SSブログ

JR中央線の廃線跡を訪ねて.....武蔵野競技場線,東京都水道局専用線跡 [紀行]

2022年4月23日の日記

三鷹周辺廃線跡路線図3.jpg クリックすると拡大します

   ━━が戦前の路線で,━━が戦後の路線です。

iruchanはむかし,多摩地区に住んでいたことがあり,多少,この辺りは知っています。久しぶりにこの前,上京したので,近くの廃線跡を訪ねます。以前,下河原線を紹介していますが,今日は三鷹から出ていた,武蔵野競技場線と,武蔵境から出ていた,東京都水道局の専用線を訪ねました。

どちらもよく知られていますね。iruchanも後者はよく知っていて,いつか行きたい,と思っていました。

なお,戦後は始発駅が変わってしまっていますが,戦前の建設時はどちらも武蔵境が始発駅です。ちなみに武蔵境駅は建設当時は境という名前の駅ですが,1919年に武蔵境と改称しています。

☆武蔵野競技場線

もとは1938年から終戦の45年まで稼働していた中島飛行機武蔵製作所への資材搬入のための専用線です。ここで中島飛行機は航空機用の原動機を作っていました。途中まで,先にできていた東京市の境浄水場用引き込み線を利用し,そこから先を建設しました。

1950年5月に廃線となったのを利用し,国鉄が武蔵野グリーンパーク野球場への観客輸送を目的として,翌年4月14日に武蔵野競技場線として開業しています。国鉄は前年に,国鉄スワローズを設立した経緯もあり,将来的に本拠地とする目的があったようです。

なお,グリーンパークという名前は戦後,米軍がこの辺りを接収し,命名した名前に由来します。まあ,代々木公園がワシントンハイツとなっていたのと同じですね。戦前は徹底的に敵性語として英語を排除したのに,戦後は今になってもその名前を使い続けている,なんて,ちょっと呆れます。日本人のよく言えば柔軟性,適応性というか,まあ,逆に言えば,なんというか,権力のある者にはひれ伏す,という民族性が,確かにありますね......。水戸黄門を笑って見ていちゃいけない,って思います。マッカーサー=水戸黄門,なんじゃないんでしょうか......。

しかし,翌年,連合軍に接収されていた,神宮球場が接収解除となると,都心のほうが利便性が高いので,結局,放棄され,1シーズンのみ使用されただけです。武蔵野競技場線も営業列車が運転されたのは1年だけで,1959年11月には廃止されました。野球場も1956年には閉鎖されています。

全線電化3.2kmで,国鉄が営業開始する前に電化工事のほか,そもそも路線が武蔵境発だったのを三鷹発に路線変更したり,終点部分ももとは工場への引き込み線だったのを路線変更し,球場前に移動するなど,結構大工事をしています。

どんな電車が走っていたのだろう......って思いますが,ネットを検索しても実際に電車が走っている写真が出てきませんが "鉄道廃線跡を歩くⅠ" (JTBキャンブックス)にボールの絵が描かれた行き先表示板のついたモハ63の先頭部のアップの写真がありましたので,モハ63のようです。

元の分岐が武蔵境だったのは,まだ三鷹駅がなかったから,だと思います。同駅の開設は1930年です。国鉄の建設規定で,駅(停車場)以外で線路を分岐してはならない,とあるので,本線上で勝手に分岐はできません。ある意味,日本の鉄道が結構,いろんなところで遠回りしているのもこの規定が原因か,と思います。

iruchanは,もし,今もヤクルトスワローズの本拠地だったら.....なんて思います。西武球場のほうがはるかに遠いわけですし,決して立地は悪くありません。周辺は人口も多く,朝夕なんか,209系あたりを4両で走らせていれば結構,儲かるんじゃないか,なんて思います。試合開催日は直接,E233系を乗り入れればよいと思いました。

ところで,西武も是政線(現多摩川線)を延伸して新宿線・東伏見で接続する計画があり,球場前に駅を設けるつもりだったようです。西武ドームはひょっとして所沢じゃなくて武蔵野だったかも.....。

また,西の方は多摩ニュータウンの建設にあわせ,小田急や京王ばかりではなく西武も途中の北多磨(現白糸台)駅で分岐して,多摩センターまで延伸する計画がありました。このときは国鉄が武蔵境駅の混雑を懸念したため,頓挫したようです。

     ☆          ☆          ☆

さて,散策してみます。

三鷹駅北口を出て,と言いたいところですが,南口に出ます。

なんでか,というと.......。

太宰治がよく散歩に来ていた,という跨線橋があるから,です。ここを渡ってから北口に出ましょう。

三鷹跨線橋1.jpg 三鷹跨線橋

1929年,鐵道省が三鷹電車庫を開設した際,南北の交通を確保するため設置した跨線橋です。作家の太宰治が愛したことでも有名で,この写真の右下にパネルが設置してあります。

別に太宰治じゃなくても,ここに昇ると電車がひっきりなしに通って楽しいところですし,鉄道に興味ない人でも,周囲が一望できて景色も素晴らしいです。iruchanが近くに住んでいたら毎日散歩しに来るよな.....。なにより子供たちが大喜びで,土,日はかなり賑わいます。ママ鉄の皆さんもいらっしゃいます。

残念ながら,JR東日本が撤去を決め,市に無償譲渡を提案したのですが,補修費がバカにならないのであきらめた,と言うことになっています。おまけに耐震強度が不足しているので,その補強費は数十億円とのこと[雨][雨]

う~~ん,なんだかなぁ~~って感じですね。耐震補強なんて,最近はわざと古いマンションとかビルの建て替えの口実に使われているんじゃない,って思っています。

この前の東北地方の地震でも明らかですが,架線柱など,弱いものです。震度7に耐えるような架線柱は存在しません。それどころか高架橋ですら阪神高速でもそうでしたけど,もたないわけなので,耐震補強なんてムダ,と思います。とんでもなく頑丈で,高価な構造物となってしまうのは明らかです。むしろ,ある程度,壊れることは前提にした構造物とするくらいの割り切りが必要では,と思います。もちろん,人命は最優先ですので,壊れても人命が保たれればよい,と言う設計ができるはずですので,コストも考慮した構造物,と言うのはあり得ると思います。構造物の寿命の方が巨大地震よりはるかに短いわけで,地震で壊れる前に建て替えになることの方が多い訳ですから.....。

正直,何でこういう古くてみんなから愛されているものを取り壊すのか.....。きちんと補修し,あとの時代に貴重な歴史遺産として保存するのが我々の役目,という気がします。

三鷹跨線橋2.jpg ボロボロです。

もう,JR東は取り壊すことが決まっているから....ということなのか,塗装も直さず,ボロボロです。もっとも,もう,取り壊すお金もないから,ということで当面,このまま使用されるようです....orz。

三鷹跨線橋3.jpg 

  別に太宰治じゃなくても,楽しいところです。奥が三鷹駅です。

一番左は保守基地へ行く線路ですが,ひょっとしてこの分岐が競技場線への分岐だったかもしれません。ただ,1969年に三鷹まで複々線化しているので,この線路が旧本線と同じ位置なら確かにそうかもしれないと言えるとは思いますが......。

複々線化時に,旧本線のどちら側に線路を増設したのでしょうか。たぶん,南側が旧本線で,こちらは増設した方ですよね.....。

それより何より,中央線を複々線化するときに安易に線路別配線にしちゃったのは残念。関西みたいに方向別配線にしてくれていれば,もっと便利なのに,と思うのはiruchanだけでしょうか。御茶ノ水出た途端に線路くぐって元に戻っちゃうのは残念[雨][雨][雨]

跨線橋の反対側はこんな景色です。


三鷹跨線橋5.jpg

 競技場線はこの保守用車置き場の先から伸びていたようです。

線路はもちろん撤去されていて,線路沿いに道路ができているため,しばらくは廃線跡が消えてしまっています。

ということですが,堀合(ほりあわい)児童公園というのができていて,そこから先,線路沿いに遊歩道が作られ,桜も植えてあるので,春はとてもきれいなところでしょう。残念ながらiruchanが行ったときにはほとんど散っていました......[雨]

堀合児童公園.jpg 堀合児童公園

ただ,当時の1/25000の地図にある線路と,Googleマップに出てくるこの公園の位置が少しずれていることに気がつきました。どうも線路はもう少し北側を走っていたように見えます。

おそらく,この公園を作る頃にはすでに線路跡が民有地になっていて,開発されていたのでこの公園と遊歩道は少し南に作った,と言うことではないか,という気がしたのですが.....。

と考えるとどう見ても今のぎんなん橋の位置がおかしいです。橋台は巨大なコンクリートの構造物ですし,都道の整備で動かした,なんてことは考えられませんしね。中央線との接続部も妙にカーブがきついし,どうも今のGoogleの地図の方が正しい感じです。ひょっとして1/25000の地図が間違っているのかも.....。

ぎんなん橋付近比較'.jpg う~~ん???

    当時の1/25000の地図と重ねてみました。

土地以外の鉄道の遺構はあまり残っていません。国鉄の用地境界標は,と思ってもあまり見つかりませんでした。とはいえ,線路境界に設けられている,鉄製の柵などはところどころで今も用地の境界として利用されているようです。

ぎんなん橋.jpg ぎんなん橋

レールが敷かれていますが,橋桁はもちろん,もとの線路ではありません。モニュメント的に設置されたものです。橋台がもとの設備ですが,草ボウボウできれいな写真は撮れませんでした。

ぎんなん橋1.jpg 案内板

橋桁撤去後はこんな感じで橋台が見えていたようです。2011年,都道12号(新武蔵境通り)の整備に伴い,歩道の橋として活用するため,この橋台を利用してぎんなん橋が架けられました。

武蔵野競技場線柵1.jpg 

 わずかですが,柵が残っています。このほかでも見かけました。

ほかにも,国鉄の土地境界標が残っていますが,水道栓の表示と紛らわしく,また,表面が風化していて,それらしきものはたくさんあるのですが,ブログに掲載するのはやめておきます。

途中のグリーンパーク緑地(関前)という開けたところはブランコや滑り台の遊具が置かれ,家族連れの格好の遊び場になっていますが......。

関前高射砲陣地跡碑.jpg かういふ看板がありました。

あとで調べてみると,帝国陸軍の八八式7センチ野戦高射砲6門が設置されていたさうです。75ミリ砲弾を発射して最大射高9,100m,有効射高7,000mほどだつたやうです。残念ながら,これぢや,B29には届きません。皇紀2588年といふと1928年制定といふ訳ですから,やはり第2次世界大戦用としては古すぎると思ひます。

B29に対抗するには標定用のヴュルツブルグレーダーを装備した五式15センチ高射砲(最大射高19,000m)を待たないといけませんが,実戦配備できたのは2門だけと言う状況では,国土が焦土に化すのは免れませんでした。

関前高射砲陣地跡.jpg 平和な光景です。

こんなところに高射砲が配備されていたとはとても信じられません。いつまでもこの光景が続くことを祈ります。

引き込み線分岐点.jpg 分岐点

戦前,中島飛行機の引き込み線はここからまっすぐ,北に延びていました。戦後,国鉄が球場への観客輸送のため,東のほうへ線路を敷き直したようです。

終点は今は広い武蔵野中央公園になっています。スタジアム跡はなにもありませんけど,公園内の道路がそれらしき形をしています。

奥には巨大なビルが.....。

もと,逓信省の電気通信研究所で,通称,通研と呼ばれていたところです。あまりに大きくて 異様 偉容 なので,某国外交部やHuawei本社ビルを想起してしまいました.....[雨][雨][雨]

NTT武蔵野研究開発センタ.jpg

    偉容を誇るHuaweiじゃなかった,NTTの武蔵野研究センター

ここに技術史料館という博物館があり,木,金の13:00~17:00だけ,無料で公開されています。歴代の交換機の実物の他,マイクロ波通信設備の展示があって圧巻でした。電気の好きな人は一度,見学するとよいと思います。

musasino-1.jpg 

 おぉ~~っと,これはMusasino-1じゃないですか!

1957年に電電公社の喜安善市が東大の後藤英一が発明したパラメトロンを使って完成させた,国内初のパラメトロンコンピュータです。5400個のパラメトロン素子と519本の真空管を使っています。のちに富士通がFACOM 201として商用化しています。日立のHIPAC 101もパラメトロンコンピュータです。

パラメトロンは動作速度が遅いのと,小型化できないのが問題で,スイッチング用ゲルマニウムTrが量産できるようになると廃れました。

昔は日本もこんなに頑張っていたんですね......。マジでこの会社も某国企業の傘下となる日も近いかと.....。

☆東京都水道局専用線

1924年3月開設の浄水場と連絡する専用線です。

そもそも浄水場に何で専用線がいるのか......。

ずっと疑問に思っていました。まさか,ミキ20で水を運ぶため,じゃないでしょうしね.....。

調べてみたら,浄水場は大量の砂を使用するため,その砂を運ぶため,のようです。

取水は狭山湖および多摩湖からで,すぐ横を流れている玉川上水じゃありません。また,1965年に淀橋浄水場が廃止されてからは小平の野火止用水との接続地点(小平監視所)以南では水源としては利用されておらず,ひと昔前は空堀状態だったようですが,今は東京都の清流復活事業で水が流れています。

淀橋浄水場廃止前は大量に水が流れていて,だから,太宰治が飛び込んで死ねたわけですね......[雨]

iruchanは最初に玉川上水を見たとき,これじゃ,死ねへんやろって思ってました.....(^^;)。

もちろん,ご存じ通り,今は淀橋浄水場の跡に高層ビル群が建っています。だから,なんとかカメラという電器屋さんもあるわけですね....。

東京都水道局専用線1.jpg 武蔵境駅付近

武蔵境駅の北口を出て,線路沿いに東に行ってコンビニの横にそれらしい斜めの道があります。一番▲の地図にある通り,このすぐ先に留置線があり,線路が3本あったようです。最大のものは有効長190mもあったようなので,20両くらいは停められたようです。留置線自体は東京都の所有のようです。右側の会社の部分が,留置線と専用線のあったところで,実はこの細い道は線路跡ではないようです。

武蔵境.jpg 武蔵境駅線路図('71.3)

この線路図を見ると専用線部分は点線となり,社線扱いであることがわかります。とすると,この部分が国鉄の所有地,というのは変なのですが......。

もう,武蔵境駅の地平時代というのはほとんど記憶がありませんが,西武は3番線から出ていたのですね。

USA-R360-101('47.10.24)s'.jpg 1947年10月撮影

  米軍撮影空中写真(国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから)

戦後,米軍が撮影した写真です。留置線の位置がわかります。iruchanは,最初,途中の直線部分か,と思っていましたが,もっと南の中央線との接続部分に近いところでした。また,10両ほどの貨車が写っているのがわかります。中央線の電車はモハ63の6両編成ですね.....。中島飛行機の引き込み線もはっきり写っています。

それと,この留置線は戦前の写真には写っていないので,どうも戦時中に作ったようです。中島飛行機への資材搬入量が増え,設置したのかも。

東京都水道局専用線土地境界標.jpg なんで国鉄?

専用線は東京都の財産だったはずなので,土地境界標は東京都のマークがついているはずですが,この付近にある境界標は国鉄マークが入っています。それに,線路跡を歩いているように思っていましたけど,実は線路跡はこのコンクリートの壁の奥側のようで,iruchanは線路の外を歩いている,と言うことになります。

トリケラトプス.jpg 

      途中の公園のトリケラトプス君。

水道局専用線,中島飛行機引込線分岐点.jpg 右:中島飛行機専用線

   トリケラトプス君のお尻が写っています......[晴れ]

その留置線の先,この公園のあるあたりが中島飛行機の工場への引き込み線との分岐点だったようです。この公園が少し広くなっている以外はその痕跡は見られません。

武蔵境'02.7s.jpg 2002年撮影

Google Earthで同じ場所の過去の空中写真を見ることができます。都道12号の開通前の写真です。中島飛行機への引き込み線の痕跡がかすかに認められます。それにしても1本の道路のため,いかに多くの方が立ち退きをしなければならなかったかがよくわかります。

水道局専用線玉川上水.jpg 玉川上水を渡る地点の橋台

草ボウボウできれいな写真が撮れませんが,草刈りしてあると明確に橋台があることがわかるそうです。

玉川上水を渡る地点は少し,道路が拡幅されていて,ベンチも置かれて休憩できるようになっています。すぐ近くに武蔵野市の史跡になっている大橋があります。1932年製の橋の親柱が保存されています。

境浄水場入り口.jpg

境浄水場入り口。両側の門のコンクリートの台は専用線時代のものでしょう。後ろは玉川上水。廃線後,しばらくは橋が架かっていて,渡れたそうです。

浄水場内は2線あり,終端は1本になっていて機回しができるようになっていたようです。

この専用線が廃止されたのは1971年12月のことのようです。

貨車の運転は西武鉄道が請け負っていたようです。是政線に貨物も走っていましたので,こちらの輸送も請け負っていたのでしょう。もともと是政線は多摩川の砂利運搬用に建設されていますが,浄水場用への砂も運んでいたのかも。

もっとも,多摩川の砂利採取は1964年に禁止されているので,どこか別のところから武蔵境駅まで来て,入換をしてこの留置線に貨車を停めていたのではないかと思います。

それにしても,浄水場へはどんな貨車や機関車を使っていたのだろう.....。


※ この記事の写真は1950年代製のNikkor 35mm F2.5を使って撮影しました。今でもシャープな画が撮れます。


nice!(6)  コメント(0) 

ALTEC 405Aが届きました [オーディオ]

2022年4月16日の日記

altec 405A-1.jpg ALTEC 405A

ALTECのスピーカーが昔から好きでした。いつか,604-8Gを買って鳴らしてみたい.....って思っていました。

真空管アンプの時代,出力がそれほど大きくないので,このような高能率のスピーカーが愛用されていました。

38cmという大口径のSPの中央に同軸のホーントウィータを備え,フルレンジ的な使い方ができましたし,なにより103dB/w/mと言う高能率は驚き。ホーントウィータと揃える意味もあったでしょうけど,コーン型スピーカーとしては異例の高能率でした。

604のシリーズは古く,最初の604Aは1945年の発売のようです。終戦の年にこんなスピーカーを発売するのですから驚きます。マグネットは当時ですから当然ですけどアルニコ5を使っていますが,最後までアルニコのようです。ちなみに8Gだと1975年発売のようです。

残念ながら,3年後の8H以降はマルチセルラーホーンをやめてしまい,マンタレーホーンと呼ばれる普通のホーンになっちゃたのが残念です。

ライバルのJBLはこういう同軸スピーカーを出していませんし,フルレンジとしてはLE-8Tくらいだったのとくらべると異色ですが,なにより真空管時代には最高峰のスピーカーのひとつで,マニアの憧れだったと思います。

と言う次第で,iruchanもいずれは604を.....なんて考えていたのですが,さすがに,もう今からこういう大きなSPを使う元気はありません。

と思っていたのですけど,より小さな 全然違うやないか 405Aはいつか手に入れたい,と思っていました。パンケーキと呼ばれる6インチ半の755Eなんかも欲しかったのですけれど.....これはもう手が届かないほど高くなっていますね。パンケーキはレンズもとても好きなんですけどね。

405は4インチ径で,日本で言えば,10cmですね。604とは大きな違いです。

でも,Altecの音がするし,何よりこのフルレンジはボーカルにぴったり,と言われていて,ジャズボーカルなんかを聴くと最高の音がする,と言われています。iruchanも300B持っているので,300Bシングルで405Aを鳴らしてジャズ聴くと最高......という気がします。

実際,You Tubeなどでエア録音? した音を聴くとまさに絶品,と言う感じですね......[晴れ]

まあボーカル用,と言うのはそもそも405Aの設計条件が空港やホールなどのパブリックアドレス(PA)用なのですから,当然でしょう。

そういえば,新幹線など,電車のスピーカーも大体,10cmくらいのフルレンジが使われていて,このサイズのスピーカの主要な用途はそのようなものでしょう。新幹線のスピーカを1個,持っていますが,どう見てもFE-103です。

とはいえ,iruchanは新幹線の音が我慢ならないんですけど......。

確か,金田明彦氏も同様のことを何度もMJ誌で書かれていた,と思います。"耳を破壊する" って書かれていた,と思いますけど,まったく同感です。

なんで正直,あれだけひずんでいて,特に高域,低域ともにまったく出ないひどい音なんでしょう。アンプもひどいんだと思いますけど,いくら,人の声が明瞭に聞こえる,と言うのが最大の目的としても,新幹線や電車にはもっとHiFiなスピーカを使うよう,要望します。

ちょっと脱線しちゃいました.....(^^;)。

その点,このALTEC 405AはPA用としても最適で,非常によい音がする,と思います。やはりこの点,日米の力の差,なんでしょうか。

驚いたことに,Western Electricに源流を持つ,604755と異なり,古いユニットか,と思ったら1968年の発売で,マグネットはBa-フェライト系のIndox Vマグネットを使っています。米Indiana Steel Productsの製品のようです。フェライト磁石なので,外磁型となっています。

ちょっとその点,残念なんですけど,能率は93dB/w/mと高いのはマグネットの磁束が大きいからで,その分,普通の10cmスピーカーにくらべてマグネットが大きいので,バックロードホーンなどの場合,スピーカー背面のスペースに注意が必要です。パイオニアのPE-101やFOSTEXのFE-103用のキャビだと要注意です。

高能率なのは驚きで,裸で鳴らしてもCORALの4A-70が負けちゃうくらいでした....。4A-70は90dB/w/mなので,音量は半分です。

Indox Vマグネットは音がよかったようで,ALTECは409B411Cでも使用しているようです。

残念ながら,後で書きますけど,ALTECの経営が代わって405-8Hからデザインも大きく変わり,フレームは丸形に変わりますし,エッジもウレタンエッジに変わります。ウレタンエッジはすぐにボロボロになっちゃうので困ったものです。おまけに,センターコーンまで,アルミ製だったのがコーン紙に変わり,ちょっと残念に思います。

ALTECは1927年にWE在籍のエンジニアが設立した名門で,1941年にはLansing社を買収してAltec Lansingとなったのですが,LansingはJBLの創始者ですね。

ところが,1958年には買収されLTV社となりますが,1974年,連邦破産法11条を申請し,破産します。日本で言えば民事再生法ですね。その後,10年間,ALTEC社として再活動しますが,1984年に再び破産し,Gulton Industoriesに買収され,先に書いたように,同社のElectro-Voiceブランドとなりました。この間,GultonはMark IV社にすぐに買収されています。

1986年には,カーオーディオ専業のSparkomatic社がALTECブランドの使用許諾を得て,1992年にはAltec Lansing Technologiesとして社名変更します。

2002年からわずか3年間のことでしたけど,Mark IV社から代わったTelex Communicationsから業務用スピーカー部門が独立し,ALTECブランドが復活しましたが,2005年にはPlantronics社に1億6,600万ドルで買収され,携帯音楽用SPを作っていました。

2011年からはProphet Equity,さらに2012年10月にオークションで1,750万ドルでInfinity Lifestyle Brandsが買収しました。

なんか,1桁違うのが気になるのですが.....。それだけ,企業価値が毀損した,ということなのでしょうか。それに,こいつら,なに? って思ったのですけど,どうもどちらもファンドのようです。またいずれ,どこかへ売却,ということになるでしょう......[雨]

もう.....ややこしい......[雨][雨][雨]

それに,今,amazonでALTECと検索してもPC用のSPとか,ヘッドホンとかしか出てこないので,もはやHiFi用スピーカーやそのユニットの販売はしていないようです[雨]

そういう状況のせいか,405のシリーズも後になるとエレボイ製の405-8H以降,廉価版205-8AというものやAltec Lansing TechnologiesのCF-404-8ACF-204-8Aがありますが,この会社の性格から考えて,カーオーディオ用という感じです。いずれも405の流れをくむものですが,商標権の関係か,405とは名乗っていません。

iruchan的には,よく知っているのは405-8Hから,なんですけど,なんでも古い方が好きなので,405Aを探していました。とはいえ,もうALTECはSPユニットは製造・販売していないようなので,これらのユニットはとても貴重だと思います。

2月にeBayでペア$200で出ていたので,これでも安い,とは思ったのですが,最近,eBayはWatchlistに登録するとsellerからofferが来て,値下げしてくれることが多いので,そうして待っていたら,翌日,$175のofferが来て,即落札。送料で$60も取られましたけど,まあ,いい買い物だったんじゃあ,ないでしょうか。

とてもきれいな状態のもので,シリアル番号も4違うだけで,ほぼ同じでした。

売り手は驚いたことにドイツ人でしたけど,発送はSalt Lake cityからでした。米国に店を持っているのでしょう。

altec 405A.jpg 黒ラベルです。

一番古いものはラベルが緑色で,DIACONEと書かれているもののようですが,iruchanのはシリアル番号は#40000番台でした。比較的,新しい方のようです。

コーン紙の周りのビスコースが1個所,少し垂れていて,汚れていましたが,ホワイトガソリンできれいに拭き取れました。

ということはこれらのユニットは天井SPじゃなく,ちゃんと立てて使われていた,と思われます。

テストをかねて,裸のまま,松たか子さんの "Let it go~ありのままで~" を聴いたらもう絶品でした.....[晴れ]

さて,キャビネットはどうしようか......。

まずはバックロードですけど,普通の10cmフルレンジ用バックロードは高さ600mmくらいのものが多く,できれば,サブロクの板の横を使って910mm位の高さにしたいところです。

ただ,長岡鉄男氏の過去の記事を見ても,あまり10cmのバックロード,と言うのはないですね....。それに,普通のSPでいえば,側面にユニットをつけたタイプが多く,壁掛形のようです。

普通の? バックロードタイプだとD-10くらいでしょうか。

有名なのはスーパースワンですけど,さすがにちょっとこれは場所も取るし,なによりSP部が小さく,バッフル効果があまりなく,なにか不合理な気もして作る気がしません.....。

長岡氏の10cmバックロードはSPユニットを幅広の面に取りつけ,バックロード開口面を縦長の側面にした,壁掛け用のものが多く,通常のバックロードのものは見つかりません。

と言う次第で,ネッシー 出た~~ か......という気もしています。


nice!(6)  コメント(0) 

胎内記憶について

2022年4月3日の日記

P1270833s.jpg 

ようやく桜が咲きました。4月2日撮影。レンズは60年前のNikkor 35mm F2.5です。

昨日までの予報が一転し,予報では今日は[晴れ]だったのに,夜明け前から[雨]。昨日の予報と全然違うのに驚きました。2つ高気圧が並んでいて,今日は気圧の谷に入るのに,雨の予測をどこかで間違ったようです。

冷たい[雨]が降る中,娘は巣立っていきました。

自分の生まれ育った地元・北陸の大学には落ち[雨],遠く離れた大学に行きました[晴れ]

親としてはやれやれ,と言う感じと,何かしらやはり寂しさを感じます。iruchanも20年ほど前,親元を離れて1人暮らしを始めましたけど,親たちはこんな風に思っていたのか.....と思いました。

さて,娘のことですけど,あれから18年も経つのか,という気がします。

初めての子で,結婚してから4年,子供ができなかったので,生まれたときはうれしかった.....と書きたいのはやまやまですが,正直,とても不安でした。この子をどうやって育てればいいのか,自分を親と思ってくれるのか,将来,非行に走ったりしないか....とか,そんなことが頭をよぎりました。

まあ,それなりに娘はいい子で,ちゃんとiruchanを父親だと思ってくれていますし,彼女なりに尊敬もしてくれているようです。

と言う次第ですけど,生まれたときはiruchanも産科の病院で嫁はんの出産に立ち会ったので,やはり女性は偉大だな,と思いましたし,なによりそれこそ血まみれで生まれてくる我が子を見てびっくりしたのは事実で,不安に思ったのも無理ないのかもしれません。

赤ん坊は正常分娩なら,母親の背中を向いて生まれてきて,最初のうちは狭い産道をくぐり抜けるため,頭蓋骨が折りたたまれて小さくなり,頭が三角になっていて,それが出たり入ったりする,と言うのは聞いていましたけど,実際にその様子を見ると驚くというより,正直,怖かったです。それに,首が完全に出ると今度はクルッと90゜回転して横を向く,なんて実際にそうだったわけですけど,後から本を読んで知ってビックリ,と言う次第でした。おまけに目はつむったまま,また,首が圧迫されるからか,チアノーゼみたいになってどす黒い顔をしているのにもビックリでした。

思わず,「先生,大丈夫ですか?」なんて聞こうとしたくらいですから,今思い出しても,やはり不安になるのも無理はない,と思います。

さすがに嫁はんのお世話になった産科の先生は地域の名医として有名な先生で,平然としておられるので,大丈夫,とは思いましたけど.....。

さて,今日はその娘に聞いた胎内記憶の話です。

以前からiruchanは興味があって,知りたい,と思っていました。

ところが,どうも残念ながら,人間の記憶というものは4,5歳になると一度,どういうわけかリセットされるらしく,もちろんiruchanも自分が生まれた前後のことなんか,まったく記憶していません。一番古い記憶は幼稚園でお漏らしした,ことです.....[雨][雨]

でも,4,5歳で消える,ということは3歳なら記憶があるはず,ですね。それに,最初は,あ~~,とか,う~~~,とか喃語をしゃべっている赤ん坊も,3歳くらいになると特に女の子は成長が早く,それなりの会話ができるようになりますから,聞いてみれば何かわかるかもしれません。ちなみに下の坊主はiruchan同様,3歳ではまだ会話ができませんでした。

ということで娘が3歳になった頃,聞いたことを書いておきたい,と思います。

  ○○(娘の名)ちゃんはお母さんのお腹の中にいたときのこと,覚えてる?

って聞いたら,娘ははっきり,

  おぼえてる~~~。

と答えました。

ちょっと驚きましたが,続いて質問。

  中はどうだった?

      うかんでた.....。

と答えました。う~~ん,なんかウソくさいけど,娘はそう答えました。羊水の中で,頭を下にして寝ているわけですし,そんな風に感じていたのかもしれません。

ひょっとして,目が見えているかもしれないと思い,

  目は見えてた?

と聞くと,

  くらかった.....。

と言うことは目が見えている,と言うことですね

iruchanが子供の頃,赤ん坊は目が見えない,と言うことになっていました。ネコの子なんか,完全にそうですよね。そもそも目をつむっていますし。

でも,最近の研究では人間の子は生まれた直後から目が見えている,と言うことになっています。

まあ,恐竜がiruchanが子供の頃は爬虫類でしたけど,かなり前から鳥類の先祖で,温血動物で羽毛が生えていた,と言うことになっているくらいなのですから,科学の進歩はスゴいです。とはいえ,そういや,1910年代に提唱された大陸移動説はまったく受け入れられませんでしたが,ある程度,理解されるようになってからもその理由がずっとわからず,基礎であるプレートテクトニクスの理論が確立したのは1960年代になってから,と言うのですから最近です。これじゃ,地震の予知なんてできるわけがない,と思います。

と言う次第ですけど,赤ん坊が生まれた直後から目が見えている,ということなら,胎内でも,まだ当然,羊水の中ですから,ぼんやりと明かりが見える程度のことだとは思いますが,娘は目が見えていて,少なくとも明るさは感じていたようです。


ついでに,もし,目が見えているなら,耳も聞こえているはず,と考えました。

  お母さんやお父さんの声は聞こえていた?

  きこえてたよ。

と娘は答えました。やっぱりそうか。

よく,赤ん坊が母親の顔を見て笑いますが,これは心理学者によると,親は子供の笑い顔を見てそれがうれしくなって,子供の世話をするので,それを子供が本能的に知っていて笑うのだ,という説明がなされますが,単に,胎内で声を聞いていたので,聞き慣れた声がして安心して笑っているのではないでしょうか。この人がおかあちゃんか....って思っているのでしょう。

  生まれたときはどうだった?
 
  くるしかった......。

なるほど。やはりそうか。どおりで苦しそうな表情でしたし,赤ん坊にとっても出生は一大事業なのだと思います。

あと,胎内記憶じゃないですけど,この頃,小児科の先生に,

  食べるものはなにが好きかな?

と聞かれ,

  やさい~~。

と答えたので,先生が喜んで,

  じゃ,野菜の中ではなにが好きかな?

  ぶろっこり~~。

と答えてなおさら先生が喜んだ,と言うのも思い出しました。そういや,娘はよく,小さなプラスチックの皿に載せた,小さく刻んだブロッコリを手づかみでよく食べていました。

iruchanは今はちゃんと食べますけど,ブロッコリはあまり好きではなく,子供の頃になくてよかった,と思っています。昔は日本では見かけない野菜でしたからね....。

おまけに,その先生は高齢の女性でしたが,驚いたことにiruchanが子供の頃,よく診ていただいた先生と学生時分同期だった,とわかってビックリした記憶があります。その頃,iruchanは自分が生まれたところとはずっと遠くに住んでいたんですけど.....。こういうこともあるのですね....。

          ☆          ☆          ☆

こうやって生まれてきた娘もとうとう,大学生です。▲のようなことをしゃべっていたのに,この前聞いてみたら,そんなこと言ってたの,と言う次第ですから,やはり幼少期の記憶は消えてしまうようです。

それに,もうひとつ,実験すべきことがありました。

どうも,日本人の子は "うまみ" をおぼえているらしく,だしを薄くお湯でのばして哺乳瓶で与えるとうれしそうな顔をする,とのこと。そういや,娘は魚が好きなので,たぶん,娘もこうやってみたら,喜んだだろう,という気がしますが,実験し損ねました......。

最後に,なんかやれやれ,と言う気持ちもしますけど,彼女の将来に幸あれ,と思います。

また,本当に嫁はんには感謝,です。母もそうだったと思いましたけど,やはり女性は偉大です。


nice!(7)  コメント(0)