐震強度が不足しているので,その補強費は数十億円とのこと#58944;#58944;。

う~~ん,なんだかなぁ~~って感じですね。耐震補強なんて,最近はわざと古いマンションとかビルの建て替えの口実に使われているんじゃない,って思っています。

この前の東北地方の地震でも明らかですが,架線柱など,弱いものです。震度7に耐えるような架線柱は存在しません。それどころか高架橋ですら阪神高速でもそうでしたけど,もたないわけなので,耐震補強なんてムダ,と思います。とんでもなく頑丈で,高価な構造物となってしまうのは明らかです。むしろ,ある程度,壊れることは前提にした構造物とするくらいの割り切りが必要では,と思います。もちろん,人命は最優先ですので,壊れても人命が保たれればよい,と言う設計ができるはずですので,コストも考慮した構造物,と言うのはあり得ると思います。構造物の寿命の方が巨大地震よりはるかに短いわけで,地震で壊れる前に建て替えになることの方が多い訳ですから.....。

正直,何でこういう古くてみんなから愛されているものを取り壊すのか.....。きちんと補修し,あとの時代に貴重な歴史遺産として保存するのが我々の役目,という気がします。

 ボロボロです。

もう,JR東は取り壊すことが決まっているから....ということなのか,塗装も直さず,ボロボロです。もっとも,もう,取り壊すお金もないから,ということで当面,このまま使用されるようです....orz。

 

  別に太宰治じゃなくても,楽しいところです。奥が三鷹駅です。

一番左は保守基地へ行く線路ですが,ひょっとしてこの分岐が競技場線への分岐だったかもしれません。ただ,1969年に三鷹まで複々線化しているので,この線路が旧本線と同じ位置なら確かにそうかもしれないと言えるとは思いますが......。

複々線化時に,旧本線のどちら側に線路を増設したのでしょうか。たぶん,南側が旧本線で,こちらは増設した方ですよね.....。

それより何より,中央線を複々線化するときに安易に線路別配線にしちゃったのは残念。関西みたいに方向別配線にしてくれていれば,もっと便利なのに,と思うのはiruchanだけでしょうか。御茶ノ水出た途端に線路くぐって元に戻っちゃうのは残念#58944;#58944;#58944;

跨線橋の反対側はこんな景色です。



 競技場線はこの保守用車置き場の先から伸びていたようです。

線路はもちろん撤去されていて,線路沿いに道路ができているため,しばらくは廃線跡が消えてしまっています。

ということですが,堀合(ほりあわい)児童公園というのができていて,そこから先,線路沿いに遊歩道が作られ,桜も植えてあるので,春はとてもきれいなところでしょう。残念ながらiruchanが行ったときにはほとんど散っていました......#58944;

 堀合児童公園

ただ,当時の1/25000の地図にある線路と,Googleマップに出てくるこの公園の位置が少しずれていることに気がつきました。どうも線路はもう少し北側を走っていたように見えます。

おそらく,この公園を作る頃にはすでに線路跡が民有地になっていて,開発されていたのでこの公園と遊歩道は少し南に作った,と言うことではないか,という気がしたのですが.....。

と考えるとどう見ても今のぎんなん橋の位置がおかしいです。橋台は巨大なコンクリートの構造物ですし,都道の整備で動かした,なんてことは考えられませんしね。中央線との接続部も妙にカーブがきついし,どうも今のGoogleの地図の方が正しい感じです。ひょっとして1/25000の地図が間違っているのかも.....。

 う~~ん???

    当時の1/25000の地図と重ねてみました。

土地以外の鉄道の遺構はあまり残っていません。国鉄の用地境界標は,と思ってもあまり見つかりませんでした。とはいえ,線路境界に設けられている,鉄製の柵などはところどころで今も用地の境界として利用されているようです。

 ぎんなん橋

レールが敷かれていますが,橋桁はもちろん,もとの線路ではありません。モニュメント的に設置されたものです。橋台がもとの設備ですが,草ボウボウできれいな写真は撮れませんでした。

 案内板

橋桁撤去後はこんな感じで橋台が見えていたようです。2011年,都道12号(新武蔵境通り)の整備に伴い,歩道の橋として活用するため,この橋台を利用してぎんなん橋が架けられました。

 

 わずかですが,柵が残っています。このほかでも見かけました。

ほかにも,国鉄の土地境界標が残っていますが,水道栓の表示と紛らわしく,また,表面が風化していて,それらしきものはたくさんあるのですが,ブログに掲載するのはやめておきます。

途中のグリーンパーク緑地(関前)という開けたところはブランコや滑り台の遊具が置かれ,家族連れの格好の遊び場になっていますが......。

 かういふ看板がありました。

あとで調べてみると,帝国陸軍の八八式7センチ野戦高射砲6門が設置されていたさうです。75ミリ砲弾を発射して最大射高9,100m,有効射高7,000mほどだつたやうです。残念ながら,これぢや,B29には届きません。皇紀2588年といふと1928年制定といふ訳ですから,やはり第2次世界大戦用としては古すぎると思ひます。

B29に対抗するには標定用のヴュルツブルグレーダーを装備した五式15センチ高射砲(最大射高19,000m)を待たないといけませんが,実戦配備できたのは2門だけと言う状況では,国土が焦土に化すのは免れませんでした。

 平和な光景です。

こんなところに高射砲が配備されていたとはとても信じられません。いつまでもこの光景が続くことを祈ります。

 分岐点

戦前,中島飛行機の引き込み線はここからまっすぐ,北に延びていました。戦後,国鉄が球場への観客輸送のため,東のほうへ線路を敷き直したようです。

終点は今は広い武蔵野中央公園になっています。スタジアム跡はなにもありませんけど,公園内の道路がそれらしき形をしています。

奥には巨大なビルが.....。

もと,逓信省の電気通信研究所で,通称,通研と呼ばれていたところです。あまりに大きくて 異様 偉容 なので,某国外交部やHuawei本社ビルを想起してしまいました.....#58944;#58944;#58944;


    偉容を誇るHuaweiじゃなかった,NTTの武蔵野研究センター

ここに技術史料館という博物館があり,木,金の13:00~17:00だけ,無料で公開されています。歴代の交換機の実物の他,マイクロ波通信設備の展示があって圧巻でした。電気の好きな人は一度,見学するとよいと思います。

 

 おぉ~~っと,これはMusasino-1じゃないですか!

1957年に電電公社の喜安善市が東大の後藤英一が発明したパラメトロンを使って完成させた,国内初のパラメトロンコンピュータです。5400個のパラメトロン素子と519本の真空管を使っています。のちに富士通がFACOM 201として商用化しています。日立のHIPAC 101もパラメトロンコンピュータです。

パラメトロンは動作速度が遅いのと,小型化できないのが問題で,スイッチング用ゲルマニウムTrが量産できるようになると廃れました。

昔は日本もこんなに頑張っていたんですね......。マジでこの会社も某国企業の傘下となる日も近いかと.....。

☆東京都水道局専用線

1924年3月開設の浄水場と連絡する専用線です。

そもそも浄水場に何で専用線がいるのか......。

ずっと疑問に思っていました。まさか,ミキ20で水を運ぶため,じゃないでしょうしね.....。

調べてみたら,浄水場は大量の砂を使用するため,その砂を運ぶため,のようです。

取水は狭山湖および多摩湖からで,すぐ横を流れている玉川上水じゃありません。また,1965年に淀橋浄水場が廃止されてからは小平の野火止用水との接続地点(小平監視所)以南では水源としては利用されておらず,ひと昔前は空堀状態だったようですが,今は東京都の清流復活事業で水が流れています。

淀橋浄水場廃止前は大量に水が流れていて,だから,太宰治が飛び込んで死ねたわけですね......#58944;

iruchanは最初に玉川上水を見たとき,これじゃ,死ねへんやろって思ってました.....(^^;)。

もちろん,ご存じ通り,今は淀橋浄水場の跡に高層ビル群が建っています。だから,なんとかカメラという電器屋さんもあるわけですね....。

 武蔵境駅付近

武蔵境駅の北口を出て,線路沿いに東に行ってコンビニの横にそれらしい斜めの道があります。一番▲の地図にある通り,このすぐ先に留置線があり,線路が3本あったようです。最大のものは有効長190mもあったようなので,20両くらいは停められたようです。留置線自体は東京都の所有のようです。右側の会社の部分が,留置線と専用線のあったところで,実はこの細い道は線路跡ではないようです。

 武蔵境駅線路図('71.3)

この線路図を見ると専用線部分は点線となり,社線扱いであることがわかります。とすると,この部分が国鉄の所有地,というのは変なのですが......。

もう,武蔵境駅の地平時代というのはほとんど記憶がありませんが,西武は3番線から出ていたのですね。

 1947年10月撮影

  米軍撮影空中写真(国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから)

戦後,米軍が撮影した写真です。留置線の位置がわかります。iruchanは,最初,途中の直線部分か,と思っていましたが,もっと南の中央線との接続部分に近いところでした。また,10両ほどの貨車が写っているのがわかります。中央線の電車はモハ63の6両編成ですね.....。中島飛行機の引き込み線もはっきり写っています。

それと,この留置線は戦前の写真には写っていないので,どうも戦時中に作ったようです。中島飛行機への資材搬入量が増え,設置したのかも。

 なんで国鉄?

専用線は東京都の財産だったはずなので,土地境界標は東京都のマークがついているはずですが,この付近にある境界標は国鉄マークが入っています。それに,線路跡を歩いているように思っていましたけど,実は線路跡はこのコンクリートの壁の奥側のようで,iruchanは線路の外を歩いている,と言うことになります。

 

      途中の公園のトリケラトプス君。

 右:中島飛行機専用線

   トリケラトプス君のお尻が写っています......#58942;

その留置線の先,この公園のあるあたりが中島飛行機の工場への引き込み線との分岐点だったようです。この公園が少し広くなっている以外はその痕跡は見られません。

 2002年撮影

Google Earthで同じ場所の過去の空中写真を見ることができます。都道12号の開通前の写真です。中島飛行機への引き込み線の痕跡がかすかに認められます。それにしても1本の道路のため,いかに多くの方が立ち退きをしなければならなかったかがよくわかります。

 玉川上水を渡る地点の橋台

草ボウボウできれいな写真が撮れませんが,草刈りしてあると明確に橋台があることがわかるそうです。

玉川上水を渡る地点は少し,道路が拡幅されていて,ベンチも置かれて休憩できるようになっています。すぐ近くに武蔵野市の史跡になっている大橋があります。1932年製の橋の親柱が保存されています。


境浄水場入り口。両側の門のコンクリートの台は専用線時代のものでしょう。後ろは玉川上水。廃線後,しばらくは橋が架かっていて,渡れたそうです。

浄水場内は2線あり,終端は1本になっていて機回しができるようになっていたようです。

この専用線が廃止されたのは1971年12月のことのようです。

貨車の運転は西武鉄道が請け負っていたようです。是政線に貨物も走っていましたので,こちらの輸送も請け負っていたのでしょう。もともと是政線は多摩川の砂利運搬用に建設されていますが,浄水場用への砂も運んでいたのかも。

もっとも,多摩川の砂利採取は1964年に禁止されているので,どこか別のところから武蔵境駅まで来て,入換をしてこの留置線に貨車を停めていたのではないかと思います。

それにしても,浄水場へはどんな貨車や機関車を使っていたのだろう.....。


※ この記事の写真は1950年代製のNikkor 35mm F2.5を使って撮影しました。今でもシャープな画が撮れます。