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JR中央線の廃線跡を訪ねて.....立川飛行機専用線跡 [紀行]

2022年4月30日の日記

先週に続いて,今日は国立駅に向かいます。そこから立川飛行機専用線を訪ねます。

立川は戦前,陸軍の立川飛行場と,隣接して立川飛行機の工場があった関係で,資材輸送や燃料輸送のため,専用線が引かれていました。

立川飛行機は石川島造船所(現IHI)が1924年に設立した石川島飛行機が前身で,赤トンボとしてよく知られた,九五式一型練習機が有名です。1930年に工場を月島から立川に移転し,1936年に立川飛行機と社名変更します。一時は中島飛行機の一式戦闘機・隼のOEMも手がけましたが,戦後,GHQから航空機産業が禁止された時期に技術者が独立して自動車に進出し,プリンス自動車となり,その後,日産に吸収されたのはよく知られています。一方,航空機生産も再開しますが,しばらくして撤退し,現在は不動産業が主力です。

線路の建設時期については,はっきり書かれた資料が見つかりませんが,立川に移転した1930年ごろではないか,と思っていたのですが.....。

立川は軍都と呼ばれただけあって,立川飛行場の他,立川飛行機や関連の軍事施設や工場がありましたので,米軍が集中的に爆撃しますが,偵察時に撮影した空中写真がたくさん残っています。

国土地理院のWEBでこういった写真を閲覧できますので,調べてみますと....。

驚いたことに,太平洋戦争初期の頃の空中写真には出てきません。

もちろん,戦前の米軍撮影の空中写真,というのはありませんので,確認できませんが,戦前には線路はなかったはずです。むしろ,宣戦布告されて大っぴらに領空侵犯して偵察飛行できた,というのは皮肉ですね.....。

B17-C1-27('42.12)s’.jpg 1942.12撮影。立飛線はありません。

1944年11月に撮影した写真には出てくるので,どうも戦時中,おそらく1943年か44年に建設されたようです。残念ながら,1943年の写真がないので,建設時期がはっきりしません。

一方,現在は陸上自衛隊東立川駐屯地になっている場所が戦前は帝国陸軍獣医資材廠(1941年7月開設)だったのですが,そこへの引き込み線も設けられていて,立川飛行機への専用線はそこから分岐して建設されています。獣医資材廠では馬の飼料が大量に必要なので専用線を敷設したのでしょう。

iruchanは先に立川飛行機専用線が建設され,後から獣医資材廠線が建設された,と思っていましたが,逆のようです。

戦後はご存じの通り,米軍立川基地となり,そこへの燃料輸送が継続されました。1977年11月に基地が全面返還されますが,燃料輸送も,それに先だって1968年には終了し,線路は1972年に廃止されているようです。

今も横田基地へは青梅線拝島駅から専用線が伸びていますが,立川も同じ光景が見られたでしょう。横田への燃料輸送は今はDE11ですが,立川のほうは牽引機はDD13のようですけど,占領中はDD12(占領軍形式8500)だったかもしれません。横田も昔はDD13でしょう。

廃線跡の路線図はかなり難しく,先ほどの米軍撮影の航空写真他を参照させていただきました。花子で航空写真とGoogleマップを重ねて,さらにその上のレイヤーに線路を描きました。さすがに,前回,1/25000の地図は当てにならない,と言うことに気がつきましたので.....。

立川飛行機廃線跡5.jpg 立川飛行機専用線路線図

それに,かなり基地内は線路の変遷が激しく,B線は戦後早くに撤去されていますし,一番長く,基地の一番南まで伸びていたC線も早いうちに撤去されています。━━━━が戦前の線路で,……は終戦後,建設された部分です。旧立川飛行機工場内はほとんど痕跡が残っていないので,推定です。

陸軍が建設した元の滑走路が短かかったため,戦後,米軍が東側に2000mの滑走路を建設します。▲の路線図を見ても,戦後,大きく基地が拡張されていることに驚きます。戦前の1/25000地図を見ると,立川飛行場が意外に小さいのに驚くのですが,戦後に大幅に拡張されたようです。

結局,これでも滑走路が足りず,横田基地を拡張して3350mの滑走路を建設して,1960年から順次,横田に移っていくことになります。

ちなみに現在の立川飛行場の滑走路は西側に新たに建設されたもので,900mの長さがありますが,航空機用としては短いので,現在はヘリコプター主体の基地となっているのはご存じのとおりです。旧滑走路は立川広域防災基地となり,先日ゴジラが蒲田に上陸し,暴れたときに巨大不明生物特設災害対策本部がここに移転してゴジラを退治したのはよく知られていますね.....(^^;)。

      ☆         ☆          ☆

国立駅北口でレンタサイクルを借りて出かけます。

すでに中央線は高架になってしまい,分岐地点はわからないだろうな.....と思っていたのですが....。

まだ三角状になった土地が残っていて,雑草防止のためか,ビニールシートがかけられていました。

立川飛行機専用線跡1.jpg 中央線との接続部分

反対の専用線側はすでに宅地になっていてアパートが建っていますが,長年,線路敷だったこともあり,土地の境界もそうなっているので,建物が斜めに建っていて,線路敷は駐車場になっています。

立川飛行機専用線跡2.jpg 反対側

なお,iruchanが持っている中央線線路図によれば,この専用線は本線から直接分岐していたわけではなく,立川駅東側にあった,立川貨物駅の上り1番線から出ていたことがわかります。

また,終戦直後のほんの短い期間ですが,専用線と中央線の間に2本,引き込み線が出ていたのが空中写真でわかりました。

立川s.jpg 中央線線路図(1971.3)
 
iruchanが最近入手した,1971年3月の線路図です。路線名も立川飛行機専用線となっています。
 
終点のキロ程は3.7kmと記載されています。現在,緑地帯として遊歩道が整備されているのは,旧砂川踏切までで,2.5km地点となります。 

北第一公園.jpg 国立市北第一公園

 この横断歩道部分から線路が奥へ行っていたようです。

しばらく行くと国立市の北第一公園があり,広場があり,ここから先,北緑地(国立市),西町緑地(国分寺市)栄緑地(立川市)となっていて,ずっと立川市内まで,快適な遊歩道が続いています。

前回の武蔵野競技場線と異なり,線路敷は一段高くなっていて,鉄柵もずっと続いていて,結構,遺構が残っています。コンクリート製の土留め壁もずっと続いていて,いかにも線路らしいです。お近くにお住いの高齢の女性に伺いましたが,50年ほど前まで,毎日,朝夕,1本ずつ貨物列車が走っていたとのこと。おそらく,夕方は返空でしょうね。どうも貴重なお話をありがとうございました。


立川飛行機専用線跡3.jpg

公園を出ると北緑地となり,そこはかつての獣医資材廠への分岐点ですが,残念ながら,その先は,つい最近まで線路まで残っていたらしいのですが,家が立ち並んでもはや跡形もありません。

立川飛行機専用線跡4(獣医資材廠分岐).jpg

 獣医資材廠への分岐部分。すこし柵が広がっていました。

Google Earthで過去の空中写真を見られますが,どうやら2012年ごろには宅地開発がされて,全く痕跡はなくなりました。かつては2面2線のホームまで残っていたそうです。

立川飛行機専用線分岐部分'02.7.jpg 昔は痕跡がありました(2002年)。

ここから先は閑静な住宅街が続きますが,時折畑や果樹園があり,東京とは思えないのどかなところです。

立川飛行機専用線跡5.jpg こんな鉄柵が残っています。

国分寺市内から立川市内に入ると住宅が建て込んできて,道路も頻繁に横切りますが,もとは踏切だったわけですので,両側にコンクリートの壁があったり,また,線路敷は1段,高くなっていることが多いので,横切る道路も斜めに傾斜したりしています。

ただ,細い道が多く,いずれ道路が改修されて,拡幅されたりすると景色が一変してしまうでしょう。特に立川市内は立飛跡地の再開発や多摩モノレールの開通で,発展著しいので,今後,どんどん変わっていくでしょう。

栄緑地の終点は芋窪街道との交差点です。ここから先は立川飛行機の後進の立飛企業が開発したところで,交差点の反対側に少し緑地が残っている以外はほとんど痕跡は残っていません。ただ,Google Earthを見ると,マクドナルドのすぐ南を線路が通り,つい最近まで,細い道が残り,両側に木が生えていて,少し痕跡が残っていたようですが,現在は駐車場に変わってしまいました。

米軍用地境界標.jpg 在日米軍? の用地境界標。
 
その先,今の都立砂川高校のあるあたりに留置線や分岐がありますが,戦時中は留置線までで,そこから先,飛行場へ伸びている部分は戦後の建設のようです。▲の線路図でいうと,B線とC線は戦後のようです。このうち,C線が米軍への燃料輸送線として活用されました。
 
やすらぎガーデン.jpg 基地内のホーム跡付近?
 
 奥は立川拘置所で,左は多摩モノレールの車両基地です。 
 
路線図を見るとずっと滑走路の終点近くまで線路が伸びていますが,かなり早い時期に線路が撤去され,おそらく,米軍が新滑走路を造り,燃料供給関係の設備を移設し,不要になったためだと思います。専用線は北側に2線並んでいて頭端式ホームがあるところまでになったようです。何のためにホームが必要だったのか,不明です。機関車の乗務員交代のためだけなら,長いホームは不要ですが,100mくらいはあったようです。また,iruchan所蔵の線路図は,このホーム以南の配線も載っていますが,とうに廃止になった後で存在していないはずです。
 
やすらぎガーデン1jpg.jpg やすらぎガーデン
 
米軍撮影の航空写真から判断して,この緑地がホーム部分だと思います。ホーム終端側から東を見た状況です。なぜかこの狭い土地だけだけ国有地で,右側にモノレール基地があります。ホームはこの後ろ側,拘置所の駐車場まで続いていたようです。
 
この先はまったく痕跡は残っていませんので,実質的にここが廃線跡の終点です[晴れ]
 
ホーム跡 '47.11, '05.4,  '21.11.jpg ホーム跡
  左から1947年11月,2005年4月,現在です。
 
2000年代初め頃まで,ホームの跡が残っていたようです。2009年に立川拘置所が開設し,道路も新設されて大きく変わりました。
 
off limit.jpg 多摩モノレールの車両基地にて。
 
立ち入り禁止なら,OFF LIMITSだろ,と思いました。単数形で書いてあるのは初めて見ました。
 
なお,英語で立ち入り禁止はNo entry, No enter, Do not enter, Stay outやNo trespassingが普通かと思います。
 
この点,日本ではなぜか,立ち入り禁止の意味でOFF LIMITSと書かれていることが多いんですが,この場合,英語ではその先は軍事施設を意味することが多いです。
 
ここなら,Restricted area(制限区域)か,Authorized personnel only(関係者以外立ち入り禁止)くらいがいいかもしれません。でも,これでも何か軍事施設を想起させますけど。
 
よく,外国人が日本を訪れて,いたるところにOFF LIMITSと書かれているので,日本にはこんなに軍事施設があるのかと驚く,という話を聞いたことがあります。新幹線なんかでもOFF LIMITSと書かれていることが多いです。
 
まあ,鉄道も軍事施設なのかもしれませんけど......。鉄ちゃんじゃない,普通のおじさん,おばさんを民間人とも言いますしね.....言わへんて
 
      ☆         ☆          ☆
 
周囲はモノレールも開通し,ららぽーと立飛は家族連れでにぎわっています。もはや誰もここが昔は戦闘機を作っていて,戦後もすぐ横の滑走路からは米軍機が朝鮮半島やインドシナ半島へ飛んで行き,街には米兵があふれていた,とは想像できない状況となりました。ららぽーとに来ている若い人にそんな話をしてもちんぷんかんぷん,というところなんではないでしょうか。まぁ,今どきの若い人に,「日本は昔,アメリカと戦争してたんだ」と話したら,スゴ~~~い!! なんて言われる時代ですからね......[雨][雨][雨]
 
旧滑走路跡.jpg 旧滑走路跡。
 
 右は2車線の道路,さらにその右は立川市役所,極地研究所などがあります。


2022年5月22日追記

立川飛行機専用線の建設時期がわかりました。

三田鶴吉著1987年けやき書房刊行,"立川飛行場物語"(下)の巻末に年表があり,1943年11月建設と記載がありました。

また,同氏の "立川飛行場史" (1976)にはDD13が写った写真が載っていました。

立飛企業川崎工場.jpg DD13です。

写真は背景に立飛企業川崎工場という看板が見えるので,今の立川市栄地区にあった同社の川崎工場と思われます。

ホームページをみると,川崎工場は1961年操業開始のようですから,▲の写真は1961年以降の撮影ですね。

説明をみると120両/日のタンク貨車が運転されていたようです。

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