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国鉄下河原線の廃線跡を行く [紀行]

2015年6月20日の日記

下河原線広場公園1.jpg

リストラ寸前のヒマなiruchanは 晴工 (晴れた日は鉄ちゃんをして,雨の日は工作をする)の生活を送っています。今日は晴れたのでどこかへ出かけようと思います.......(^^;)。 

さて,今日は国分寺駅まで電車に乗って,そこからレンタサイクルで旧国鉄の下河原線という貨物線の跡を訪ねます。途中まで旅客営業があり,終点は府中の東京競馬場前でした。

    「日本でいちばん長い駅名は?」

と言う質問に,

    「東京競馬場前!」

と答える人は相当なジジイだと言えると思います。 実は,私もその1人です......(^^;)。

だ~ってぇ~,その後にどんどんできた日本一長い駅名って年取って覚えられないのはもちろん,どこかの地方の第3セクターの鉄道が知名度向上のため命名したりするケースが多いし,それがまた競争のようになって次々に更新されて,毎年タイトルホルダーが変わる,と言う状況ではあきれて覚える気もしません。私も,やながわ何とかとか,長者ヶ浜何とかだとか,その辺くらいまでしか覚えていません。

そういう意味で,そんな競争が始まる前,ごく普通につけられていた駅名として一番長い東京競馬場前駅は今も私は日本で一番長い駅名だと思います。

この駅はもちろん,ガキの頃から鉄ちゃんだったので,本で読んで知っていました。一度,行ってみたいと思っていましたが,さすがに北陸からは遠く,こちらもガキんちょだったので一度も行くことがないまま,廃止になってしまい,残念に思っていました。

さて,今日はその下河原線跡を訪ねます。

下河原線路線図.jpg 下河原線(1944~1955).jpg

   現在    1944~1954年 

まずは路線図です。現在のGoogleマップ上に線を引いてみました。クリックすると拡大します。

古い方の地図は時系列地形図閲覧サイト今昔マップ on the web(C)谷 謙二により作成したものです。日本の古い地図を時系列で年代ごとに表示し,また,現在の状況をGoogleマップと並列して表示してくれるという驚くべきサイトです。ぜひご覧ください。

う~ん,でもこれらの古い地図,見ているととても不思議ですね~。年代ごとに路線が変わっていくのもわかります。最初は南武線も京王線もないけど,そのうち,京王電氣軌道が府中までできて南武鐵道も全通して....,と言う具合でおもしろいです。それにしても途中で分岐して府中刑務所に入っている引き込み線って,ひょっとして囚人護送のため? 

上の古い地図は同サイトの1944~1954年というレンジを選択して表示したものですが,東京急行電鐵京王線と書かれていることから1944~1948年の間の地図と思われます。 なお,戦時中の地図だと戦時改描といって軍用地が畑になっていたりするのであまり信用しちゃいけません。

とゆ~話は昔から知っていたのですが,改めてこの地図を見てびっくり。やっぱり ない のです。

府中刑務所と線路を挟んだ反対側にあるはずの東芝(当時は芝浦製作所)府中工場がありません。

同じ年代の立川市を見ると陸軍の立川飛行場は明らかに不自然な広大な空き地になっています。立川飛行場は第1次世界大戦後の1922年に開設され,この地図の前の年代だと飛行場とはっきり明記されていますから,▼の地図は戦時改描の一つであることは明らかです。まあ,昔の平時の地図にはそう書いてあったわけだし,そんな次第なので,アメリカさんもここに飛行場があることくらい,すでに知ってるだろうから,特に畑に偽装する必要もない,と言うことだったのかもしれません。

もっとも,地図作成に命をかけていた陸軍陸地測量部の部員,職人さんたちは自分たちが測量した地図を改変するのに忍びず,あえて偽装前の土地の境界は明確に残したり,周囲の畑や田んぼとは違う土地にして,はっきりと偽装したことがわかるよう改変した,という証言もあり,確かにこの立川飛行場は単なる空き地で誰が見ても変,とわかるので,そんな感じがします。 

芝浦製作所府中工場は1940年の操業開始なので,この地図が発行された頃には存在していたはずです。しかしながら,立川飛行場のように平和な時代に建設されて地図に記載されていたわけじゃないので,戦時下に電気機関車などを製造する軍需工場として,その場所を教えないよう,地図から抹殺されているのではないかと思います。 敵のみならず,一般市民をもスパイ扱いしていた時代の話です。ちょっとゾッとしました。

とこんなことを書いているiruchanは昔なら即,特高に引っ張って行かれますね......。

あ,今だと特定秘密保護法違反でやっぱり引っ張って行かれますね。アベのおかげで戦前に逆戻りだ。コワ~っ! 

立川飛行場(1944~1955)'.jpg 

     陸軍立川飛行場はどこ行った? 

平和な時代(かどうだかわかんなくなってきたけど)に生きる私は多摩川沿いにある線路も気になりますけど......。 

さて,今日は周囲はすっかり新しいビルばかりで廃線跡なんて一切ない,国分寺駅から一応,スタート。

本当は幅の広い中央線の線路敷に下河原線の線路が1本走っていて,そのレールもしばらく前まで残っていたらしいのですが,国分寺駅舎の建替に伴い,撤去されてしまったそうです。

線路は次の西国分寺の手前から緩やかに分岐していきます。この駅前も高層マンションが建ち,とても廃線跡なんて,と思うのですが,うまい具合に土地の境界があるせいで建物は境界に沿って建てるのでよく見るとそれなりに廃線跡らしい痕跡が見られます。

西国分寺駅前.jpg 

   かさ上げされて全然レベルは違うのですが....。

西国分寺駅からの分岐です。線路跡だと思いましたが,▼の地図を見ると実際の線路はもっと右で,この地下深くだと思います。右手が西国分寺駅です。左側は国鉄の中央学園がありました。そもそもここには武蔵野線が開業するまで国鉄の駅はありませんでした。

この道路の先,府中街道の泉町交差点の1個北側の交差点西側に線路に沿ってマンションが建っています。

マンション.jpg 斜めに線路が走っていました。  

線路跡は砂利の敷かれた空き地部分ではなく,マンション前の通路のようです。私有地ですからみだりに立ち入ってはいけません。 

東山道武蔵道解説地図.jpg 怪しげな点々が.....。

この泉町地区の再開発に伴い,東山道武蔵路の遺跡がみつかったため,案内の看板がありましたが,その地図がわかりやすいので載せておきます。

ここから北府中駅までは線路は武蔵野線の南行線が使っているので,何も痕跡はありません。

北府中駅南3.jpg 

     中央は武蔵野線,左が下河原線跡

北府中駅はもとは下河原線の駅で,やはり東芝の従業員向けに設置された駅のようです。1934年,富士見仮信号場として開業し,のちに乗降場へ格上げされています。信号場なので交換ができるようになっていますが,iruchanがもっている1971年の線路図を見ると,ホームは片側だけで,旅客列車がここで交換することはなかったように思います。

下河原線線路図 '71.3s.jpg 下河原線線路図(1971) 

北府中駅の南側に行くと,このような痕跡がありました。まくらぎが置いてあったりして資材置き場として活用されているようです。

北府中駅南2.jpg 

   ピンクの建物と草の生えているところが線路跡です。

その道路の1本南から見たところです。ピンクの建物は福祉施設です。すぐ横を道がありますが,廃線跡はその道ではなく,この建物そのものです。

この道路の南側からスタートです。レールを一部残して駅みたいな公園がありました。屋根付きの休憩所もあり,市民の憩いの場となっているようです。 

下河原線広場公園公園.jpg 下河原線広場公園

レールやまくらぎも残っています。 これらがオリジナルの下河原線のものかどうか,わかりません。右側に駅舎を模した屋根付きの休憩場所が設けられていました。

下河原線広場公園2.jpg  

ここからは廃線後に下河原緑道として府中市が整備したもので,多くの市民の皆さんが散歩したりジョギングしたりしています。

京王線交差.jpg 京王線交差地点

なんかへろへろ~っと道が続いているのがいい感じですね~。

東京競馬場前分岐.jpg 

  東京競馬場前への線路の分岐地点。左側が東京競馬場前。

線路自体は貨物線で,多摩川の砂利運搬のために作られたものですが,途中から東側に分岐し,東京競馬場への支線がのびていました。競馬に行く人が利用したんですね。▲の写真で言うと,左側に分岐します。

東京競馬場前.jpg 東京競馬場前駅跡

とうとうあれから40年たって,ようやくやってきました。ここが東京競馬場前駅です!! しばし,感慨にふけります.....。

1面2線のホームがあり,1973年3月31日で廃止になっています。 平日はクモハ40の単行が走り,競馬開催日などは101系5両編成が走っていました。多客期には東京駅からも臨時が出たようです。一度,乗ってみたかったな~。

駅前? (▲の写真の左側)は矢崎町防災公園となっていて,広いグランドと木陰がありました。せめてレプリカでいいので駅名標でも建っていればいい記念写真が撮れるのに,と思いました。

電車ごっこ碑.jpg 電車ごっこの碑

細長い線路敷はレールも残っていたりして,周辺の子供たちにとって,格好の遊び場だったでしょう。でも,この子供たちはもういいおじさんだな.....。

さて,もとの分岐点に戻って南に向かいます。

南武線交差地点.jpg 南武線をまたぎます。

圧巻は南武線との交差地点でしょう。線路らしく,緩やかに坂を登っていきます。

南武線交差地点1.jpg まもなく消える205系です。

跨線橋の上からはこんな写真が撮れます。直前にE233系が走っていきましたが,やはり205系を載せておきます。

南武線交差地点2.jpg 南武線を越えて......。 

ここから先,鉄道遺跡としてはめぼしいものはありませんが,のどかな畑の中を木立に囲まれてひんやりとした空気の中を散歩するととてもいい気分になれます。 

終点.jpg 

       終点です。ここも公園になっています。

終点は貨物駅になっていました。この公園はその跡でしょう。さらに手前側に分岐して多摩川の河川敷にいく線路がありました。この道の先に京王・中川原駅があります。ここで降りて,北府中まで歩いてもよいかと思います。

あじさい.jpg ガクアジサイがきれいでした。

1910年に多摩川の砂利運送のため東京砂利鐵道として建設された下河原線は1910年には国有化され,1933年には競馬客輸送のため東京競馬場前駅が開業しますが,1973年の武蔵野線の開業に伴い,重複する路線のため廃止となりました。貨物線自体はまだその後もしばらく残っていたのですが,実際に使われていたのかどうか.....。多摩川の砂利採取は1964年に禁止されていますから,これ以後は列車が走らなかったのではないでしょうか。1976年には完全に廃止となりました。一度,東京競馬場前に行ってみたいと思っていましたが,あれから40年も経っています....。 


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